「言っていることとやっていることが違う場合、その人の意思は『やっている事』に現れる」
心理学系の何かで↑の内容の記事を見てからというもの、相手の発言と行動を分けて見るようになりました。
同時に、自分について振り返る時もとても役に立っています。
以前、アサーティブコミュニケーション(アサーション)についての講習を受けたことがあり、その時に知った「会話において言葉が伝えられるメッセージは7~8%にすぎない」という内容も驚きでした。
以前働いていた介護の業界でも「傾聴」というのはとても大きな役割をもっていて、同じことを女性用風俗の面接でも教わりました。
残念ながら女性用風俗で働くことはできませんでしたが、そのときの合同面接で知ったことはとても有益でした。
さて、表題の対話における言葉の位置づけですが、言葉とは「そのまま額面通りに受け取ってはいけないもの」です。
なぜかというと、言葉というのは人が発するモノの中で「一番加工されているモノ」だからです。
気持ちや思いの純正品ではないということです。
しかしこれは、言葉は信ずるに値しないという意味ではありません。
言葉をそのまま受け取るのではなく、その人がその言葉を発する意味を考える、というのがコミュニケーションの理想の形なのだと思います。
言い手の気持ちは思考のフィルターを通り、価値観のフィルターを通り、加工されてから言葉として発されます。
受け手は言葉を受け取り、自分の価値観のフィルターを通してから解釈し、自分の思考のフィルターを通って、自分なりの解釈で理解します。
これだけ多くの行程を通るのですから、対話とはそもそも「互いの勘違い」なのです。
その勘違いの齟齬が少ないとき、うまいこと相手に自分の気持ちが伝わり、自分は相手の気持ちを知ることができます。
なので、基本的に間違っているが概ね近い、というのが会話のベースだと思うのです。
知っている言葉の種類、理解している言葉の意味、それも一人として同じではありません。
また、同じ言葉でも下の要素で意味がまったく違ってきたりします。
「誰が」
「どういう状況で」
「誰に対して」
「どんな表情で」
「どこを見ながら」
「どんな動きをしながら」
「どれくらいの声の大きさで」
「どういう言い方で」
「どこを向いて」
などなど、言葉を補完する要素はたくさんあります。
そしてこの、言葉を補完する要素こそが、本音に近い部分です。
なので、こういった要素を見て聞いて「その言葉をその人が発した意味」を推測するわけです。
そうなると、例えば愛想笑いや作り笑いは嘘ではないか、という見方もできます。
しかしここで重要なのは、それらが嘘かどうかではありません。
それらの嘘をなぜその人がその時必要としたのか、という部分です。
例えば愛想笑い一つにしても、いろいろな背景があります。
・仕事でそれを意識していたら無意識に笑顔を作るようになっていた
・笑顔でいることが大切だと尊敬する人に教わったから笑顔でいるようにしている
・笑顔を向けると相手がこちらに敵意を向けにくいと感じたから、とりあえず笑顔で牽制している
・人に対して笑顔を向ける自分が好きだから
などなど、理由は様々なはずです。
これに良し悪しはありません。
例え嘘の笑顔だとしても、それはその人が必要なことなので、悪いと断じる権利は誰にもありません。
そして、一番偽りやすいのが、言葉です。
顔面蒼白で辛そうな表情をしていても「大丈夫……」と言う人はいっぱいいます。
これを見聞きして、絶対大丈夫じゃないだろうな、と思う人はいっぱいいるでしょう。
ここで「これは大丈夫じゃないハズだから、助けなければ」と思う人もいれば「本人が大丈夫と言っている以上は余計な事をしない方がいいだろう」と思う人もいるでしょう。
これはその人が相手の発した情報を自分のフィルターに通した結果、認識の形が変わるので、同じような理解にはならないということです。
しんどくても他人に借りを作りたくないから大丈夫と言う人もいれば、助けては欲しいけど助けてと言う経験がなさすぎて大丈夫と言うしかないという人もいるでしょう。
受け取る側は、こういうとき自分は助けてほしくても助けてとは言えない人なら「大丈夫(ではない)」と認識して手を貸すでしょうし、こういう時は本当に大丈夫な人なら「大丈夫なんだろうな」と認識して手出しはしないでしょう。
発信者と受信者の間に齟齬がなければ問題ないのですが、齟齬があった場合面倒なことになります。
「あの時助けてくれなかった」
「あの時余計な手出しをされた」
「悪意から助けてくれなかったんだ」
「悪意をもっていらぬ手出しをしてきた」
こういう風に感じる人もいます。
おそらくですが、こういう人は「自分の中に他人への悪意がある」から、相手も悪意を持っているはずだ、と思うのだと私は見ています。