高木家住宅・高札場問屋場火の見櫓跡・本町車山蔵・犬山城大手門跡・敬道館跡 ~愛知県犬山市の史跡 | 九州下町おやじの珍道中

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20214月24日の愛知県犬山市岐阜県各務原市鵜沼宿の歴史散策の続き。

 

旧磯部家住宅」を見学した後は、「高木家住宅」に向かいました。

 

 

旧磯部家住宅(その2)のレポ

 

 

 

 

 

旧磯部家住宅」のすぐ並びにも、昔ながらの町家があるんですよね。

 

 

 

 

こちらが、「高木家住宅」。

由緒書きには「高木邸(中本町)」とあります。

昭和10年頃まで酒造業を営んでいた家で、大正初年の建築と言われ、南側洋館の建物を含め間口十二間半の大型に属する町家です。

南側の通りには「ともまち」の部屋を取り、奥が竈であったと言われています。

 

 

 

 

高木家住宅」を別角度から…しっかりとした造りですね~流石は造り酒屋。

 

 

 

 

高木家住宅」じから、犬山城方面に進むと、また町家が見えて来て…

 

 

 

 

こちらにも…

 

 

 

 

稲置街道を、更に、犬山城方向に進みます。風情がありますね~♪

 

 

 

 

しばらく進むと、右手に塔屋がある建屋が見えて来ました。

 

 

 

 

その建屋の前には、「高札場問屋場火の見櫓跡」という史跡案内板が!

 

 

 

 

由緒書き「札の辻」。かすれて読みづらいですが…汗

高札場跡」ですから。「札ノ辻」になるんですね。

 

 

 

 

由緒書き「本町

本町通りには、上本町、中本町、下本町とあり、本町通りは、犬山城の正面通りで、街を賑やかにするため、呉服屋、酒屋など多く配置して城下町の中心としました。

上本町には問屋場、高札場があって町民に各種の「触れ(布令)」を掲げ、享保17年(1732)に「火の見櫓」ができましたが、この付近がその箇所と思われます。

 

 

 

 

高札場跡問屋場跡火の見櫓跡を別角度から…火の見櫓の建屋は、近年建て建てられたもののようです。

 

 

 

 

更に進むと、背の高い建屋が見えて来ます。

 

 

 

 

こちらは、「本町車山蔵」。

寛永12年(1635)に始まったとされる犬山祭の車山を収納しておく蔵で、明治42年(1909)に建築されたもので、三層の車山を二層まで組み立てたまま入れておくことができ、板扉と漆喰の塗籠の壁が大変美しい蔵は、犬山藩の御用大工の系統を継ぐ市橋清次郎が大工棟梁を務めました。

 

 

 

犬山城下にある13の車山蔵もコンクリート製のものに姿を変えつつある中、伝統的な木造の蔵が残っているのは、本町と新町だけになっています。

蔵に収められている本町の車山の名は「威英」、からくり人形の名は「唐子遊び」です。

 

 

 

趣がある車山蔵ですね~

 

 

 

 

本町車山蔵の隣の御宅も渋いな~

 

 

 

 

更に進むと、「犬山城大手門」という由緒書きがありました。

 

 

 

 

その由緒書きの左側には、「犬山城大手門跡」とあって…

犬山城の大手門はこの地にあって、城郭と城下町の境界にあり、南側に街並が広がっていて、北側(天守方向)は上級武家屋敷などが並んでいました。

 

 

 

また大手門は単に門があっただけではなく、枡形と呼ばれる土塁で囲まれた四角い広場と「二の門」で構成されていて、敵の直進を妨げる効果があり、防御に優れていると言われています。

 

 

 

この由緒書きの下には、絵図が掲示されていて…

 

 

 

 

由緒書きの右面には、「大手門と枡形」。

犬山城の大手門は、堀、土塁、土塀と門で構成されていて、木製の橋が架けられていたことが江戸時代の絵図などから分かっています。

高麗門形式の大手門を入ると桝形があり、直角に曲がると二階建ての櫓門形式の二の門がありました。

 

 

 

大手門と枡形は明治時代の初め頃まであり、その状況を撮影した古写真も残されていますが、その後すぐに土塁を崩して堀が埋められたと考えられ、現在のように平らな土地となりました。

 

 

 

由緒書きの下には、ジオラマ写真と、明治初年頃の大手門の古写真が掲示されていました。

 

 

 

 

大手門跡の近くには、広場があって…

 

 

 

 

城下町現況写真」という航空写真。

 

 

 

 

犬山城下絵図

犬山城の城郭と城下町の形態を元文5年(1740)に描いたものを明治4年に写した絵図で、航空写真と比較しても、道路や社寺の配置等、総構えの特徴が良く残っているが分かります。

 

 

 

 

更に進むと、また史跡案内板を発見。

 

 

 

 

その案内板は、「史跡 敬道館跡」。

 

 

 

 

犬山藩校 敬道館跡

天保11年(1840)8代藩主成瀬正住が建てたもので、この流れを引くものが犬山北小学校です。

尾張侯の付家老をしていた成瀬氏は、敬道館と同時に、名古屋屋敷に学問所を建て「要道館」と名付けましたが、明治元年に敬道館と合併しました。

 

 

 

天保12年に開館され、明治4年まで続き、職制は尾張藩校の明倫堂(今の明和高等学校の前身)を模範として造られました。

文久以後は、総裁、幹事、教授、助教、監生、授読、筆生、給事という職員を置き、生徒の定員は、40~50人でした。

 

総裁は家老の兼務で、最初は水野弥之衛門。

幹事は今の事務長のような人で、教授の定員は1名、俸禄は十石。初代は戸田新吾、次に鈴木玄道、維新後に村瀬太乙が就任しました。

 

8歳で入館し、15歳で退館するのが決まりでしたが、退館後も希望者は受講することが許されていて、座席は長幼の順になっており、学科は読書、習字、作法(武家作法、伊勢流、古実)の3科目でしたが、甲冑着用なども教えていました。

五つ(午前8時)から八つ(午後3時)までの授業で、毎月1日、15日、25日は休日とされていました。

日本最初の薬学博士下山順一郎先生、軍人でありながら学問の良くできた八代六郎大将も、この敬道館に学んだ人です。

 

 

劣化がひどくて、読みづらいですね、由緒書き…涙

 

 

 

高木家住宅」「高札場跡 問屋場跡 火の見櫓跡」「本町車山蔵」「犬山城大手門跡」「敬道館跡」と見学した後は、「MASEN 犬山からくりミュージアム」に向かいました。

その様子は、また後日。

 

 

 

 

高木家住宅

愛知県犬山市東古券74

 

 

高札場問屋場火の見櫓跡

愛知県犬山市犬山東古券777付近

 

 

本町車山蔵

愛知県犬山市大字東古券779

 

 

犬山城大手門跡

愛知県犬山市犬山北古券甲98-1付近

 

 

敬道館跡

愛知県犬山市犬山北古券93-8

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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