●「指導の任に当たっている人々」に従うことは益を得るか?(ヘブライ13:7、17より)
JWは、子供のころから、「従順」は「美徳」であり、「従がうことは犠牲に勝る」と教えられている。会衆では、「牧者」「長老」「指導の任に当たっている人」に従がうことは、聖書の命令である、と教えられており、成員の「魂を見守る」務めが課せられている存在とされている。
その主な聖書的根拠は、ヘブライ13:17であるが、「指導の任に当たっている人々」という表現は、ヘブライ13章に二箇所にしか登場しない。7節と17節であるが、「指導の任に当たっている人々」に対する認識は、それぞれ大きく異なっているようである。
13:7「神の言葉を語ってあなた方の案内をしてくれた人たちのことを思い出せ。彼らの振舞いから何が生じたかをよく見て、信仰を真似しなさい」。(田川訳)
13:17「あなた達の案内人に従え。また彼らに対して謙譲であれ。すなわち彼らはあなた達の精神に対してずっと目を覚まして(見張って)いるのである。彼らは(神に)報告(書)を提出しなければならないのであるから。彼らが溜息をつきながらではなく、喜びを持ってこのことをなすことができるように(あなた達は彼らに従がいなさい)。それはあなた達にとって役に立つことなのだ。」(田川訳)
13:7「あなた方の間で指導の任に当たっている人々、あなた方に神の言葉を語った人々のことを覚えていなさい。そして、[その]行ないがどのような結果になるかをよく見て、[その]信仰に倣いなさい」(NWT)
13:17「あなた方の間で指導の任に当たっている人たちに従い、また従順でありなさい。彼らは言い開きをする者として、あなた方の魂を見守っているのです。こうしてあなた方は、彼らがこれを喜びのうちに行ない、嘆息しながら行なうことのないようにしなさい。そのようなことはあなた方にとって損失となるのです」。(NWT)
13:7「皆さんを教え導いている人たちのことを心に留めてください。皆さんに神の言葉を語った人たちです。その人たちの覆ないがどのような結果になるかをよく見て、その信仰に倣ってください」。(NNWT)
13:17「皆さんを教え導いている人たちに従い、進んで応じてください。その人たちは皆さんを見守っており、そのことに関して責任を問われることになります。それで、その人たちが喜んで働けるようにしてください。もし嘆きながら働くことになれば、それは皆さんのためになりません」。(NNWT)
7節の「案内をしてくれた人」「指導の任に当たっている人」「教え導いている人」と訳されている原文のギリシャ語は、hEgeomaiという動詞の属格現在分詞形(hEdoumenOn)であるが、「語った」という過去を表わすアオリストの定動詞対応しており、過去に神の言葉を語ってあなた方をキリスト教に案内してくれた人たち、という趣旨。
続く「思い出せ」が、命令形現在で述べているのであるから、現時点で、語られたり、案内されたりしていることではなく、過去の時点のことを現在でも、「思い出せ」「覚えている」「心に留めている」ということである。
先人の語ってくれたことをちゃんと思い出しなさい、という趣旨。
7節の著者は、読者に関して威圧的なところはなく、「思い出せ」「よく見なさい」「真似しなさい」と行動の主体はあくまでも読者である「あなた方自身」が決めることであるというスタンスに徹している。
「案内をしてくれた人」「指導の任に当たっている人」「教え導いている人」に関しても、「あなた方」よりも上であるという意識は持っていない、と思われる。「彼らの振舞いから何が生じたかをよく見ろ」と促しているのであるから、盲目的に服従すべきではない、というスタンスで書いている。
ところが、17節の著者は、「あなた方」と「案内人」の立場は全く異なるものとして書いている。
「あなた方」は「案内人」に「従がう」立場にあり、「案内人」はあなた方を「従わせる」立場の者として区別している。「案内人」は「あなた方」を「見張り」、「神に報告書を提出する」責任があり、「あなた方」は「案内人」の「溜め息」や「喜び」を奪う存在であってはならない、というのが著者のスタンスである。
しかも、7節とは異なり、「あなた方の決定はあなた方自身で判断しなさい」というスタンスではなく、「彼らに従うことはあなた方の役に立つことなのだ」と非常に上意下達的な物言いである。
また、17節の「案内人」「指導の任に当たっている人」「教え導いている人」と訳されている語も7節と同じで、原文のギリシャ語は、属格と与格に違いはあるものの、同じhEgeomaiという動詞の現在分詞形(hEdoumenois)である。
しかし、7節の「語った」という定動詞に対応した分詞表現ではなく、定冠詞を付け分詞を名詞化し、二人称の所有代名詞を付けたもので、tois hEdoumenois humOn=KI:to-the-(ones) governing of-youとなっており、現在の「あなた方」を「案内している人」つまり「教会の指導者」を指して表現しているものと思われる。
17節は、7節とは異なり、あなた方は、「案内人」といえども彼らの振舞いをよく見るように、というのではなく、あなた方は、「案内人」である教会指導者たちには、おとなしく黙って従がっていればよいのだ、そうしなければ、「皆さんのためになりませんよ」、と脅しているのだ。
17節には、13:16までのヘブライ書には出て来ないギリシャ語が数多く登場する。「謙虚であれ」「従順でありなさい」「進んで応じてください」(hypeikO)。hypo(後ろ)+eikO「(相手に対して)譲る」。相手に対して譲るのであれば、自分が後ろに引っ込むことになるので、「謙虚であれ」「従え」という趣旨になる。接頭語付きでも接頭語なしでも意味は同じであるようであるが、接頭語付きは「引退する」、単に「譲る」という意味に用いられることも多いようである。
「目を覚ましている」「見守っている」「見守っている」(agyrypneO)。マルコ13:33では、他人を見張るのではなく、「自分たちがしっかり覚醒していること」の意味で使われている。ここは、「あなた方の精神に対して」「あなた方の魂を」「皆さんを」とあるので、「常時しっかり目を覚まして相手を見張る」の意味で使われている。
「報告(書)を提出する」「言い開きをする」「責任を問われる」の原文は、「logosを返す、提出する」という表現。商業用の熟語表現で、この場合のlogosは「言葉」ではなく「精算、清算」という意味。
商売上で、「口頭報告も含めて、決算報告などの書類を提出する」、官僚などが上司に「仕事の報告を提出する」ということ。NWTだけではないが、護教的な表現に訳している。
「役に立つこと」「損失となる」「ためになりません」の原文は、alysitelEsで、telos(終わり)という名詞に「解く」(lyO)という動詞をつけ、否定の接頭語a-を付けたもの。この場合の、telosは「終わり」という意味ではなく「税金」の意味。税金を完納すれば、支払い義務から解かれるから、それは自分にとって「役に立つこと」であるという趣旨。
「目を覚ます」は新約の他の文書には時々登場するが、ヘブライ書ではここだけ。ここにあげた他の語も、ヘブライ書の他の部分には出て来ず、新約全体でもここだけ。
ヘブライ書の他の箇所には登場しない語が、僅か1節に、これだけ登場するのである。
要するに17節の著者とそれまでのヘブライ書の著者は異なっており、パウロ派主義の教会指導者がヘブライ書原著に書き加えたものであることは明らかのようである。
正典聖書は、一言も書き加えられても取り去られてもいない、完全な神の言葉であり、真実の書であると教えているWTはこの矛盾をどう説明するのであろうか。
13:17以降の文は、ヘブライ書の原著者の文に書き加えられたものであるのなら、聖書に書き加えてはならないという禁を破った著者の「指導の任に当たっている人たちに従え」という指示に盲目的に従うことに、どれほどの意味があるのだろうか。
聖書に加筆削除した著者が神からの呪いを受けるのであれば、加筆された言葉に従う者にも神の呪いが生じるのではなかろうか。
信仰は自由ですから、どうぞご自由に、申し上げ以外はないが・・・。
本当に書きたかったのは、「さまざまの奇妙な教えによって運び去られてはならない」という13:7-9に関する事柄だったのですが、「指導の任に当たっている人」という表現が、7節と17節では異なっていることを理解してからでないと、わかりにくいかと思い(そうでなくてもわかりにくくて申し訳なく思っています)、先にその説明を書いていたら、思いのほか長くなってしまいました。(笑)
その点は、次回にします。
それにしても、久しぶりにめくりましたが、銀色の新しいNWTの訳は、もはや字義訳と言うよりから、JW御用達表現訳になっているように感じてしまいました。
ちょっと残念に感じるのはJWの中の純粋な人たちに対する感傷からなのでしょうか。
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