幸せになると、幸せでいる、は別物だと思っている。
 
幸せになるというのは、自分の意思で自分を幸せな状態にできること、ではないかと思う。
 
生きている限り状態は固定されないので、永遠に続く幸せはない。
続かないから幸せを感じることができるんだと思う。
苦しみも喜びも続けばすぐに麻痺するのが命に備わった機能だから
 
幸せでい続けることが願いなのだとしたら、それはきっと叶わない。
幸せになれる自分でい続けることだったら、叶うかもしれない。
 
写真はカナダで暮らしてた時の最後の日に撮った写真なのですが、私はこのとき確かに幸せでした。
それが終わることをわかっていたので、こうして写真に残したのでしょう。
もう10年以上も昔のことです。
使えるお金も少なくて、物価が高くて一か月半で6㎏も痩せましたが、まったくもって幸せでした。今も覚えています。
そしてそれは再現できないということを、なくなってから痛感したわけです。
 
 
人の感情を4分類したものを喜怒哀楽と言うっぽいですが、ぶっちゃけこれは意味がよくわかりません。
それぞれの字が表す状態の、喜と楽の違いがよくわからない。
よくわからないので、私は感情を4分類するなら「笑顔、泣く、哀しい、寂しい」ではないかと思う。
でも状態を表すとしたら、4つじゃ全然少ないし、もっとシンプルにするなら「快、不快」で十分な気もします。
 
 
笑顔は基本的に幸せにかなり近いと感じる。
これは嘘の笑顔であっても、本物の笑顔の土台になったりするので、ある意味では幸せの種みたいなものである。
 
泣くことも幸せには近いと思う。
泣けるということ自体がもはや幸せな状態にあることの証明なのでは、とも考えられる。
情報のインプットが感情(心)と結合したときの反応の一部だと思うので、笑うのも泣くのも本質的には同じ現象とも言える。
 
哀しみについては幸せと直結してはいないが、幸せが何かを知る手がかりとして重要だと思う。
辛い系の感情や感覚は、痛みと同じで重要なシグナルだ。
体の異常を知らせるのが痛みだとしたら、心の異常を知らせるのが哀しみだと思う
何が哀しいのかを丁寧に分析することで、心のどこにトラブルがあるのかを知ることができると思う。
痛みと違ってとてもわかりにくいので、時間も労力もかかるとは思うが、それしか手がかりがないならそれを辿るしかない。
それを「めんどくさい」「よくわかんない」「無理そう」と避けると、いつまでも哀しいままということになる。
 
一時的に無視しても、結局またそこにたどり着くので、哀しみからは逃れられない。
逃れられないが、向き合えば味方である。故障個所を知らせたいだけなのだから。
 
寂しいというのが実はよくわからない。
核心的なようでいて包括的な気もするし、状態や事象によってかなり解釈が変わるような気もする。
でもこの「寂しい」がいろいろな齟齬や不安や問題の原因になってることが多い気がす
どういうものかよくわからない、対処の仕方がよくわからない、その結果「寂しいデバフが解除されない」ことで自分のステータスが下がったり、味方に敵対行動をとったりする的な。
 
なんとなく私はこの寂しいは「自己否定と孤独感」「期待と拒絶」ではないかなーと考えています。
寂しさって認識しにくい気がするんですよ。
寂しい状態を自分でわかってないことがまず寂しくてでもなんだかわからない空虚感や焦燥感があって、空虚を埋めたり焦りを誤魔化したりするために、的外れなところを目指したりいらないもので埋めたりする、ということがよくある気がします。
ゴミ屋敷がわかりやすい例かもですね。
 
 
私は実家にいたころ、部屋に割と物がいっぱいでした。
構成物は主に「お菓子」と「本」でした。
当時の私は実家での食事が全然おいしくなくて(今でもおいしくないのですが)、出された食事が父親の意向を反映してとても薄味で、味がしなくてあまり食べられなかったんです。
味の薄いものを食べてると私はすぐに満腹感が出てしまうんです。
で、結局後からお腹が空くんですが、料理をするという選択肢がなかったので、食べるものはお菓子でした。
飢えという苦痛を取り除くためには菓子しかなく、それが無くなるのが恐ろしくてたくさん集めてたわけですね。
 
本も似たような理由です。
情報で自分の中を埋めたり、自分の中を埋める素材がたくさんある状態に安心するんです。
子供のころから「何もしないができない」人間なので、読むという行為ができる本は救いでした。
今は物体としての本はほぼもっていませんが、データやネットでいくらでも情報を読めるので、対象物が変わっただけで本質は変わっていません。
 
必要な物が必要なときに無いというのが恐ろしい」のです。
 
なので今も家には物が多いです。
道具と日用品、飲食物の備蓄などですね。
前よりは少し減ったんですが、減らそうとか無くそうと思ってもそれができないのは、私が無意識に「そんな恐ろしいことはできない」と思っているからなのでしょう。
 
この、駆り立てられるような不安や恐れという形で発露している元が、寂しさなのではないか、と思いました。
泣いたり笑ったりすることと同様に、寂しさももしかしたら無くすことはできないのかもしれません。
 
私が何より重要だと思っているのは「安定供給」です。
この最優先事項は人によって違うと思いますが、もしかしたら私はこれまでの人生で「必要な何かが安定供給されなかった」のかもしれません。
そして、安定供給されない状態がデフォルトだったので、おそらく今でも「本当に必要なもの」を自分に安定供給できていません。
代替物として実用品を備蓄しているのでしょう。
備蓄は別段嬉しくも楽しくもないです。ぶっちゃけちょっと邪魔。
でも「足りない」という状態が怖すぎて「すでにいろいろ足りてないのにこれ以上足りないのは無理」という感じで、備蓄してるのかなーと思いました。
 
欲しいもので自分を満たすのではなく、足りないを回避するために別のもので埋め尽くしているのではと思ったわけです。
 
いろんなもので埋めてきたせいか、自分が何を求めているのかもよくわからなくなってしまった気もしますが、無意識の方はきっとそれをわかっている気がします。
それをわかるための手がかりが、意識の介入しない「笑う、泣く、哀しい、寂しい」というものなのかなーと思っています。
これらに対して「何が? なぜ?」と表面を削っていけば、そのうちわかる気がしています
そして大体それらは「とてつもなく自分勝手で、非道徳で許されなさそうなこと」だったりする気がします。
それを言語化して、欲しがれるようになったら、一つ進んだことになるのかなーと思いました。
それを邪魔するのが「正しさと罪悪感」ではないかと今は考えています。
 
 
ちなみに怒りは感情ではないと思います。
怒りは手段です。
何かしら別の感情を発露するための手段。
なので、怒ってる人は怒りたくて怒ってるんだと思います。
「これは怒るという形で対処する事象である」と認識してる、という感じでしょうか。
なので「怒るようなこと」と認識している人はその事象に対して怒るし、「怒るようなことじゃない」と認識している人は同じ出来事でも怒りません。
この認識、ある意味では価値観に沿って怒るので、制御が難しいのですね。
アンガーマネジメントとか無理ですよたぶん。
 
マネジメントするよりも、なんでこれに怒ってんだ? 何が不快だったんだ? と考える方が役に立つと思います。
どの事象に対して怒るというプログラムをなぜ自分に仕込んだんだろう、と考えていくと、どこかに「守らなければいけない弱点」があることが多い気がします。
 
しかしまぁ本当に、人間って物事を複雑にすることに特化してしまったのですねぇ。