それは 15年以上前のことだったと思います。
名前や文字そのものに宿る 不思議な力に 心底驚嘆し、自身も本格的にその世界を学んでみようと 歩き始めた最初の頃でした。
周囲が 対象とその名をイコールとして「観る」=「認識する」ことで 対象であるその人の人生は その名が表現する世界どおりに 形作られてゆくものである。
姓名とは何か、姓名判断の世界とはどうなっているのか。 最初に学んだ骨子のひとつがこれでした。
わかりやすく例を挙げます。
山田太郎 という名前の人がいたとします。
1.その人は自分を 「山田太郎」であると設定し、「自分は山田太郎である」として 人生を送ります。
※厳密に言うと、親から名づけられ設定させられる、です
2.必然的に、山田太郎さんを取り囲む周囲の人たちは 彼を「山田太郎」として認識(=観る)し、その名を呼び続けます。
ここで あなどれないのが「2」なのです。 周囲がその人を「山田太郎」と ラベル認識することで、その人は 周囲から「山田太郎」という運命軌道を形成させられ、その軌道にのっとったレールを歩むのです。
歩むというか、歩むしかなくなるのです。 このとき、周囲の目の数が多ければ多いほど、軌道の色は濃く、強固になります。
つまり、「観測行為」=周囲が対象をどう観るか(=認識するか) これが個の運命の輪を回してゆくのです。
今日のタイトルどおり、観るというのは業(カルマ)そのもの です。
業(カルマ)というと、少しぎょっとするかもしれませんね。
この言葉は、ネガティヴ印象だけのようにとらえられるかもしれませんが、そもそもカルマは「行為」という意で、行為とは、ベクトルの方向次第で良し悪しがわかれますので、カルマは吉凶どちらも含んでいます。
この「観る」という業(カルマ)ですが、観るとは、認識することとイコールです。
ここでの「観る」は 観るといっても 顕在意識で観る、浅い風景だけではありません。
わたしたちは どこまでも深く、目に見えない意識の階層をもっており、それは深ければ深いほど、他者と共有し、そして時間(歴史)を超えて存在します。
ユングの言葉を借りるならば、「集合無意識」があてはまるでしょう。
名前を通して「観る」行為は 意識の奥深くまで貫通しているのです。
だからこそ、名前をもつ対象の運命軌道を形作ってしまうほどのパワーがあるということ。
「自分の人生は自分で創る」 誰もがそうしたいところですが、実は、環境から形作られているところが圧倒的に多い。むしろそれだけだといってもよいかもしれません。
昨日の日記では、「人生にはその人固有の「窓」がある」という表現をしましたが、その固有の窓は自由選択ではなく、名前の引力で
「はい、この窓から景色を眺めてね~」 と 強制連行させられるものです。
名前を形成する「文字」は、誕生以来、長い歴史の中で人が「念」(=意味づけ)を蓄積してきたからこそ、パワーがあり、そして誤用するならば足かせにもなるのです。
名前、そして文字の力を あなどることなかれ。
姓名判断のフィルターから観た世界は、それを断言しています。
ヘルメスの丘 伊野華絵(いのはなえ)
http://inohanae.world.coocan.jp/