「言っていることとやっていることが違う場合、その人の意思は『やっている事』に現れる」

 

心理学系の何かで↑の内容の記事を見てからというもの、相手の発言と行動を分けて見るようになりました。

同時に、自分について振り返る時もとても役に立っています。

 

以前、アサーティブコミュニケーション(アサーション)についての講習を受けたことがあり、その時に知った「会話において言葉が伝えられるメッセージは7~8%にすぎない」という内容も驚きでした。

以前働いていた介護の業界でも「傾聴」というのはとても大きな役割をもっていて、同じことを女性用風俗の面接でも教わりました。

残念ながら女性用風俗で働くことはできませんでしたが、そのときの合同面接で知ったことはとても有益でした。

 

 

さて、表題の対話における言葉の位置づけですが、言葉とは「そのまま額面通りに受け取ってはいけないもの」です。

なぜかというと、言葉というのは人が発するモノの中で「一番加工されているモノ」だからです。

気持ちや思いの純正品ではないということです。

しかしこれは、言葉は信ずるに値しないという意味ではありません

言葉をそのまま受け取るのではなく、その人がその言葉を発する意味を考える、というのがコミュニケーションの理想の形なのだと思います。

 

言い手の気持ちは思考のフィルターを通り、価値観のフィルターを通り、加工されてから言葉として発されます。

受け手は言葉を受け取り、自分の価値観のフィルターを通してから解釈し、自分の思考のフィルターを通って、自分なりの解釈で理解します。

これだけ多くの行程を通るのですから、対話とはそもそも「互いの勘違い」なのです

その勘違いの齟齬が少ないとき、うまいこと相手に自分の気持ちが伝わり、自分は相手の気持ちを知ることができます。

なので、基本的に間違っているが概ね近い、というのが会話のベースだと思うのです。

 

知っている言葉の種類、理解している言葉の意味、それも一人として同じではありません。

また、同じ言葉でも下の要素で意味がまったく違ってきたりします。

「誰が」

「どういう状況で」

「誰に対して」

「どんな表情で」

「どこを見ながら」

「どんな動きをしながら」

「どれくらいの声の大きさで」

「どういう言い方で」

「どこを向いて」

などなど、言葉を補完する要素はたくさんあります。

 

そしてこの、言葉を補完する要素こそが、本音に近い部分です。

なので、こういった要素を見て聞いて「その言葉をその人が発した意味」を推測するわけです。

 

そうなると、例えば愛想笑いや作り笑いは嘘ではないか、という見方もできます。

しかしここで重要なのは、それらが嘘かどうかではありません。

それらの嘘をなぜその人がその時必要としたのか、という部分です。

 

例えば愛想笑い一つにしても、いろいろな背景があります。

・仕事でそれを意識していたら無意識に笑顔を作るようになっていた

・笑顔でいることが大切だと尊敬する人に教わったから笑顔でいるようにしている

・笑顔を向けると相手がこちらに敵意を向けにくいと感じたから、とりあえず笑顔で牽制している

・人に対して笑顔を向ける自分が好きだから

 

などなど、理由は様々なはずです。

これに良し悪しはありません。

例え嘘の笑顔だとしても、それはその人が必要なことなので、悪いと断じる権利は誰にもありません。

 

そして、一番偽りやすいのが、言葉です

顔面蒼白で辛そうな表情をしていても「大丈夫……」と言う人はいっぱいいます。

これを見聞きして、絶対大丈夫じゃないだろうな、と思う人はいっぱいいるでしょう。

ここで「これは大丈夫じゃないハズだから、助けなければ」と思う人もいれば「本人が大丈夫と言っている以上は余計な事をしない方がいいだろう」と思う人もいるでしょう。

これはその人が相手の発した情報を自分のフィルターに通した結果、認識の形が変わるので、同じような理解にはならないということです。

 

しんどくても他人に借りを作りたくないから大丈夫と言う人もいれば、助けては欲しいけど助けてと言う経験がなさすぎて大丈夫と言うしかないという人もいるでしょう。

受け取る側は、こういうとき自分は助けてほしくても助けてとは言えない人なら「大丈夫(ではない)」と認識して手を貸すでしょうし、こういう時は本当に大丈夫な人なら「大丈夫なんだろうな」と認識して手出しはしないでしょう。

 

発信者と受信者の間に齟齬がなければ問題ないのですが、齟齬があった場合面倒なことになります。

「あの時助けてくれなかった」

「あの時余計な手出しをされた」

「悪意から助けてくれなかったんだ」

「悪意をもっていらぬ手出しをしてきた」

こういう風に感じる人もいます。

 

おそらくですが、こういう人は「自分の中に他人への悪意がある」から、相手も悪意を持っているはずだ、と思うのだと私は見ています。

自分が悪意を持ってない人は、相手が悪意をもっているということを想像できないからです。
鏡の法則、というやつですね。
 
嫌いな人が多い人は嫌われやすく、嫌いな人が少ない人は好かれやすい、というのもこれに則していると思います。
嫌いというメッセージを受信すれば、相手を嫌いになりやすいです。
逆に、好きというメッセージを受信すれば、相手を好きになりやすいです。
相手のメッセージを「嫌い」と認識するか「好き」と認識するかは、自分次第です。
自分で勝手に「好かれてるなぁ」と思って、相手にも「好きだよー」というメッセージを発信していれば、自分は基本的にハッピーでいられます。
なので、私は基本的に「みんな実際私の事好きだろうな、ほぼ」と思っています。思うようにしています。
 
このメッセージというのは、言葉ではありません。
言葉にそこまでの力はないです。
メッセージはいろんなところから発信されます。
笑顔で挨拶する、顔を見ると嬉しそうにする、握手やハグをする、手を振る、その人の情報を覚えている、以前の会話の続きをする、相手の発信している情報に興味を持つ、などなどいろいろあります。
この時に言葉はあまり多くの意味を持ちません。
交流した、交感した、会話をした、という事実の方が重要です。
 
言葉は交流で情報を交換するための道具ですが、その言葉に本当の意味を持たせているのは仕草や表情や声色などです。
対面じゃないコミュニケーションが難しいのは、相手から発信される情報が少なくなるからです。
逆に対面じゃないコミュニケーションの方が楽だと感じるときは、相手からの情報を受け取りたくないとき、自分も発信したくないというときです。
ここを突き詰めると自己開示やらなんやらという話になるので今回は書きませんが、自分がいまどんなコミュニケーションを必要としているのか、避けているのか、それについて考えるのは自分の状態や自分の本音を知るのにとても役に立つでしょう。
 
自分で自分と対話するのが、一番重要で、一番難しいことなのですけどね
 
今日英語の勉強をしているとき、even thoughという言葉が出てきて、そういえば平井堅の歌でeven ifっていう歌あったよなぁ、どんな意味なんだろう、と思いました。
こういう、思考が全然違うところをつなぐときは「自分が無意識に求めてる何かがあるかもしれないとき」なので、できるだけ引っ張ってみるようにしてます。
というわけで英語を調べつつ歌詞を改めて見てみたら、当時(高校生くらい)はよくわからなかった歌詞が理解できるようになりました。
パートごとに解釈を書いていこうと思います。
 
---A1---
たまたま見つけたんだってさっき言ったけど、
本当はずっと前から君を連れてきたかったんだ
 
キャンドルが優しく揺れるこの店のカウンターで
君は嬉しそうに彼にもらった指輪を眺めてる
-------
ここで重要なのは-彼にもらった指輪を眺めてる-ではないかと思います。
大抵の人はここで「彼(男性)が指輪を渡した相手だから、君は女性である」と認識するようなのですが、この歌では指輪の贈り主(彼)以外は性別の表記がありません。
君を連れてきたかった僕も、男女どちらかわかりませんし、君も男女どちらかわかりません。
「指輪」を「もらった」なので、この指輪は「結婚指輪とは限らない」し「まだ指にはめていない」ということを暗に示したかったのではないかと思いました。
結婚指輪なら「左の薬指」って感じのワードをいれると思うんですよね。
 
 
---B1---
君の心に僕の雫は落ちないけど
このバーボンとカシスソーダがなくなるまでは
君は 君は 僕のものだよね
-------
「雫は落ちない」の意味は難しいなーと思うのですが、落ちない代わりに今だけは(一時的には)君を独占できている、というニュアンスなので、雫が落ちる=パートナーになる、的な意味なのかな? と思いました。
「君は 君は」と続くのは最初強調かと思ったのですが、ここはおそらく-言いよどんでいる-のではないかと思います。
なぜそう思ったかというと、そのあとに続く「僕のものだよね」というワードがすごく強いからです。
ぶっちゃけバーボンとカシスソーダがなくならなくても-僕のものではない-のです。
無理やり自分に言い聞かしているように見えて、だからこれは言いよどんでいることを表現してるように感じました
 
 
---サビ1---
鍵をかけて 時間をとめて
君がここから 離れないように
 
少しだけ酔い始めてるのかな 本当の気持ちだけど
君も少し 酔った方がいい
そして僕の肩に 寄りかかればいい
 
だけど全ての言葉をまた飲み干して
君から目をそらした
-------
ここはあんまり個々の部分に意味があるようには感じていません。
サビ1全体を通して私が感じたのは以下の意味です。
「互いにお酒のせいにしてあわよくばを期待してるけど、自分から持ち掛ける勇気はない」
なんというか、とても受動的というか、主体性のない感じだなぁと。
相手を奪いたいというよりも、自分と過ちを犯してほしい、的に感じました
もっとエグイ解釈だと君が主体になって彼を裏切って僕を選んでほしい」くらいの雰囲気がある気がします。
 
 
---A2---
会話が途切れて 二人の時間がさまようたび
きまって君は彼の話ばかりを繰り返す
 
君のことはどんな事でも 知りたいはずなのに
言葉をさえぎるためだけに 煙草に火をつけた
-------
ここで重要だと私が思うのは、この二人は会話が途切れるということです。
盛り上がってないとも受け取れますし、もしかしたら「君」がそもそも乗り気ではなかったのでは、という風にも受け取れます。
「君」が彼の話をするのは、おそらく僕と彼が既知の仲だからだろうなぁと私は思っていて、共通の話題がそこしかないのかも、と思いました。
一見すると「君」が「僕」を牽制するためとか、無邪気に喜んでる、という風にも見えるんですが、彼の話をするのは「会話が途切れたとき」なんですよ。
場を取り持とうとしてるのは、誘った「僕」ではなく誘われた「君」の方だと見れます。
 
それをわからない「僕」は「君」の気遣いに直接応えることもせず、煙草に火を点けるというアクションで話を遮るわけですね。
そして自分からは何も言わず、また話が途切れるので「君」は彼の話をするしかない、という。
「僕」のクソヤローっぷりが一番出てるパートだと思います。
 
 
---B2---
君のグラスは 他の誰かで満たされてる
このバーボンとカシスソーダを飲み干したら
君は 君は彼の胸に戻るの?
-------
ここの「君は 君は」も言いよどんでるように私には見えました。
彼の元に帰る、ではなく、彼の胸に戻る、という表現が平井堅らしいですね。
セクシャルな印象も受けますし、物理的な隔たりを強く感じさせる言葉選びだと思いました。
戻る、ということは、元々いる場所が彼の胸、ということになるので、ここで「僕→君→彼」の関係性が明確になります。
 
 
---サビ2---
鍵をかけて 終電を越えて
君がこの店から帰れないように
 
今はただ独りよがりだけど 本当の気持ちなんだ
君もいっそ酔ってしまえばいい そして彼のことを忘れちゃえばいい
 
だけど残りのバーボンを今飲み干して
時計の針を気にした
-------
時間を止めるという不可能なことではなく、終電を過ぎてほしいという現実的な願いに変わりました
酔って彼を忘れてしまえばいいと願う、ということは「君」は酔ってないということで、君「も」ということは、自分は酔っている、ということですね。
「僕」が願っているのは「君も酔って、酔いのせいにして彼を忘れて、終電を逃して帰れなくなってしまうこと」ですね。
終電を逃して帰れなくなる=一夜を共にする、ということでしょう。
ものすごくきれいな表現をしてますが、要するに「酒のせいにして一時的に肩書は忘れてセックスしようぜ」ってことですよね。
 
そしてリスナーを迷わすのがこの「バーボンを飲み干した人は誰か」というところです。
 
ここまでで「僕は酔っている」「君は酔っていない」というのがわかります。
そして、どちらがバーボンを飲んでいるのかは明記されていません。
カシスソーダとバーボンでは、バーボンの方が強いお酒なのは明白です。
 
飲み物を飲み干すときは、大抵席を立つときや、場を終わらせるときだと思うので、バーボンを飲み干して時計の針を気にした人は、場を終わらせようとした人、だと思います。
 
説① 強めのお酒(バーボン)のせいにして君とワンチャンしたい僕が、願いはするものの行動には起こせなくて結局時計の針を気にしてしまった。
説② カシスソーダで酔ってしまうお酒に弱い僕の意図を知ってか知らずか、バーボンを飲んでも酔わない君が帰りを意識して時計を見た。
 
このどっちかだと思うんですよね。
私は、バーボン=男、カシスソーダ=女というイメージをうまいこと利用して、君=カシスソーダを飲んでる女性、僕=バーボンを飲んでる男とミスリードさせてるように感じました。
私の解釈では、バーボンを飲んでいるのは「君」です
そして、「僕」も「君」もどちらも男性か、どちらも女性だと思っています
 
しかしこの歌のすごいところは、これが同性愛(両性愛)の歌と解釈しても、ヘテロの歌と解釈しても、どっちでとらえても情緒的なところ。
ありがちで普遍的なことをここまで見栄えのいいオブラートに包んで歌にするのはすごい。
 
 
---サビ3---
そりゃかなり酔っ払っているけど
その責任は君なんだから
鍵をかけて 終電を越えて 時間を止めて
-------
こんなに情けないワードを締めにもってくるあたり、平井堅の歌詞の「リアルさ」が出てる感じしますね。
 
しかし、終始出てくる「鍵をかけて」の意味がイマイチわかりません。
物理的にお店のドアの鍵の鍵をかけて「君」を帰れなくするのはまったく情緒が無いのでありえないとして、じゃぁなんの鍵をかけるんだろう?
二人で過ごしているこの時間?
君を求める僕の気持ち?
彼を求める君の気持ち?
いろいろ考えられますね。
 
 
-まとめ-
この歌、切ない片思いの歌と見せかけて、実は「肉食系のヘタレが、パートナーがいる思い人を酔わせてワンナイトラブしようとしてるけど結局自分からなんもできない歌」かと思います。
僕がカシスソーダで、君がバーボンを飲んでるとしたら、お酒の強さにそこまで差がある時点で、飲みでワンチャンはほぼ無理でしょう。
でもそれしか方法が無い(思いつかない)んだとしたら「君」が「僕」を選ばないのもむべなるかな、というところですかね。
 
「君」の立場、というか肩書によっては、浮気か不倫を求める歌、というロマンチックもクソもない歌なのですが、普通に聞いただけではそれとわからないように仕上げるのが平井堅のすごいところだと思います。
ものすごく普遍的なことを、ものすごく普遍的に歌ったかと思えば、急にロマンチックな比喩にしたり、その現実と空想の間をジェットコースターさせることでなんか有耶無耶にしつつ情感だけ残す、という超上級エモ手法だと思います。
 
でも突き詰めれば、ヘタレの他力本願ワンチャンチャレンジソング(性別未定義)な歌って感じですね。
こう書くと急に俗っぽいですが、俗っぽいものこそリアルですから、そう考察できるところまで含めておもしろい歌だなと思います。
しかしまぁ、本来はシンプルな「あなたと性的に触れ合いたい気持ち」を、不倫や浮気や不貞行為という悪事に当てはめるのが当然という人たちは、片思いしてる側が切ない感じだったら許せちゃうんですかね?
私はこの「僕」はヘタレで他力本願なクソヤローだと思いましたが、ある意味超リアルなんですよね。
終電を越えて二人が一時的に一つになることは特に気にならないのですが、不倫とかをバッシングする人がこの歌を「切ない……」とか言ってたら大爆笑してしまいそうです。
 
不倫も浮気も片思いもすれ違いも両思いも全部切ないはずです。
even ifという言葉は「○○だったとしてもダメだろう」的な、ネガティブな意味の文章になることがお多いようです。
even thoughはその逆。
そこを踏まえて歌詞を見ると、たとえ終電を越えて二人が一夜を共にしたとしても「僕」が「彼」の座に収まるのは無理だろう、という意味にとれます。
だとしても、求めずにはいられず、淡い期待で一歩踏み出して「君」を誘ったのだとしたら、まぁ確かに切ないですね。

 

女王蜂というバンドをご存知でしょうか。

アニメのタイアップ曲やボーカルの人のドラマ?映画?の出演で知っている方もいるかもしれません。

 

このバンド、元々は性別や国籍が非公開というミステリアスなバンドで、ボーカルが男女の声を使い分けていて、6~7年前はかなり好きでした。

曲は荒いながらもパワーがあり、歌詞も「性別」「性」「性的なタブー(禁忌)」「人種」「表に出てこない罪」「差別」といった目を背けがちだけど決して逃げられないテーマの曲が多く、アンダーグラウンドの側が強烈に「自分の存在を無かったことにするな!」と叫んでいるような、アグレッシブさが魅力的でした。

 

 

初めて聞いた時ものすごいインパクトを受けたのは↓の「売春」という曲です。

あ、それ歌っちゃうんだ!

しかもどっちの側も自分で歌っちゃうんだ! すげー!

ってなりました。

タイトルからしてかなりアグレッシブですが、歌詞もだいぶアグレッシブです。

うまく濁してはいますが、誤魔化してはいないんです。

 

 

こちらの「Q」という曲はもっとガチです。

私はこれは、近親相姦の歌ではないかと思っています。

 

直接的な表現をせずに、ここまで鮮明にイメージを湧かせる歌詞もなかなか無いと思います。

私の解釈ではありますが、母を無くした父と娘の近親相姦と、娘が父の子供を産んだか堕胎するかしたエピソードではないかと思ってます。

が、歌っているボーカルが、おそらくMTFのトランスジェンダーなので、場合によっては父と息子の近親相姦を歌ったものかもしれなくて、なんかこう、ヒリヒリするように頭に残ります。

 

 

大分初期に出たこの「鉄壁」という曲は、人種差別と性差別の歌なのではないかなぁと私は思っています。

とてもMTFトランスジェンダーっぽい歌だなぁと感じました。

 

演奏や音質はかなり微妙です。

でもそれが問題にならないようにうまく構成された曲だと思います。

 

 

 

といった感じで、みんなが触れない分野にがっつり爪痕を残しながら活動していたバンドだと感じていたのですが、東京喰種のタイアップになった「HALF」という曲の後から、なにやら方向性が変わってしまいました。

 

 

端的に言うと、闇が消えた。

刺すような、傷痕を残すような、聞く人によってモヤモヤが残るような、そういう「引っ掛かり」がなくなったんです。

HALFのあとに出した催眠術という曲が、とてもつまらなくて、どうしたんだろうと思っていたのですが、その後に出した火炎という曲が、もう女王蜂じゃない感じだったんです。

 

 

とても明るく、とても難しく、ただうるさいだけの曲、と私は感じました。

歌詞もどこにも引っかかるところがなく、何を伝えたいのかまったくわかりませんでした。

音楽の技術的には一段上がった感じはするんですが、代わりに女王蜂らしさを失った感じです。

何かに対して日和ったような、そんな印象をうけました。

上手い具合に音を並べて、隙間なく高音と低音で音をぶつけてくるのが、ただただやかましく聞こえてしまった。

 

 

その後もアルバム数枚は聴いていたのですが、何度も聴きたくなる曲は一曲もありませんでした。

私が女王蜂をすごいと思った売春という曲の続きとも言える「回春」という曲も出たのですが、売春と比べると表現がものすごくマイルドで、まったく刺さらない。

 

売春と歌詞を見比べてみたら一目瞭然だと思います。

言葉が薄くて軽いんです。

春を売ってた側が大人になって昔を思い出してる、というテーマらしいので、そういう意味では表現が直接的でなくなったことの理由として筋は通るのですが、まったくもってつまらない。

悩みも迷いも苦しみもまったく見えない。

昔を思い出してちょっと切なくなってる、程度の歌をわざわざ女王蜂が歌う意味がわからない。

 

もしこの歌が、何かしら他からの圧力でマイルドに調整されたのだとしても、ボーカルのアヴちゃん自身がいいと思って作ったんだとしても、私の好きだった女王蜂は死んだし、もう蘇ることはないんだなと思いました。

誰もが触れたがらないところを真っ向から眼前に叩きつけるかのように歌い上げるのが私の知ってる女王蜂だったので、今の女王蜂は「アングラから闇を捨てて表舞台に立ち、陽キャにポップな歌を提供するよくいる普通のバンド」になってしまったなぁと感じています。

それが彼らにとって良いことなのであれば、まぁいいのかもしれません。

逆に、ポップで明るくないと音楽で生きていけないのであれば、今の音楽業界が本当に残念です。

 

 

女王蜂のドラムは、ボーカルのアヴちゃんの実の妹がやっていて、演奏自体はさほどうまいわけではありませんでした。

ただHALFまでの女王蜂の音楽には、技巧的なドラムは必要なかったんです。

基本が四つ打ちのダンスビートやバラードなので、ドラムはリズムを支えるのが役目で、見せ場とか特に必要ない感じだったように感じました、他のパートが圧倒的にパワーがあるので。

 

しかしどんどん名が売れていって、トータルで底上げしていかなきゃいけない状況についていけなかったのか、ドラムをやってた妹さんは活動を休止し、その後脱退しました。

プロの世界のドラムがどんなものか私はわかりませんが、何度かライブを見た感じからして、正直「火炎」のドラムを叩けてたとは思えないんですよね。

スタジオミュージシャンが代わりに叩いてたと言われても納得というか、無理もないよねというくらいのレベルの上がり方だったので……

どういうやりとりがあったのか、実態がどうだったのかはわかりませんが、見てきた私からすると「上を目指すにあたり、技術が合わない妹を切り捨てた」ってことなんだろうなと感じています。

それ自体が良いことか悪いことかというのは、私たちリスナーが決めることではないですが、こういう結果になったことでなおさら「あの頃の女王蜂」がもういなくなった、というのを痛感しました。

 

陽でポジティブな作品ばかりがもてはやされるのだとしたら、日向で息ができない人達はどうやって生きていけばいいのだろう、と思ってしまいました。

 
「優しさ」とはなんなのか、「愛情」とはどういうものなのか。
この二つの言葉はよく見聞きしますが、それがなんなのかを調べると、情報があまり一貫していないことに気づきました。
話しかけるのを優しさと思う人もいれば、話しかけられるのが嫌いな人もいて、
なんでも聞いて知ることが愛情だと思う人もいれば、知らないでいることを愛情だと思う人もいます。
 
優しさや愛情とは、個人によって解釈が違う概念ということかもしれません。
つまり、優しさや愛情は「常に一方通行」ということです。
投げ銭のような、寄付のようなものです。
相手に優しくする、誰かや何かに愛情を注ぐというのは、実行した時点で自分とつながってはいないということです。
それはつまり、優しさや愛情を向けられた側が受け取るかどうか、喜ぶかどうか、感謝するかどうか、礼をするかどうかを、こちらがコントロールできないということです。
そして、寄付は強制するものではないので、優しくすることや愛情を注ぐことは、誰かに強要することでもなく、誰かが当たり前にしてくれることでもないということです。
 
優しさや愛情は、その人が持っているリソースです
誰かに優しくされたと感じたら、それはその人が自分のリソースを分けてくれたということです。
誰かに優しくしても喜ばれなかったら、それは自分の優しさの形状が相手の優しさ受容体の型に合ってなかったということです。
こういうとき、齟齬が生まれます。
 
優しくした側は「自分の感覚で優しいと思う事」を相手に分け与えたわけなので、主観的には「優しくしてる」ということになります。
しかし、優しくされた側は自分が優しさを感じる形のものをもらってないので、それを受け取ることができず、優しくされたとは感じません。
このとき、与えた側は「あの人は自分の善意を受け取らない、優しくない人だ」と感じるでしょう。
一方与えられた側は「あの人は自分の望むことをしてくれない、優しくない人だ」と感じるでしょう。
この両者の間にあるテーマは「優しさ」なのに、実態がまったく優しくありません。
 
 
与える側は「自分のリソースを割くのだから喜んで受け取って何かしらの見返りがほしい」と考えるでしょう。
与えられる側は「無償でなおかつ相手の意思で、自分の型に合ったリソースを提供してほしい」と考えるでしょう。
これが、私が認識している「一般的な優しさというモノ」です。
こうしてみると、まるで押し売りと搾取ですね。
 
でもこういう感覚になるのは当然だと思います。
我々はよく「自分を犠牲にしてでも他者に貢献するのが善」「自分を後回しにするのが優しさ」「優しい人であることが他者に求められる重要な要素」と教育及び洗脳されます。
そのうえで、優しい人であれ、といろいろな人たちから圧を受けます。
世間が主張している優しさに則った優しい人というのはつまり、奴隷です
他人に必要とされたかったら奴隷になれ、それこそが正しいのだ、と教わるのです。
しかし、優しさも愛情もそもそも自分に必要なものなので、それを他者に与えるとしたら、余ってでもいないかぎり「こっちは減るんだから対価をくれ」という気持ちになるのは自然です。
 
優しい人になるという概念がそもそも優しさを欠いています。
 
なので、もしこの価値観を持っている人が優しくして欲しいと要望した場合は「相手の意思で自分に搾取されてほしい」です。
優しい人が好きというのは「自分に都合の良い奴隷が好き」ということです。
優しくされたいという字面はいかにも憐憫を誘うものになっているのが、とても巧妙ですね。
 
 
幸せは与えるではなく「分け与える」と言うように、優しさも本来は分け与えるものなのだと思います。
例えば、3日食事をしていない人がようやくパンを手に入れたとして、それを他の飢えている人に丸ごと譲ったとしたら、それは優しい行為に見えますか?
私には見えません。
 
では、自分が飢えをしのげる分確保して、余りを他の飢えている人に分け与えたらどうでしょうか。
私はそれは優しい行為に見えます。
もしこれが「自分を優先した卑しい行為」に見えた人は、優しさというものの解釈を「自己犠牲による奉仕」とはき違えています。
 
 
思うに、優しい人というのは「必要最低限満たされていて、多くを望んでいない人」ではないでしょうか。
先ほどは食べ物を例にしましたが、情やコミュニケーションも生きるために必要なリソースです。
愛情で満たされていない人から愛情を得ようとする行為は、搾取です
本来その人に必要なリソースを奪うわけですから。
 
とはいえ最低限満たされている人すら現代ではSSRな存在だと思うので、みんな本当は自分が必要なものを相手に与えて生きてます。
問題は、それが優しさという言葉で無償のように解釈されてることだと思います。
 
優しくするという行為は、優しくする側が何も減らないというわけではありません
優しくされたい側は「何かが欲しい」わけですから、その「何か」を相手は与えているわけです。
与えれば減ります。
それが与える側の人にとって「本当は自分が渇望するほど欲しいもの」なのか「十分あるから譲っても構わないもの」なのかによって、与える側の失うリソースのレベルが変わるわけです。
 
しかし世の中は「他者に優しくするのは当然」という価値観が蔓延しています。
誰もが無限の無償の愛を持っていて、関係性に「家族」「恋人」「パートナー」という肩書がつけば、相手にそれを与えるのが当然、と思っているような感じがします。
 
無限のものなど私が知覚する世界には存在しませんし、無償の愛も私が知る限りでは存在しません。
 
満たされている人同士であれば与え合いになるものが、満たされていない人同士であれば奪い合いになります。
相手に求めて得られないものは、相手も持っていないことが多いのです。
私はずっと「母親は子供を愛しているのだから私を愛してくれないのはおかしい」と思っていましたが、母親は「私が愛情だと思うもの」をもっていませんでした。
母なりの愛し方はあったのだと思うのですが、私は「親が子を愛するとはこうである!」という型を頑なに変えなかったので、ずっと「自分は愛されてない、愛してくれない親が悪い、私は悪くない」というところで地団太を踏んでいました。
 
相手がもっていないのに、相手は持っているハズだと決めつけて、関係性を理由に無償で無限に寄越せと要求してわけです。
それでいて相手が自分にくれていたものを「形が違う、こんなのは愛情とは言わない」として、受け取っていながらゴミ扱いしてました。
 
ここ最近になって、自分が「これまで他者から受け取ったことしか、他者に与えられない」ことに気づきました。
自分が優しさとして与えているものが、相手にとって優しさではないのに、自分は自分が優しいと認識できるものしか与えられない、ということに気づいたのです。
相手が望む形のものを私はもっていないのだ、と。
そのとき私は「あぁ、親も私が望む形のものはもってなかったのか、親ももらってなかったんだ」と理解しました。
納得できたかというと微妙ですが、理解はできました。
 
 
優しくするには優しくされる必要があります。
優しくされるには、優しさを受け取る器が必要です。
優しさを受け取る器は、形を決めていたらほぼ受け取れません。
 
優しさとは、主観でしかないのです
 
何を優しさとして与えるかも主観ですし、何を優しさとして受け取るかも主観です。
優しさの定義は、自分が決めているんです。
自分が決めているということは、好きなように変えれるということです。
優しさの形を限定すると受け取る優しさも限定され、自分が優しさを持っていないので他者に分け与えられるほどの優しさがありません。
 
であれば、優しくされたい人は「優しさの定義を広げること」が重要なのではないかと思いました。
これはつまり、他者へ期待しているハードルを下げる、ということです。
ちょっとのことでも喜べるようになるということです。
それは、ある意味では志を低くする、意識を低くする、といったことでもあるでしょう。
こういったことは昨今ではネガティブな印象を与えますが、小さなことでも喜べる人の方がたくさんの嬉しいことと出会えるのは事実です。
自分の求めるものが頂上にしかない、という場合でなければ、高みを目指すことにあまりメリットはありません。
全ての人にそれが当てはまるわけではないでしょうが、少なくとも私には、高みを目指す意識は必要ありませんでした。
 
 
優しさは、その定義が低ければ低いほど、広ければ広いほど、限定しないほど、得られやすいでしょう。
誰かに優しくしたいのであれば、まずは自分が誰かに優しくされるのが近道です。
自分が十分満たされれば、持ちきれない優しさは近くの人にこぼれていくでしょう。
そして優しさは誰からもらっても、何から得ても優しさです
近しい人、近しくない人、名前も知らない人、動物、物語、音、景色。
得ようと思えば優しさはあちこちにあります。
 
優しい世界というのは自分の解釈が作るものです。
何に癒されるかは自分が決めているのです。
愛情の形を決めているのは自分です
自分の思う優しい人に自分はなれますが、他人の思う優しい人にはなれません。
ですので、他人が自分の思う優しい人になることはありません。
 
優しさは分け与えるものだとして、まずは自分が優しさで満たされるように、自分に優しい選択をしていくのが、他者へ優しくすることにつながると今の私は考えています。

幸せになると、幸せでいる、は別物だと思っている。
 
幸せになるというのは、自分の意思で自分を幸せな状態にできること、ではないかと思う。
 
生きている限り状態は固定されないので、永遠に続く幸せはない。
続かないから幸せを感じることができるんだと思う。
苦しみも喜びも続けばすぐに麻痺するのが命に備わった機能だから
 
幸せでい続けることが願いなのだとしたら、それはきっと叶わない。
幸せになれる自分でい続けることだったら、叶うかもしれない。
 
写真はカナダで暮らしてた時の最後の日に撮った写真なのですが、私はこのとき確かに幸せでした。
それが終わることをわかっていたので、こうして写真に残したのでしょう。
もう10年以上も昔のことです。
使えるお金も少なくて、物価が高くて一か月半で6㎏も痩せましたが、まったくもって幸せでした。今も覚えています。
そしてそれは再現できないということを、なくなってから痛感したわけです。
 
 
人の感情を4分類したものを喜怒哀楽と言うっぽいですが、ぶっちゃけこれは意味がよくわかりません。
それぞれの字が表す状態の、喜と楽の違いがよくわからない。
よくわからないので、私は感情を4分類するなら「笑顔、泣く、哀しい、寂しい」ではないかと思う。
でも状態を表すとしたら、4つじゃ全然少ないし、もっとシンプルにするなら「快、不快」で十分な気もします。
 
 
笑顔は基本的に幸せにかなり近いと感じる。
これは嘘の笑顔であっても、本物の笑顔の土台になったりするので、ある意味では幸せの種みたいなものである。
 
泣くことも幸せには近いと思う。
泣けるということ自体がもはや幸せな状態にあることの証明なのでは、とも考えられる。
情報のインプットが感情(心)と結合したときの反応の一部だと思うので、笑うのも泣くのも本質的には同じ現象とも言える。
 
哀しみについては幸せと直結してはいないが、幸せが何かを知る手がかりとして重要だと思う。
辛い系の感情や感覚は、痛みと同じで重要なシグナルだ。
体の異常を知らせるのが痛みだとしたら、心の異常を知らせるのが哀しみだと思う
何が哀しいのかを丁寧に分析することで、心のどこにトラブルがあるのかを知ることができると思う。
痛みと違ってとてもわかりにくいので、時間も労力もかかるとは思うが、それしか手がかりがないならそれを辿るしかない。
それを「めんどくさい」「よくわかんない」「無理そう」と避けると、いつまでも哀しいままということになる。
 
一時的に無視しても、結局またそこにたどり着くので、哀しみからは逃れられない。
逃れられないが、向き合えば味方である。故障個所を知らせたいだけなのだから。
 
寂しいというのが実はよくわからない。
核心的なようでいて包括的な気もするし、状態や事象によってかなり解釈が変わるような気もする。
でもこの「寂しい」がいろいろな齟齬や不安や問題の原因になってることが多い気がす
どういうものかよくわからない、対処の仕方がよくわからない、その結果「寂しいデバフが解除されない」ことで自分のステータスが下がったり、味方に敵対行動をとったりする的な。
 
なんとなく私はこの寂しいは「自己否定と孤独感」「期待と拒絶」ではないかなーと考えています。
寂しさって認識しにくい気がするんですよ。
寂しい状態を自分でわかってないことがまず寂しくてでもなんだかわからない空虚感や焦燥感があって、空虚を埋めたり焦りを誤魔化したりするために、的外れなところを目指したりいらないもので埋めたりする、ということがよくある気がします。
ゴミ屋敷がわかりやすい例かもですね。
 
 
私は実家にいたころ、部屋に割と物がいっぱいでした。
構成物は主に「お菓子」と「本」でした。
当時の私は実家での食事が全然おいしくなくて(今でもおいしくないのですが)、出された食事が父親の意向を反映してとても薄味で、味がしなくてあまり食べられなかったんです。
味の薄いものを食べてると私はすぐに満腹感が出てしまうんです。
で、結局後からお腹が空くんですが、料理をするという選択肢がなかったので、食べるものはお菓子でした。
飢えという苦痛を取り除くためには菓子しかなく、それが無くなるのが恐ろしくてたくさん集めてたわけですね。
 
本も似たような理由です。
情報で自分の中を埋めたり、自分の中を埋める素材がたくさんある状態に安心するんです。
子供のころから「何もしないができない」人間なので、読むという行為ができる本は救いでした。
今は物体としての本はほぼもっていませんが、データやネットでいくらでも情報を読めるので、対象物が変わっただけで本質は変わっていません。
 
必要な物が必要なときに無いというのが恐ろしい」のです。
 
なので今も家には物が多いです。
道具と日用品、飲食物の備蓄などですね。
前よりは少し減ったんですが、減らそうとか無くそうと思ってもそれができないのは、私が無意識に「そんな恐ろしいことはできない」と思っているからなのでしょう。
 
この、駆り立てられるような不安や恐れという形で発露している元が、寂しさなのではないか、と思いました。
泣いたり笑ったりすることと同様に、寂しさももしかしたら無くすことはできないのかもしれません。
 
私が何より重要だと思っているのは「安定供給」です。
この最優先事項は人によって違うと思いますが、もしかしたら私はこれまでの人生で「必要な何かが安定供給されなかった」のかもしれません。
そして、安定供給されない状態がデフォルトだったので、おそらく今でも「本当に必要なもの」を自分に安定供給できていません。
代替物として実用品を備蓄しているのでしょう。
備蓄は別段嬉しくも楽しくもないです。ぶっちゃけちょっと邪魔。
でも「足りない」という状態が怖すぎて「すでにいろいろ足りてないのにこれ以上足りないのは無理」という感じで、備蓄してるのかなーと思いました。
 
欲しいもので自分を満たすのではなく、足りないを回避するために別のもので埋め尽くしているのではと思ったわけです。
 
いろんなもので埋めてきたせいか、自分が何を求めているのかもよくわからなくなってしまった気もしますが、無意識の方はきっとそれをわかっている気がします。
それをわかるための手がかりが、意識の介入しない「笑う、泣く、哀しい、寂しい」というものなのかなーと思っています。
これらに対して「何が? なぜ?」と表面を削っていけば、そのうちわかる気がしています
そして大体それらは「とてつもなく自分勝手で、非道徳で許されなさそうなこと」だったりする気がします。
それを言語化して、欲しがれるようになったら、一つ進んだことになるのかなーと思いました。
それを邪魔するのが「正しさと罪悪感」ではないかと今は考えています。
 
 
ちなみに怒りは感情ではないと思います。
怒りは手段です。
何かしら別の感情を発露するための手段。
なので、怒ってる人は怒りたくて怒ってるんだと思います。
「これは怒るという形で対処する事象である」と認識してる、という感じでしょうか。
なので「怒るようなこと」と認識している人はその事象に対して怒るし、「怒るようなことじゃない」と認識している人は同じ出来事でも怒りません。
この認識、ある意味では価値観に沿って怒るので、制御が難しいのですね。
アンガーマネジメントとか無理ですよたぶん。
 
マネジメントするよりも、なんでこれに怒ってんだ? 何が不快だったんだ? と考える方が役に立つと思います。
どの事象に対して怒るというプログラムをなぜ自分に仕込んだんだろう、と考えていくと、どこかに「守らなければいけない弱点」があることが多い気がします。
 
しかしまぁ本当に、人間って物事を複雑にすることに特化してしまったのですねぇ。