「死にたい」に関する記事の続き(03)です。
 
01
 
前回は、死にたい人は死にたいという気持ちをもつことでどうにか生きているのではないか、死にたいと思うことを罪滅ぼしとして生きているのではないか、ということを書きました。
自分は死ななければいけないというルールが自分の中にあるため、生きていることに罪悪感があるのではないか、ということですね。
このルールは「何かしらの理不尽な状況を納得するために、自分が生きているのが悪いということにした」という、生きるための術だったのだと思います。
 
生きるのが罪というのは、基本的にありえません。
生きるというのは機能なので、自然現象みたいなものです。
 
死ぬことも罪ではないです。
何が起きても何も起こらなくても、絶対に必ず人は死ぬので、死もある意味自然現象です。
 
 
もし死にたい気持ちが罪悪感を抱えている辛さからきているのだとしたら、その罪悪感が無くなれば生きる辛さが減り、死にたい気持ちも減っていくと思います。
フォーカスするのは「死を持ち上げてる罪悪感の方」ということですね。
 
罪悪感を説明するのは難しいんですが、私の感覚では、罪悪感は「完全に自分由来の感情」です。
相手が罪悪感を抱くように主張することは誰でもできますが、その人が罪悪感を抱くかどうかは本人が決めています。
なぜなら、出来事そのものには指向性が無いからです。
 
『肉を食べる』という行為は、ただ肉を食べるという行為にすぎません。
 
これを悪いこと=罪、と感じる人がいた場合、それは「その人がそれを罪だということにしたくてしている」ので、肉を食べることで罪悪感を覚えるのは本人が望んでいること、となります。
これは極端な例だとは思いますが、基本的には全部一緒かと。
罪悪だと思っているものは、自分がそれは罪悪だと決めていることです。
キッカケとして、自分に影響力のある誰かが決めたその基準を自分も利用している、という場合も多いでしょうが、これも結局「その決まりを自分も使う」と決めているのは自分です。
 
なので、本質的には「誰かが自分に罪悪感を植え付ける」という現象は起きません。
自分が自主的に罪悪感を抱いて、なおかつそれを他人由来にすることで、自分の罪悪感に対して自分でアプローチしなくていい、ということにしているんだと思います。
誰かのせいにすることで、自分の問題を自分で解決せず、その誰かに解決させようとしている、ということですね。
 
だからずっと辛い状況が続くわけです。
なぜなら、自分以外には解決できないからです。
罪悪感は自分が自分に植え付けている、というのが前提だとしたら、自分の中のものを他人が取り除くことはできないですよね。
しかし自分の中の罪悪感を他人由来ということにしてしまうと、自分がどうにかすることではない、と定めてしまいます。
結果的に、不可能な方法しかない、と感じると思うので、そうなると「解決できないから死ぬしかない」となるわけです。
自分の中の罪悪感を取り除くことは可能なのですが、それを誰かにやってもらおうとしたら不可能です。
自分の奥底の罪悪感を取り除く、そんな深度の深い干渉を他人ができたとしたら、そっちの方が恐ろしいです。
他人ができるのは「キッカケが他人だとしても、罪悪感を抱いているのは自分の決定だから、自分で取り除くしかないんだよ」と示すことくらいです。
 
 
罪悪感とは要するに「うしろめたい」という感情です。
これが一番人を苦しめ、疲弊させるものである、という説もあるくらい、苦しい重荷です。
免罪符、という言葉をみなさんご存知でしょうか。
某十字架で有名な宗教は、生まれたことを罪(原罪)とすることで、全ての人に罪悪感を抱くよう誘導し、この免罪符という見える許しを売ることで運営していた時代もあるようです。
 
罪は罰であがなうものではなく、許すもののようです。
 
許しとは慈悲や温情とか、そういったいかにも清廉で尊い感じのものではないと私は考えています。
許しとは、認めることかと。
事実に余計なものをくっつけず、ただそれがあると認識することではないかと思います。
受容とか許容とか、そういったニュアンスですね。
私はこの受容と許容のプロセスには「なぜ?」という要素が必要だと思います
 
罪だと感じている要素に対して「しかしなぜこれが罪なのだ? これが罪だという認識はどこからもってきたんだ?」という疑問が出発点だと思っています。
単純に許しと言われても私はピンときません。
これまでに許しの経験が多い人はもう許せてるハズなので、許しがわからないということは許された経験が少ない、ということかと思うのです。
これはある意味、まっとうに生きてきた人こそ経験しないことだと思います。
規律やルールに従うのは、咎められないかもしれませんが、何かを許されているわけではないので。
なので、真面目でまっとうで正しい人は、自分も他人も許せない人が多いです。
 
 
目指すところは「自分に生きることを許す」ですが、そこまでにいくつもの障害がおそらくあるのでしょう。
それを「なぜだ?」という疑問ツールを使って解除していく感じですかねぇ。
なぜなのだろう? という視点があると、その時点でもうすでにちょっと楽です
私はそういうとき、まずは調べます。
自分が今感じている要素を言葉にして、ネットで調べます。
いろんな記事を見て、しっくりこないこともありますが、言葉を変えたりして、何度も何度もしっくりくる何かを探します。
そうしているうちに、なんとなく自分の感覚というか、本当のところが見えてくる感じがします。
本当のところはとてもシンプルです。
「ホントは○○したかった」「ホントは○○が嫌だった」「○○と言えなかったのが悔しかった」「○○を求めていることを誰かに知ってほしかった」などなど。
 
これらは「まっとうじゃない」こともありますし「自分勝手」なこともありますし、場合によっては「社会的に許されないこと」である可能性もあります。
しかし、自分の気持ちに関しては正しいか善かなんてことはどうでもいいんです。
まっとうなことじゃないなーけどしょーがない、自然発生してるんだもの、という感じで、在る事は許しましょう。
第一、まっとうな人間なんてこの世におそらくいません。
単にみんな嘘を使用しているだけです。
そんな中で、自分は表も裏も善でまっとうでいなければ、という生き方をするのはとてもしんどいでしょう。
この状態はけっこう規律的で他罰的です。
ルールに従っていない人を攻撃する大義名分を得るために規律に従っている、という場合も大いにあります
なぜなら昔の私がそうだったからです。
 
 
罪悪感については次回もうちょっと続けて書こうと思います。
私が書いていることよりもよりわかりやすい記事があるので、興味のある方はよかったら参照してみてください。取り上げてる例が片側からの見方に寄ってる感はありますが、わかりやすいなーとも感じました。