「死にたい」という事象について書きます。
私の経験と、調査と考察を元にしている程度の内容なので、わかるような気がする方もいれば、まったく理解できんという方もいると思います。
ただ私は、誰かのいろんな考察を元に今の多少楽に生きれる場所にたどり着けたので、同じように誰かの参考になれば嬉しいです。
私は「生きてる意味ないから早く死にたい」→「なんかもう死ねないから死ぬの諦めた」→「あんまり死にたくなくなった」という経緯で今生きてます。
 
結論から書くと、死にたいという気持ちは「死にたいと思ってるから消えない」んだと思います。
 
意味わかんないですよね、私もこれ説明が難しいです。
卵が先か鶏が先かみたいな話なんですが、考えてたらふと「なるほど、死にたいから死にたいのか」みたいな謎の納得があったんです。意味わかんないですね。
もうちょっと詳しく書きます。
 
 
今まで出会ったり見聞きした「死にたい人たち」を思い返すと、ある共通点が見つかりました。
ほとんどの人が「生きていてはいけないと思っているようなのです。
死にたいというより、死ななければならない、といった感じですね。
死ななければならないって、改めて字で見るとものすごいパワーを感じます。
死ぬ義務がある、死ぬのが当然なのだから生きているのが罪、という意味だと思うのですが、とてつもない自己否定です。
死ななければならない人ってこの世に本当にごく一部しかいないと思うのですが、普通に市井で暮らしてる人がそんな「まったくもって死ぬ以外の選択肢を許されないレベルの大罪人」とは思えません。
 
ということは「死ななければならない」というのは周囲や社会的な評価ではなく「自分の主観という一点のみ」から来ているのかなと思います。
自分だけが自分を「死ななければならない存在である」と思っているということですね。
仮に他人が「あなたは死ななければならない」と言ってきたら、どちらかというとそんなことを他人に言うその人の方が死ななければならない側だと思うので、その言葉を受け取る必要がありません。
 
基本的に人間は自然に自発的に「自分は死ななければならないと思う」ようにはできていないと思います。
ということは、生きてきた過程で「自分は死ななければならないと思うようになった」ということです。
 
死ななければならないのはなぜなのか?
 
これの答えは大体「自分が生きていることが罪だと感じるからだと思います。
なんとなくわかる気がします。
しかし、生きていること自体は罪ではないのです。
生きているというのは自分の意思で行っているわけではなく、ただの機能です。
風が吹けば葉が揺れるのと同じ、自然現象みたいなものです。
良いとか悪いとかではなく、現象とか機能とか事象といった、時間の流れを止められないのと同じようなどうにもならない領域のものだと思います。
逆説的ですが、自分が生きていることを罪だと思うことでなんとか生きているのかもしれない、と思いました。
 
 
以前も何かの記事で書いたかもしれませんが、人を一番苦しめる感情というのは「罪悪感」らしいです。
死にたい人たちは、自分ではどうにもできない領域にある「生きるという機能・現象」に罪悪感を抱いていて、死ぬ以外に許されないと考えているのだと思います。
それはしんどいです。
人間は意外としぶといので、なかなか死ねません。
周りもなかなか死なせてくれません。
なのでとりあえず生きてはいくんですが、死ななければいけないのになぜ生きているのか……周りはなぜ自分に生きるという罪を犯し続けることを望むのか……死ぬべきなのに生かそうとしてくるのは悪意でしかないじゃないか……という感じで「自分が生きることを望む他人は自分を苦しめる存在」という認知をしているのかな、と思います。
 
生きることを罪だと感じない人にとっては、悪意でもなんでもないので、なぜ? という感じでわけわからん、となると思います。
生きるのはただの機能なので。
前に書いた、豚肉が禁忌なのが意味わからん、というのと同じようなものかなと思います。
生きることを罪とするかどうかは、その人が主体的に決めているということです。
そしてその決定をするに至った原因は、おそらく親だと思います。
 
これは、親からそう言われたとかそういう直接的なものじゃないです。
親は私がいらないんだ、なぜかわからないけど私じゃダメなんだ、と子供のときに断定したのだと思います。
言語化したり、思考したりが未熟な子供のうちは、相手の言葉や声、仕草や行動パターン、反応などいろいろなものを元に「生きるために必死」なんだと思います。
愛されない理由がわからないので、行きつくところは大体「自分が悪い」という場所です。
そうして無理やりにでも納得することでどうにか生きていけるので、ある意味では、自分が悪い→自分の存在が罪→生きていることが罪、と思う事で生きていこうとしたわけです。
矛盾してるように見えますが、私はこのプロセスの方が納得いきます。
「死にたい」を支えにしてどうにか生きている。不思議な感じがします。
 
長くなりそうなので続きはまた次回。
 
ちなみに私が死にたい→まぁいいやとりあえず生きよう、になったときの印象を振り返ると、死にたいと思っても死ねないから死にたいを思うことに疲れて死ぬことを諦めて、仕方なく死ではなく生の方を向いた、という感じです。
死にたいが鬱陶しくなって、自分を律したりあえて辛い状況に置いたりするのがめんどうになった感があったような気がします。
 
 
↓の記事なんかとても参考になりました。愛着障害の記事です。
 
生きるのが罪のわかりやすい書籍はこれかなーと思います。
さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ / 永田カビ
私はこの人の「普通濁すところを濁さず描くところ」が好きで、おかげで理解しやすいのでよく頭の中で参考にしてます。