サイモン・ル・ボン(本名:Simon John Charles Le Bon/1958年10月27日 ~)は、

イングランドのバンド「デュラン・デュラン」のヴォーカル、シンガーソングライター。

 

 

1958年10月27日、サイモン・ジョン・チャールズ・ル・ボンは、

イングランドのロンドン郊外で生まれた。

小さい頃から地元の教会の合唱団に所属していた。

小学校の先輩にエルトン・ジョンがいる。

 

バーミンガム大学(University of Birmingham)に進学し、演劇を専攻した。

彼はパンクバンドのオーディションを受けたり、劇場の裏方として働いたり、

テレビのコマーシャルに数回出演した。

また、ロンドンのウエストエンドでミュージカルに数回出演した経験がある。

 

1978年、サイモンはイスラエルの集団農場キブツで働いた。

同年、ニック・ローズとジョン・テイラーを中心に、「デュラン・デュラン」(Durand-Durand)が

バーミンガムにて結成される。

バンド名はジェーン・フォンダ主演で1968年のSF映画『バーバレラ』(Barbarella)に登場する

悪役「デュラン・デュラン博士」(Durand-Durand)に由来している。

当時バンドの登竜門となっていた、バーミンガムのクラブ「バーバレラ」が

同映画から命名されていたため、バーバレラでの演奏を目指す意思を表明したものである。

 

1980年、サイモンの当時のガールフレンドであるフィオナが働いていたバーミンガムの

ナイトクラブ「ラム・ランナー」で、デュラン・デュランが定期的に演奏していた。

フィオナはバンドがヴォーカルを探していることを知り、サイモンにオーディションを受けてみるよう勧めた。オーディション当日、サイモンは豹のプリントの付いたピンクのズボンを履いて、

詩の沢山書かれたノートを持って現れたという。彼らはとりあえず夏の間だけ一緒に

活動しようということになった。その後6週間、バーミンガムやロンドンで演奏を続けた。

こうしてサイモンは、バンドに迎え入れられた。

サイモンが採用された理由は、「ルックスの良さ」、「魅力的な声」、「歌が上手い」、

そしてオーディションを受けた人達の中で彼だけが「詩や曲を書き溜めたノート」を

持参していたからである。

同年12月、EMIレコードと契約することになった。

 

デビュー時のメンバーは、リーダーのニック・ローズ(Nick Rhodes/key)、サイモン・ル・ボン(Simon Le Bon/Vo)、ジョン・テイラー(John Taylor/B)、ロジャー・テイラー(Roger Taylor/Ds)、アンディ・テイラー(Andy Taylor/G)の5人。

なお、テイラー姓のメンバーが3人いるが、いずれも血縁関係はない。

 

1981年2月、シングル“プラネット・アース”(Planet Earth)でデビュー。全英12位。

 

4月、シングル“ケアレス・メモリーズ”(Careless Memories)をリリース。全英37位。

6月、1stアルバム『デュラン・デュラン』(Duran Duran)リリース。全英チャートで3位を記録。2度目の全英ツアーを行う。

 

7月、シングル“グラビアの美少女”(Girls On Film)をリリース。全英5位。

9月、パリ、ブリュッセルなどでライヴを実施。その後、全米ツアーを行う。

11月、シングル“マイ・オウン・ウェイ”(My Own Way)をリリースし、全英14位。

12月、3度目の全英ツアーを行う。

 

1982年4月、PV撮影のため、スリランカへ。

4月25日-5月1日、初来日公演。東京、大阪、名古屋で5公演を行う。

5月、シングル“ハングリー・ライク・ザ・ウルフ”(Hungry Like The Wolf)をリリース、全英5位。スリランカ・ロケの映像を使用したラッセル・ムルカイ監督のPVはMTVで最もオンエア回数の多いミュージックビデオのひとつとなった。

 

同月、2ndアルバム『リオ』(Rio)をリリースし、全英2位。

 

6月から8月にかけて北米ツアーを催行。8月からはブロンディのオープニング・アクトだった。

8月、シングル“セイヴ・ア・プレイヤー”(Save A Prayer)をリリースし、全英2位。

9月から10月に、ヨーロッパ・ツアーを行う。

10月30日から、全英ツアーを行う。

11月、シングル“リオ”(Rio)をリリースし、全英9位。アメリカでは翌1983年4月にリリースし、

最高位14位。

12月、ビルボード・チャート(以下「全米」)に“ハングリー・ライク・ザ・ウルフ”が77位で初登場。

 

1983年3月、“ハングリー・ライク・ザ・ウルフ”が全米で最高位3位を記録。

同3月、シングル“プリーズ・テル・ミー・ナウ”(Is There Something I Should Know ?)をリリースし、全英で初登場1位、全米でも4位を記録。

4月、映像クリップ集『デュラン・デュラン』リリース。

6月、1stアルバム『デュラン・デュラン』に“プリーズ・テル・ミー・ナウ”を追加収録して、

アメリカと日本で再リリース、全米10位を記録。

2ndアルバム『リオ』が、アメリカで最高位6位を記録。

7月、イギリス王室主催のチャリティ・コンサートに出演。

9月、ジョン・テイラーとロジャー・テイラーが、プロモーションのため来日。

10月、シングル“ユニオン・オブ・ザ・スネイク”(Union Of The Snake)をリリースし、

全英3位、全米3位。

11月、3rdアルバム『セブン・アンド・ザ・ラグド・タイガー』(Seven and the Ragged Tiger)を

リリースし、全英1位、全米8位を記録。

12月、全英ツアー開始。

 

1984年、シングル“ニュー・ムーン・オン・マンデイ”(New Moon On Monday)リリース。

4月16日、シングル“ザ・リフレックス”をリリースし、全英で初のシングルチャートNo.1を獲得。

5日遅れで発売された全米でも6月23日付〜6月30日付の2週連続、1位を達成した。

10月26日、『アリーナ』からの先行シングル“ワイルド・ボーイズ”(The Wild Boys)がリリースされ、全英2位、11月3日発売となったアメリカでは1984年12月15日付〜1985年1月5日付の4週連続で全米2位を記録した。

11月12日、ライヴアルバム『アリーナ』(Arena)をリリース、全英6位、全米4位。

 

1985年、シングル“セイヴ・ア・プレイヤー”がアメリカで発売、全米16位となった。

サイドプロジェクトも始動。ジョン・テイラーとアンディ・テイラーがドラマーに元シックのトニー・トンプソン、ヴォーカルにロバート・パーマーを迎え、「パワー・ステーション」(The Power Station)を結成。アメリカでヒットする。

サイモンとニック、そしてロジャー・テイラーは「アーケイディア」(Arcadia)を結成し、唯一制作したアルバム『情熱の赤い薔薇』(So Red The Rose)にスティングやデヴィッド・ギルモア、ハービー・ハンコック、グレイス・ジョーンズ、土屋昌巳などの参加で話題を呼ぶ。シングル“エレクション・デイ”(Election Day)が全英7位、全米6位になった他、『情熱の赤い薔薇』は全英30位、全米23位となった。

同年7月13日に行われたライヴエイドに参加(参加会場は母国のイギリスではなくアメリカ・フィラデルフィアのJFKスタジアム)。“007 美しき獲物たち”、“ユニオン・オブ・ザ・スネイク”、“セイヴ・ア・プレイヤー”、“ザ・リフレックス”を披露。なおパワー・ステーションも参加している。

5月6日、シングルリリースされた“007 美しき獲物たち”(A View To A Kill 007)が7月13日付~7月20日付で2週連続第1位を獲得、全英では第2位。

同年、ロジャー・テイラー(実家の農家に専念するために脱退。後にアルバム『サンキュー』に

2曲参加)とアンディ・テイラー(4thアルバム『ノトーリアス』に数曲参加)が脱退する。

同年、サイモンはファッションモデルのヤスミン・パヴァーネと結婚。3人の娘に恵まれる。

 

1986年、ニック、ジョン・テイラー、サイモンの3人でバンドの活動は続行。

アルバムのセッションには後にメンバーとなるフランク・ザッパ・バンド、ミッシング・パーソンズでの活動で知られるウォーレン・ククルロ(G)、及び元アヴェレイジ・ホワイト・バンドの

スティーヴ・フェローン(Ds)が参加。

11月16日、アルバム『ノトーリアス』(Notorious)をリリース、全英16位、全米12位。

 

1987年、アルバムからシングルカットされたタイトルナンバー“ノトーリアス”(Notorious)が

1月10日付で全米2位を記録、全英では7位となった。

 

1988年9月19日、シングル“アイ・ドント・ウォント・ユア・ラヴ”(I Don't Want Your Love)が本国イギリスで発売、全英では最高位14位だったが、10月15日発売となったアメリカでは12月3日付で全米4位を記録。この曲を最後にしばらくバンドはトップ10ヒットから遠ざかる。

10月18日、5thアルバム『ビッグ・シング』(Big Thing)を発表。全英15位、全米24位。

 

1989年、6thアルバム『リバティ』(Liberty)をリリース、全英8位、全米46位。

 

このアルバム発表時よりバンドはプロモーションのためのツアーを行わず、

「すぐにレコーディングに取り掛かる」と宣言。

ウォーレン・ククルロとスターリング・キャンベル(Ds)が正式メンバーとして迎え入れられる。

 

1990年、クリスマス前、スターリングがニューヨークへ帰り、それきり戻って来なかった。

 

1991年、4人での活動を始める。

 

1993年、7thアルバム『デュラン・デュラン[ザ・ウェディング・アルバム]』(Duran Duran [A.K.A."The Wedding Album"])をリリースし、全英4位、全米7位。アルバムからのシングルカット“オーディナリー・ワールド”(Ordinary World)と“カム・アンダーン”(Come Undone)の大ヒットでシーンに復活。新しい世代のファンの獲得に成功する。

 

1995年、カヴァーアルバム『サンキュー』(Thank You)を発表。全英12位、全米19位。

 

1997年、バンド結成時からのメンバーであったジョン・テイラーが脱退。

再びバンドは停滞期に突入する。

 

2001年、オリジナルメンバー5人が再会し、再びサイモン・ル・ボン、ニック・ローズ、

ジョン・テイラー、アンディ・テイラー、ロジャー・テイラーの5人揃って活動を開始。

これを受けて、ウォーレン・ククルロがバンドから身を引く。

 

2003年、日本を皮切りに米国、豪州などでツアーを展開、成功を収める。

 

2004年、復活第一弾となる10thアルバム『アストロノート』(Astronaut)をリリース、 

全英3位、全米17位を記録。シングル"(Reach Up for The) Sunrise"が全英5位を記録した。

 

2005年、ロジャー・テイラーが足の小指を「骨折」したという理由で、予定されていた日本ツアーをすべてキャンセル。しかし、日本ツアー予定日当日にロジャー・テイラーが元気にドラムを叩く姿が海外で放送されたため、各方面で物議を醸す。

8月、代わって「summer sonic 2005」の東京・大阪両会場で公演。併せて東京で1日だけの単独ライヴも行った。

 

2006年、アンディ・テイラーが再度バンドを脱退し、ミュージシャンを引退した。

 

2007年7月1日、「コンサート・フォー・ダイアナ」に参加。

7月7日、「Live Earth コンサート」に参加。

11月、11thアルバム『レッド・カーペット・マサカー〜美しき深紅〜』(Red Carpet Massacre )を

リリース、全英44位、全米36位。

 

2010年、12月21日、マーク・ロンソンをプロデューサーに迎えた12thアルバム『オール・ユー・ニード・イズ・ナウ』(All You Need Is Now)をiTunes Store先行で発表。2ndアルバム『リオ』に回帰したサウンドを展開している。全英11位/iTunes1位、全米29位/iTunes2位を記録。

 

2011年2月、アルバム『オール・ユー・ニード・イズ・ナウ』をCDでリリース。

 

2015年9月11日、再びナイル・ロジャース、マーク・ロンソン、ミスター・ハドソンらをプロデューサーに迎え多彩な豪華ゲストが参加した5年ぶりの13thアルバム『ペイパー・ゴッズ』(Paper Gods)をリリース、全英5位、全米10位を記録。最初のシングル“Pressure Off”は、アメリカの歌手ジャネール・モネイをフィーチャーしている。

 

2018年、サイモンの2番目の娘が出産、彼にとって初孫となる。

 

2020年9月、サイモンがSpotifyで新しいポッドキャストシリーズ「WHOOOSH!」を開始。

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「サイモン・ル・ボン」「デュラン・デュラン」

公式サイト

duranduran.warnereprise.com

Sony Music Online Japan「デュラン・デュラン」

https://www.sonymusic.co.jp/artist/DuranDuran/