●運び去られてはならない「奇妙な教え」とは?(ヘブライ13:9より)

 

ヘブライ13:7-16を読んでいて、気が付いたことがある。

 

NWTでは、13:7の「あなた方の間で指導の任に当たっている人々」とは、成員が属する「会衆の長老たち」もしくは「組織の中で指導の任に当たっている統治体」を指す、と解釈している。(WT13/04/15他参照)

 

しかし、13:7の「指導の任に当たっている人々」と13:17の「指導の任に当たっている人たち」とは、別の種類の人を指していることを先回の記事で述べた。

 

 

 

 

13:17の「指導の任に当たっている人たち」とは、確かに「教会の指導者」である教職者を指しているが、13:7の「指導の任に当たっている人々」とは、ヘブライ書の著者以前に、「神の言葉を語った人々」、つまり、「最初にキリスト教を布教した人々」を指している。具体的には、ペテロ派キリスト教の宣教者やパウロ派キリスト教の宣教者を指しているのであろう。

 

 

この理解を前提に、ヘブライ書の著者が言うところの、運び去られてはならない、「さまざまの奇妙な教え」とは何を指すのか、探ってみたい。

 

 

 

WTでは、「食べ物」とは、文字通り口から摂取する「食べ物」や「犠牲の肉」を指し、「[食べ物]のことにかまけている人たち」とは、「特定の食物を食べることや特定の日を守ることに対する過度の関心から」霊的な益が生じる、と考えている人で、 「ユダヤ主義を推し進める人々」を指す、と註解している。

 

*** 塔89 12/15 22ページ 10節 エホバに喜ばれる犠牲をささげなさい ***

10 それゆえヘブライ人の兄弟たちは,ユダヤ主義を推し進める人々「さまざまの奇妙な教えによって運び去られ」ないようにする必要がありました。(ガラテア 5:1‐6)真理のうちにしっかりとどまるために,そのような教えによってではなく,『神の過分のご親切によって心を強固にする』ことができます。一部の人たちは,食物や犠牲のことで議論していたようです。というのは,パウロは,心が「食べ物によって」強固にされることはなく,「食べ物のことにかまけている人たちは,それによって益を得たためしがありません」と述べているからです。霊的な益は,特定の食物を食べることや特定の日を守ることに対する過度の関心からではなく,敬虔な専心から,また贖いに対する認識から生じるのです。(ローマ 14:5‐9)さらに,レビ記の中で規定された犠牲は,キリストの犠牲によって無効になりました。―ヘブライ 9:9‐14; 10:5‐10。

 

まず、関係する箇所を書き出してみる。

 

13:7-9「神の言葉を語ってあなた方の案内をしてくれた人たちのことを思い出せ。彼らの振舞いから何が生じたかをよく見て、信仰を真似しなさい。イエス・キリストは昨日も今日も、そして永遠に、同一の者である。さまざまの異なった教えによって振りまわされてはいけない。心は恵みによってしっかりと支えられるのがよいのである。そういった食べ物は、歩む者にとって何の役にも立たない」。(田川訳)

 

あなた方の間で指導の任に当たっている人々、あなた方に神の言葉を語った人々のことを覚えていなさい。そして、[その]行ないがどのような結果になるかをよく見て、[その]信仰に倣いなさい。イエス・キリストは、昨日も、今日も、そして永久に同じです。さまざまの奇妙な教えによって運び去られてはなりません。心が、食べ物によってではなく、過分のご親切によって強固にされるのはよいことだからです。[食べ物]のことにかまけている人たちは、それによって益を得たためしがありません」。(NWT)

 

10節から、唐突にユダヤ教祭儀の話になる。

 

10我々(の世界)には祭壇があるが、幕屋で仕える者たちは壇(に捧げられた犠牲の獣)から食べる権利はないのである。11(犠牲の)獣の血は大祭司によって罪のために聖所の中へと持って行かれるが、その獣の身体は宿営の外で焼き尽くさなければいけない。12のようにイエスもまた、自分自身の血でもって民を聖化するために、町の外で受難したのである。13だから我々は彼のもとに、宿営の外に、来たって、彼の(受けた)そしりを担おうではないか。14我々は持続する都市をここに(=此の世に)持っているわけではなく、未来の都市を探し求めているのである。

15我々は彼を通じて常に神に賛美の犠牲を捧げようではないか。それは彼の名を告白する唇の果実である。16良いことを行なうとと交わりを忘れてはいけない。このような犠牲こそ神は好み給う」。(田川訳)

 

10わたしたちには、天幕で神聖な奉仕をする者たちもそれから食べる権限を持たない祭壇があります。11大祭司がその血を罪のために聖なる場所に持って行く動物の身体は宿営の外で焼き尽くされるのです。12ゆえにイエスも、ご自身の血をもって民を神聖なものとするために、門の外で苦しみを受けました。13ですから、わたしたちは宿営の外に出てイエスのもとに行き、この方が忍ばれた非難を忍ぼうではありませんか。14わたしたちはここに、永続する都市を持っておらず、来たるべきものを切に求めているのです。15この方を通して常に讃美の犠牲を神にささげましょう。すなわち、そのみ名を公に宣明する唇の実です。16さらに、善を行なうこと、そして、他の人と分かち合うことを忘れてはなりません。神はそのような犠牲を大いに喜ばれるのです」。(NWT)

 

 

9節で、「奇妙な教え」を「食べ物」で受けた後、10節で、突然、ユダヤ教の祭壇における動物の犠牲の話が展開する。

 

ヘブライ書の著者は、これまでもユダヤ教に対するキリスト教の優位性を繰り返し対比させながら論じているが、ユダヤ教神殿祭儀と比較は、9-10章で終わっていたはずである。

 

11章では、別の主題に移り、信によって神に証しされた旧約有名人に触れ、彼らでさえ、キリスト信者なしに完成されることはない、とキリスト教の優位性を論じている。

 

それなのに、13:10~で、宿営の外で焼き尽くされる焼燔の犠牲の肉とキリストの受難との対比でキリスト教の優位性を論じている。

 

著者は何を言いたかったのだろうか。

 

 

順を追って、整理してみる。

 

「初期のキリスト信者の行ないと信仰をよく見るように」

   ↓

「イエス・キリストは永遠に同じである」

   ↓

「キリスト教の「さまざまな奇妙な教えに振りまわされるな」

   ↓

「キリスト教においては「恵み」によって心がしっかり支えられるように

   ↓

「キリスト教においては「食べ物の教え」によって我々の信仰が支えられるわけではない」

   ↓

「ユダヤ教の神殿祭儀で大祭司さえ食べられない犠牲がある」

   ↓

「イエスは民を聖化させるために受難したのだ」

   ↓→(それなら、その犠牲のキリストの「身体」をキリスト信者が食べられるわけがないではないか)

   ↓

「だから我々もイエスの受けたそしりを担い、神に賛美の犠牲を捧げよう」

   ↓

「讃美の犠牲とは、良いことを行なうことと交わりを忘れないことである」

   ↓

「このような犠牲こそ神は喜ぶのだ」

と論理が展開していく。

 

「教え」という語を「食べ物」という語で受けているのであるから、キリスト教における「さまざまの異なった教え」の中には「食べ物」に関する異なるドグマを教えている宗派があった、ということになる。

 

当時「食べ物」(brOma)と言えば「パン」を指すのが普通であった。(マタイ14:15−22参照)

 

とすれば、キリスト教における「食べ物の教え」つまり「パンに関する教え」とは「聖餐式のパンに関する規定」を指すのであろう。キリスト教草創期から、ペテロ派では、聖餐式におけるパンはイエスの「身体」であり、そのパンを食すことによって、神聖さや救いがもたらされると信じられていたようである。

 

ここで、ヘブライ書の著者は、ユダヤ教とキリスト教を対比させながら、「民を聖化させる」ことに関する論議を展開している。

 

ユダヤ教には動物の犠牲を祭司と共に食べることによって聖化されると信じられていた「食べ物の教え」の宗教儀式がある。

 

さまざまな奇妙な教え」とはユダヤ教の「奇妙な教え」のことではない。キリストは永遠に同じである、という句に続けて、「奇妙な教え」に関して言及しているのであるから、流れからしても、当然キリスト教に関する「食べ物についての奇妙な教え」を指すと考えるのが自然である。

 

 

ここは「民を聖化する」論議であるから、キリスト教にも「聖餐式におけるパン」を食べることによって聖化されるという「食べ物の教え」が存在していたので、ユダヤ教の聖化に関する動物の犠牲と対比させていたことになる。

 

それを「振りまわされてはいけない異なった教え」「運び去られてはならない奇妙な教え」と表現していたと考えられるのである。

 

つまり、ユダヤ教の大祭司でさえ、焼燔の獣の肉は食べる権利を持たないのだから、それならまして、キリストが一度かぎり我々のために死んでくれたその犠牲の「身体」を「パン(食べ物)」と称して、我々が食べられるわけがないではないか。

 

儀式的にパンと葡萄酒を、これこそ「キリストの肉と血です」と称して、食べたところで、聖化されるわけではなく、何の意味もないのだ。

 

それは、ユダヤ教と同じように「食べ物」によって聖化をもたらされると信じていることにほかならない。

 

だから、食べ物の秘蹟とかいう奇妙なキリスト教ドグマに振りまわされず、我々は少しでもキリストにならって、此の世の苦難を引き受けようではないか、と言いたかったのであろう。

 

キリスト信者の心は、神の恵みによってしっかりと支えられるべきであるのだから、「良いことを行なうこと」と「交わり」「他の人と分かち合うこと」を忘れるべきではありませんよ。

 

仲間の信者だけに愛を示したところで、神に賛美の犠牲を捧げていることにはならないではないか。イエスが町の外で受難し、そしりを担ったように、そしりを受けている人たちに愛を示そうではないか。

 

それがキリスト信者を公言する者の「唇の果実」である、と。

 

ヘブライ書の著者は、自分の著書の最後にそう言いたかったのではないかと思う。

 

 

 

13:7の過去における「神の言葉を語って案内をしてくれた人たち」とは、5:12-の「うすのろ」、「長い間教師であったはずの人々」と対応しており、「食べ物に関する異なる教え」は9:10の「罪の許しも聖化もなしえない食べ物や飲み物や種々の洗礼に関する規定」に対応している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そういえば、WTにおける「記念式の食べ物の教え」も実に「奇妙な教え」である。

 

誰も食べることのない「パン」と「ぶどう酒」を一人一人に回して、「パンはイエスの身体」「ぶどう酒は贖いの血」を表わしている、と説明される。

 

パンとぶどう酒にあずかる天的クラスの人は、不滅の霊的身体を持てるようになるという。聖化されて、完全な身体を持てるというのだ。

 

記念式に出席する地的なクラスも地上で贖いが適用される時には、聖化されて、地上の楽園で永遠に生きられる、という。

 

記念式に出席しさえすれば、救われる可能性のある人とみなされ、歓迎される。贖いに対する神とイエスの愛を認識するなら、聖化され、救われるという。

 

認識を持って「パンとぶどう酒」を食べる人も、認識を持って「パンとぶどう酒」を見つめる人も、「パンとぶどう酒」によって、聖化され、救われる、という「食べ物」に関する「奇妙な教え」のように思う。

 

 

 

「[食べ物]のことにかまけている人たちは、それによって益を受けたためしがありません」とあるが、記念式に出席するJWには「何の役に立つのだろうか」(田川訳)。「どんな益があるのだろうか」(NWT)。「当人のためになるのだろうか」(NNWT)?

 

 

こんなことを指摘したら、排斥ですね。(笑)