そのころの教員試験は非常に厳しいものであった。
そんな時代に教員になった。
大学の同期が次々と落ち、3月中に赴任先が決まらない友人がほとんどであった中、私は幸いなことに4月1日から教員としての一歩を踏み出すことができた。しかしそこは予想もしていなかった学校・・・肢体不自由養護学校・・・であり、教員免許もないのに高等部担任となった。 (こういう特例は認められる)
見たこともない世界だった。
目の前にいる生徒は18歳なのに体重が13kgとか、筋ジストロフィーで寝たきり状態の子。脳性まひ、心臓病、中途障害で片麻痺になった子、知恵遅れ、蒙古症、二分脊椎、ネフローゼ、モヤモヤ病、頻発性のてんかん。
もっとショックだったことは、こうした先天性の障害児をかかえた家族は、遺伝の影響か兄弟そろって障害をかかえているケースが少なくないということだ。
健康で五体満足であること。それがどれほど幸せなことなのか。私は自殺をしていく子ども達に強く言いたい。「自殺することすら自分の力ではできない子ども達がいるのだ」ということを。
こういう生徒を目の前にして、私は1学期間、悩みに悩んだ。
「いったい自分に何ができるというのか?いったい何が教育だというのか?」
新任研修で「障害児教育は教育の原点」という言葉を教えてもらった。しかしそれがどうしてなのか、一向に実感がわかなかった。
むさぼるように本を読んだ。昼も夜もなく勉強し、障害者施設の職員勉強会にも自主的に参加した。生徒の卒業後の受け皿になる施設作り運動にも先頭を切って参加した。組合運動で東京都庁への交渉にもついていった。でも、そんな勉強では何も分からなかった。
ある日、休み時間に生徒達とゆったりとしている時、ふと視線が気になった。最重度障害の女の子の視線である。言葉がしゃべれないし、意志も私にはまったく理解できない子だった。その子が指先をちょっと動かしている。「もしかしたら呼んでいるのかな?」と感じた私は、名前を呼びながらそっと寄り添った。するとその子はふだんあまり見せないような笑顔を見せてくれた。
「自分はこの子たちに育てられている!!!」
なぜか瞬間にそう思った。
生命は永遠である。
人間一人の生命と考えると分かりにくいが、最新の天文学、物理学、哲学、宗教学、心理学、社会学をフル動員して宇宙単位で考えていくと、生命は永遠であると考えないと宇宙は成り立たなくなる。
感応妙という言葉がある。
言葉を越えた生命と生命の響き合いという世界である。
養護学校で私が学んだ最大のことは、
「教師の生命が躍動していて、いつも前進の気概にあふれていれば、その躍動に響き合って、どれだけ障害が重い子ども達でも可能性を開いていくことができる。もし今のこの身体での一生で解決できなくても、次に生まれてくるときには五体満足で人のために働くことのできる体と心を持って生まれてくる。」
自分で勝手に思ったことだが、哲学というのは誰がなんと言おうとそうなんだという確信であるから、これが私の教育哲学として23歳の時に確立された。養護学校にいたからこそ実感として焼き付けられた哲学である。
(続く)

