時間の点から見れば教える者となっているべきなの」は誰ですか?

                      ヘブライ5:11-6:3より

 

 JW社会では、「円熟」という表現がよく使われる。多くのJWは「円熟した人」であると評価されたいと願っているし、「円熟している」と評価されることは、長老の資格を考慮する際の指標の一つともされていた。

 

 長老や開拓者等の集まりでも、「教える者として円熟する」という主題が設けられることが多かったように記憶している

 

 姉妹たちであれば、開拓者や他の特権を推薦する際の判断基準とされていたり、逆に「円熟していない」という評価は、交わりを制限する対象となったりすることもある。

 

 何をもって「円熟」と見なすかはともかく、そのような評価は、長老や巡回監督だけでなく、会衆の重鎮と評される権威者や影響力を持つ姉妹の独善的な判断によるものであることも多い。

 

 いずれにしても「円熟していない」とみなされることにある種の「恐れ」を抱いていたJWが多かったように思う。

 

 実際、JW社会においては、権威者による「円熟していない」という評価は、「固い食物」を咀嚼できない人、義の言葉に通じておらず、正しいことも悪いことも見分けられない、「赤子」のようなクリスチャン、との評価を招くことになる。

 

 JW社会におけるそのような「恐れ」を生じさせる基準は、ヘブライ5:11-6:9の独特の理解によるものであるように思う。

 

 原文から考慮すると、ヘブライ書の著者は、この箇所の文をWTが説明するように、「霊的に進歩していない人」を念頭に書いていたものではないようである。

 

ヘブライ5:11-6:3

「11彼について言うべきことはたくさんありますが、説明しにくく[思え]ます。あなた方は聞く力が鈍くなっているからです。12実際あなた方は、時間の点から見れば教える者となっているべきなのに、神の神聖な宣言の基礎的な事柄を、もう一度だれかに初めから教えてもらうことが必要です。そして固い食物ではなく、乳を必要とするような者となっています。13乳にあずかっている者はみな義の言葉に通じておらず、その人は赤子なのです。14一方、固い食物は、円熟した人々、すなわち、使うことによって自分の知覚力を訓練し、正しいことも悪いことも見分けられるようになった人々のものです。

6:1このようなわけで、キリストに関する初歩の教理を離れたわたしたちは、死んだ業からの悔い改め、また神に対する信仰、2[さまざまな]バプテスマについての教えや手を置くこと、死人の復活や永遠の裁きなどの土台を再び据えるのではなく、円熟に向かって進んでゆきましょう。3そして、このことは、神が本当に許してくださるならば行なうのです。」(NWT)

 

 

「11このことについては我々には言わねばならぬ多くの言葉がある。あなた方は聞くことに関してうすのろだから、これを説明するのが難しいけれども。12すなわちあなた方は長い間教師であったはずなのだが、相変わらず、神の言葉の最初の諸要素がなんであるかについてあなた方に教育してくれる人を必要としている。あなた方は固い食べ物ではなく、乳を必要とする者となってしまったのだ。13すなわち乳を摂る者は誰も義の言葉を味わったことがない。乳幼児であるからだ。14固い食べ物は、日常的に鍛錬された知覚を持ち、善と悪を識別するにいたった完成された者のものである。

6:1であるから我々は、死んだ行為をやめること、神を信じること、2洗礼と按手についての教え、死人の復活と永遠の審判などといった1基礎(の教え)を置くことばかりをやっておらずに、キリストの最初の言葉を離れて、完成へと向かって進もうではないか。3もしも神がお認めくださるなら、そうしよう。」(田川訳)

 

赤字以外にも多く違いがあるが、まずは5:11,12の「あなた方」とは、誰を指しているか、比較して欲しい。NWTによる表現だと、「聞く力が鈍くなっている」「時間の点から見れば教える者となっているべき」人物を指していると読むことになる。それで、WTは、この「あなた方」を「進歩的ではない一部のヘブライ人のクリスチャンたち」と註解している。(洞-2 p115ほか)

 

 

ところが、田川訳によれば、この「あなた方」とは、「うすのろ」と揶揄されている「長い間教師であったはず」の人物を指していると読めることになる。「長い間教師だった」人物、つまり、キリスト教会において教師として長い間一般信者を教えている指導者を指して、批判していることになる。

 

NWTの表現を借りるとすれば、ヘブライ書の著者がここで対象にしている「あなた方」とは「教える者」に対する助言であり、「聞く力が鈍くなっている」と皮肉っていることになる。「霊的に進歩しない古参信者」に対する説教ではないことになる。

 

 

次に6:1の「わたしたち」とは、誰を指しているか、比較してみる。

NWTによると、この「わたしたち」とは「キリストに関する初歩の教理を離れた」人物である。つまり、ヘブライ書の著者のような5:14に登場する「円熟した人々」を指していると読むことになる。

 

一方、田川訳によれば、「キリストの最初の言葉を離れて」という句は、「我々」にかかる形容詞句ではなく、「完成へと向かって進む」という動詞にかかる副詞句となっている。

 

つまり、この「我々」とは「キリストの最初の言葉を離れた」人物に限定しているのではなく、著者と同じように「完成へと向かって進もう」とする読者に対する呼びかけの表現である。田川訳によるこの著者の「我々」は、5:11,12の「あなた方」と対立する関係にあり、NWTの言う著者のように「円熟した人々」である「教える者」を指すのではないことがわかる。

 

果たして、どちらの訳が原文を正しく伝えているのだろうか。

 

「鈍くなっている」(NWT)「うすのろ」(田川訳)と訳しているギリシャ語はnothrosという語であるが、パピルス等の用例からすれば「病気時の緩慢な身の動きを揶揄する」表現で、俗語的な悪口語だそうである。NWTは、英訳=dul、和訳「鈍くなっている」と上品な表現にしているが、KI=sluggish(「ナメクジのような」とも読める)であり、あまり良い響きには感じられない。

 

ヘブライ書の著者が「うすのろ」とレッテル貼りしている「あなた方」とは、NWTが示すような「時間の点から見れば教える者となっているべき」人物なのか、それとも田川訳が示すような「長い間教師であったはず」の教会の指導者たちを指しているのか。

 

「長い間」(dia ton chronon)の直訳は「時間を通して」であるが、現に特定の複数の時間が経過しているという趣旨であり、信者になってからのちの時間の経過を述べているのではない。その「特定の複数の時間」は「教える者となるべき」(NWT)「教師であったはず」(田川訳)という句にかかっている。

 

原文のギリシャ語は、opheilontes einai didaskaloiであるが、現在形の動詞で書かれている。「べき」「はず」(opheilontes)という語は、英語のshouldや日本語の「べし」と同じく、文脈に応じて皮肉を込めた表現にもなる言葉である。einaiも現在形であり、「現にあなた方はその長期間教師であったはずなんですがね…」と皮肉を込めているのである。

 

原文から見る限り、ヘブライ書の著者は、別のキリスト教会で現に教師の立場にある指導者に対して、「うすのろ」と揶揄しているようである。

 

ヘブライ書の著者は、キリスト教界の教師たちをなぜ「うすのろ」と揶揄したのだろうか。

 

「キリストの初歩の教理」(NWT)「キリストの最初の言葉」(田川訳)とは、6:1で「土台」「基礎の教え」と表現されている6項目「死んだ業からの悔い改め、神に対する信仰、さまざまなバプテスマについての教え、手を置くこと、死人の復活、永遠の裁き」(NWT)「死んだ行為をやめること、神を信じること、洗礼、按手、死人の復活、永遠の審判」(田川訳)というキリスト教の教理を指していることがわかる。

 

ヘブライ書の著者は、「私たちは」彼らのようではなく、そのような「キリストの初歩の教理を離れて」「円熟に向かって進んでいきましょう」と読者に訴えている。

 

ヘブライ書の著者が、離れるべき「キリストの初歩の教理」としてあげたリストは、福音書におけるイエスの言葉と調和しているというよりも、キリスト教の基本ドグマであり「按手」を除けば、パウロ主義のキリスト教におけるドグマである。

 

ヘブライ書の著者は、離れるべき「初歩の教理」を「乳」とも表現しているが、「神に対する信仰」を含めている。著者としては「初歩の教理」自体を否定するつもりではないが、本来であるなら、最も重要であるはずの「神を信じること」も「乳」に預かるようなものだから、離れるように勧めている。

 

著者が、パウロ主義やペテロ主義のドグマばかりを教え続けている「教師」たちを「緩慢な動き」しか出来ない「うすのろ」と揶揄していることからすると、彼らは、異教の神々を捨てて、キリスト教の神を信仰しようと繰り返し唱えるだけで、相変わらず、基礎の教えを置くことばかりをやっていたのであろう。著者としては、キリスト教に対する基礎の教え以上の洞察を得ることができなかったものと思われる。

 

つまり、「教師であった」指導者たちは、ペテロたちが始めたキリスト教発足以来の宗教儀礼やパウロ主義ドグマを相も変わらず唱え続けて、教条主義の宗派争いをしていた。ヘブライ書の著者は旧態依然としたそのような派閥争いに辟易し、キリストにおける著者独自の「メルキセデク論」を展開し、初歩の教理を離れて、完成を目指すように、読者を促がしていたのであろう。

 

NWTはヘブライ書の著者をパウロに帰しながら、6:2によれば「さまざまなバプテスマについての教え」がエルサレムの会衆内のキリスト教信者の間で唱えられていたことになる。エルサレムには統治体が存在し、正しい信仰の基準となる指針を発信していたはずなのに、バプテスマに関する一つや二つの異なる意見ではなく、さまざまな教えを推奨する人が会衆内に存在していたことになる。つまり、パウロがヘブライ書を書いた時には統治体は機能していなかったことをNWTは自ら認めていたことになる。

 

ヘブライ書の著者は、パウロ主義のドグマに批判的であるのであるから、パウロが著者であるとするならば、自分で自分の教理を初歩の教理であり、乳に過ぎないと批判的に評価していることになる。パウロの使徒職に疑念を抱いたコリント会衆を脅したあのプライドの高い自慢屋のパウロ様にはありえない言動である。この事からもヘブライ書がパウロの書ではないことは明白であるように思える。

 

ヘブライ書のギリシャ語は、ギリシャ語を第一言語とするギリシャ人教養者ものであるが、パウロはユダヤ人であり、その著作には引用文以外にも七十人訳ギリシャ語に見られるユダヤ人ギリシャ語の言葉遣いが顔を出す。ヘブライ書にはギリシャ語知識人でなければ使えないような表現が散見しており、ギリシャ語を第二言語とするユダヤ人キリスト信者とは一線を画している。

 

WTの統治体は、聖書の正しい教えを聖霊により導かれている神の経路であり、真理の組織であると100年以上にわたり教えてきている。現在もWTは「真の宗教」であり、JWは「真のクリスチャン」であると繰り返し教えている。「教える者」として最も「円熟している」クリスチャンとは統治体の成員でなければならないはずである。

 

しかしながら、WTは聖書の真の姿を教えているわけではない。「義の言葉に通じている」とはとても思えない内容である。また、最近の記事は、JWにとっては「キリストに関する初歩の教理」ばかりを繰り返しているだけでなく、寄付の要請ばかりを繰り返しているように思える。

 

「時間の点から見れば教える者となっているべきなの」は、一体誰なのだろうか?

 

統治体の成員や長年「教える者」として長老職にあるクリスチャンや経験を積んでいるはずの姉妹たちに問い尋ねてみたいものだ。