わたしは長らく、かなりの時間、とんだ勘違いをしていた気がします。
ということに気づいたのは、
身近な出来事に対する不満と、一方では遠くの何か崇高なものを
求める自分とを向き合わせたときでした。
人は大きな目的や崇高な理念に身を捧げるとき、
自らの存在が拡大したような錯覚に陥り、心地よい高揚感を覚えるものです。
しかし、たとえば、国家や偉人のような存在にに自分を重ね合わせることと、
一方で、家族や私利私欲に執着することは
本質的には同じ「自己の枠組み」への囚われに過ぎない・・・のでした。
それは、鳥籠が黄金でできていようと、竹で編まれていようと、
「その中に閉じ込められている」という事実に変わりはないのであります。
自我というものはは常に「自分を何者かである」と定義したがる。
何かに属し、何かのために生きているという
物語を紡ぐことで、自らの根源的な不安を埋めようとする。
たとえば、職場での上司を「器が小さい」と蔑んでいたわたしも、
また一方で、「大きな憧れの人物に仕えていたあのころの自分」というわたしも
一見違うようにみえても同じ類の「虚像」を握りしめていたに過ぎない。
後者のその満足感は、真実の安らぎではなく、
自我が自らを誇示するための栄養源だったのだと。
真の自由とは、おそらく・・・
あらゆる定義から解き放たれること。
大きなものにも、小さなものにも、自分を投影することを止めること。
高揚感に浸る自分と、他者を裁く自分、その両方を静かに見つめる
「観察者」としての意識に立ち返ることが必要なのです。
どちらの側にも立たず、ただ現象としてそれらを眺めるとき、
おそらくわたしは初めて、
何ものにも依存しない自らの真実の姿に出会うことになる。
大義という美名の下に自分を失う必要も、
日常の些事に埋没する自分を責める必要もなく、わたしは、
何者かになろうとする衝動の背後にある、静寂そのものである。
その静かな意識の中に留まり、湧き上がる感情をただ受け流す。
境界線を引いて他者と比較するのを止め、ただ「在る」という
純粋な事実に寛ぐとき、
わたしは・・・
宇宙という大きな命そのものとして、真の満足を知ることでしょう。
外側の対象に自分を求める旅を終え、内なる静寂に安住できますように。
伊野華絵(いのはなえ)