神の恵みを確実にするために、洗礼や聖餐式は必要なのだろうか?

                ―――ヘブライ9:10,13:9より

 

  一般にクリスチャンとは、新約聖書に書かれているイエスや使徒たちの言葉や行動に従がい、その教えを守る者のこととされる。その決意を洗礼を受けることによって、キリスト信者と認知される。JWでは、バプテスマを受けることによって、神によって叙任された奉仕者として認定されることになり、神の組織(会衆)の成員となることを意味する。バプテスマそのものが人を救うものではないが、救いにバプテスマは必要条件であるとしている。

 

*** 塔08 11/15 21ページ 5節 ヤコブおよびペテロの手紙の目立った点 ***

救いを求める人たちにとって,バプテスマを受けることは必要条件です。しかし,バプテスマそのものがわたしたちを救うわけではありません。救いは「イエス・キリストの復活を通して」もたらされるのです。イエスが犠牲の死を遂げ,復活させられて「神の右におられ」,生きている者と死んだ者に対する権威を有しておられるからこそ,救いが可能になりました。バプテスマ希望者はそのことに信仰を抱いていなければなりません。『八つの魂が無事に水を切り抜けた』ことに相当するのは,そのような信仰に基づくバプテスマです。

 

 

 

  カトリックやプロテスタントにおいても、バプテスマの意義や受けるべき理由の表現は異なるものの趣旨に大差はないようである。その理由は、イエス自身が洗礼を受けた。イエスが弟子となる者たちに洗礼を施すように使徒たちに命じたとされる言葉に由来する。救いと洗礼に直接的な関係はないが、自己中心的な生き方においては死に、神中心の生き方において復活することを象徴的に公に宣言する、という位置付けである。

 

  クリスチャンにとっては常識とも言えるものであるが、聖書のすべての書が、救いにバプテスマが不可欠、あるいは必要条件であるとは述べていないようである。

 

 

  また、聖餐式は、洗礼式と並ぶキリスト教の二大典礼であるが、JWは年に一度だけ記念式(主の晩餐)という名で聖餐式を執り行う。十字架の死(贖い)に対する感謝と新しい契約に対する信仰の認識を表明する機会であり、再臨と救いの完成を待ち望む者であることを示す、という位置付けである。

 

  イエスに従がうことを宣誓したキリスト信者にとって、「わたしの記念としてこれを行ないなさい」、「このことを行ない、私のことを思いおこしなさい」(NWT)と言ったとされるイエスの言葉に従がうのは当然のこととされる。

 

  この聖餐式に関しても、聖書のすべての書が、聖餐式をキリスト信者に不可欠なものとして重要視するべきだ、とは述べていないようである。

 

  原文から分析すると、そう解せる根拠となる聖句は、ヘブライ書の中に見出せる。

 

  ヘブライ書の著者は、5:11-6:2で、ペテロやパウロの流れの教会指導者たちを、長い間教師であったにもかかわらず、くり返し同じことを教えている「うすのろ」だ、と批判していた。その箇所で、暗に批判していた彼らの教理の中には「洗礼と按手」(6:2)が含まれている。キリスト教の教理に対する批判であるから、この「洗礼」とは当然、ユダヤ教の洗礼儀式ではなくキリスト教の洗礼に関することであり、「按手」もキリスト教の叙階制度、つまり教会のヒエラルキアに対する批判である。

 

  ヘブライ書の著者は、自説のキリスト大祭司論を展開するにあたり、7章ではメルキゼデクがユダヤ人ではないのにアブラハムを祝福したことを根拠に、キリスト教の大祭司であるイエス・キリストはユダヤ教の大祭司より大いなるメルキゼデクの位に対応する大祭司である、と結論付けている。

 

  8章では、モーセを仲介者とするユダヤ教の大祭司制度は、天にあるものの模型または影に過ぎず、キリストがよりすぐれた新しい契約の仲介者となった以上、ユダヤ教の神殿祭儀を執行する大祭司制度は、古いものとされ消えて行くものであるとしている。

 

  そして9章では、ユダヤ教の神殿祭儀、特に「贖罪の祭儀」に焦点を当て、キリストの贖いを獣の犠牲よりすぐれたものとして、キリスト教の優位性を論じている。ヘブライ書の著者は、異教の祭儀に否定的(6:1「死んだ行為」は異教の「偶像崇拝」等の無意味な宗教行為を指すものであろう)であるだけでなく、ユダヤ教の祭儀にも否定的である。ヘブライ書の著者は、贖罪の祭儀に関して次のように述べている。

 

9:9-10

この[天幕]こそ、今すでに来ている定められた時のための例えであり、そのことにしたがって供え物と犠牲の両方がささげられるのです。しかしそれらは、神聖な奉仕をしている[人]をその良心の面で完全にすることができず、10ただ食物や飲み物や様々なバプテスマに関する事柄にすぎません。これらは肉に対する法的な要求であって、物事を正すための定められた時まで課せられているのです」。(NWT)

 

この幕屋は現在の時に対する比喩である。これ(=この幕屋の規定)に応じて捧げ物と犠牲が捧げられるのであるが、捧げ物や犠牲は祭儀をなす者を意識に関してまで完全にすることはできない。10それは単に食べ物や飲み物や種々の洗礼についてのものであって、肉に関する規定にすぎず、改新の時が来るまで存在しているだけのものである」。(田川訳)

 

  ヘブライ書の著者は、「贖罪の祭儀」に関して、「捧げ物」と「犠牲」の両方をあげている。ここで「供え物」(NWT)「捧げ物」(田川訳)と訳されているギリシャ語は、doron(与えるもの)という語で、「犠牲」(thusia「生きた獣を祭壇に捧げること」)以外の献納物を指し、おもに植物の収穫物のことである。贖罪という罪過の赦しのための祭儀に「犠牲」とされるのは「獣」であり、「穀物」ではない。「贖罪」には、「血」が伴なっていなければならないからである。著者自身がすぐ前で(9:7)で、「血を携えないで行くことはありません」(NWT)と述べているように、贖罪の日に大祭司が至聖所に携えて行くのは、雄牛と山羊の血であり、「捧げ物(穀物)」は含まれていなかった。(レビ16章、民数29章参照)それにもかかわらず、「捧げ物」を含めているのは、動物の犠牲以外の「捧げ物」を献納するユダヤ教の他の神殿祭儀(供与の捧げ物等)も意識していたからだろう。

 

  ヘブライ書の著者は、儀式的な宗教的典礼に関しては、「捧げ物と犠牲は祭儀をなす者を意識に関してまで完全にすることはできない」(9:9)、と非常に冷たく、全く価値を見いだしていない。そのことは、次の節からもはっきりわかる。「それは単に食べ物や飲み物や種々の洗礼についてのものであって、肉に関する規定にすぎ」ない、と外面的な宗教儀礼を軽蔑している。

 

  しかし、ここまでの話の流れは、ユダヤ教の神殿祭儀、特に神殿に捧げるのは犠牲の獣に関する事柄であり、「食べ物や飲み物」の話ではない。ましてや「種々の洗礼」は「贖罪の日」の規定とは無関係である。

 

  ここで「食べ物」(broma)と訳されているギリシャ語は、普通は「パン」を指す語である。「飲み物」(poma)と訳されているギリシャ語は、普通は「ぶどう酒」を指す。「洗礼」(baptismos)という語は、6:2ではユダヤ教の儀式的「洗礼」に関してではなく、キリスト教の「洗礼」を批判するのに同じ語を用いている。

 

  とすれば、ヘブライ書の著者は、ここでユダヤ教の祭儀だけでなく、キリスト教の祭儀的儀式に関しても、批判する意図があるのではないかと考えられる。儀式批判の論述の中で、「パンとぶどう酒」と「洗礼」が並べて批判されているのであるから、キリスト教の「洗礼式」と「聖餐式」に関しても、そんなものは、「意志に関してまで完全にすることはできない」「比喩」であり、単に「肉に関する規定にすぎ」ない、とけんもほろろである。

 

  ヘブライ書の著者は、手紙の結びに際しても、キリストに対する信仰とイエスの行動に見倣うことの重要性を強調し、13:7-9で、次のように述べている。

 

あなた方の間で指導の任に当たっている人々、あなた方に神の言葉を語った人々のことを覚えていなさい。そして、[その]行ないがどのような結果になるかをよく見て、[その]信仰に倣いなさい。イエス・キリストは、昨日も、今日も。そして永久に同じです。さまざまの奇妙な教えによって運び去られてはなりません。心が、食べ物によってではなく、過分のご親切によって強固にされるのはよいことだからです。食べ物のことにかまけている人たちは、それによって益をえたためしがありません」。(NWT)

 

神の言葉を語ってあなた方の案内をしてくれた人たちのことを思い出せ。彼らの振舞いから何が生じたかをよく見て、信仰を真似しなさい。イエス・キリストは昨日も今日も、そして永遠に、同一の者である。さまざまの異なった教えによって振りまわされてはいけない。心は恵みによってしっかりと支えられるのがよいのである。食べ物によってではない。そういった食べ物は、歩む者にとって何の役にも立たない」。(田川訳)

 

 

 

  ヘブライ書の著者は、キリストは永遠に同一のものであるから、神の言葉を案内してくれた人の信仰を真似し、「さまざまの異なった教え」や「食べ物」(broma)によって振りまわされるのではなく、「恵み」によってしっかり支えられるのが良い。そういった「食べ物」(broma)は何の役にも立たない」。と言っている。

 

  「神の恵み」(charis)と「食べ物」(broma)を対比させて、「振舞い」と「信仰」と「教え」を吟味するように勧めている。文脈からすれば、「食べ物」とは直前の「さまざまな異なった教え」を指している。この「教え」とは、「キリスト教の教え」であることは、神の言葉を案内してくれた人たちに関する論議であることからも明らかである。そして、その「教え」を「食べ物」という語で受けているのである。

 

  つまり、ヘブライ書の著者は、これがキリスト教だと言われているさまざまな教えにふりまわされるな。「食べ物」(=パン)についての教え=「聖餐式」の教えに関してもふりまわされるな。そういった「食べ物」(=聖餐式等の儀式)は、キリスト信仰を歩むものにとって、何の役にも立たない、と言っているのである。

 

  ペテロ一派の草創期のキリスト教以来、聖餐式の「パン」はキリスト教独自の儀式として珍重されてきた。聖餐式のパンこそがキリストの有難い「身体」であるというように「パン」を神聖視するような「聖餐式の教え」に惑わされずに、我々のために死んでくれた、今は天にいるキリストのことを考えよう、と言っているのである。

 

 

  それに対し、WTの教えによると、「奇妙で異例な指示」にも、無批判に盲目的に従がうことが、「過分のご親切によって強固にされる……良いことだから」、と教えている。「指導の任に当たっている長老」や「統治体」の信仰に倣うのではなく、その行ないの結果がどのようなものであろうと、神の組織であるという権威を認めろ、と要求している。

 

  「記念式」は、JWにとって、最も重要な儀式である。大々的なキャンペーンを張り、未信者や不活発者、離れた子供たちをまで招待する。「記念式」への出席は、信仰のスケールと判断される。まさに「食べ物のこと」にかまけているのである。しかし、心が「食べ物」によって、「強固にされる」ことはない、とヘブライ書は述べている。そういった「食べ物」は歩む者にとって何の役にも立たないのである。

 

  クリスチャンとは、新約聖書に書かれているイエスや使徒たちの言葉や行動に従がい、その教えを守る者のことである。言うまでもなく、ヘブライ書も新約聖書の一部である。そうであるなら、WTの唱える「さまざまの奇妙な教え」によって振りまわされてはいけないのである。たとえWTに従わなくても、洗礼を受けなくても、記念式に出席しなくても、新約聖書に書かれていることに従がっていないことにはならないのではなかろうか。

 

 

  キリストではなく、イエスの振舞いを思い見つめ、その信仰に倣うクリスチャンでありたいものです。