郡山市開成館(その6)~福島県郡山市の博物館・歴史的建造物 | 九州下町おやじの珍道中

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20202月下旬の福島県郡山市歴史散策の続き。

 

郡山市開成館」の続き。

 

 

郡山市開成館(その5)のレポ

 

 

 

 

 

説明パネル「地元農民たちによる開拓

旧福島県開成社、国営開拓が成功していく中で、地元農民たちも開拓に挑戦しますが、資金がどこからから出る訳はなく、自分の力で開拓を進めて行かなくてならず、苦労は大きかったと言えます。

 

 

 

大槻村民「御料地(国有地)」開墾

明治24年、大槻村民167名は、その頃「庚担原」と呼ばれていた原野の開拓を県知事に願い出て、翌年許可され開拓が始まりましたが、国や県から援助はなく、逆に借地料を納める必要があり、また国からの払い下げを受けなければなりませんでした…

 

 

安積地区「一歩園前田開墾」

明治15年、政府高官であった前田正名は、牛庭原と大谷地原の合わせて440町歩余りの国有地を借りましたが、前田は明治10年代から全国各地の国有地を借りて開拓を行っており、これらの開拓は本部を神戸のオリーブ園に置き、総称して「一歩園」と名付けられました。

移住者と近辺の農民を作戸人として雇い、作業に従事させましたが、たびたび小作料を巡り争議が起き、前田の経営は昭和38年まで続きました。

明治28年には、合わせて300町歩余りの土地が無料で前田に払い下げられましたが、大正3年、福島の大島要三の手に移り、「大島農場」として経営されました。

 

 

政府高官の農場経営

明治の始めには、政府高官が国有地を借り、小作人を使って大農場を経営する例が各所に見られ、栃木県那須野ヶ原には明治13年から、三島通庸大山巌西郷従道松方正義山県有朋大久保利和大久保利通の子)など、薩摩閥の政府高官15名が国有地を手に入れ、大地主として農園を経営していました。

 

 

 

御料局より係る開墾書類」明治31年(1898)。

 

 

 

 

有馬家開墾事務書類」明治13年(1880)から明治15年。

 

 

 

 

西洋農具拝借願書類」明治14年(1881)

 

 

 

 

説明パネル「安積開拓官舎と開拓者住宅

明治6年、福島県開拓掛が発足し、その職員用の官舎が必要となり、開成館をとりまくように3棟の官舎が建てられ、それぞれ「一番」「二番」「三番」の番号がついてあり、「安積開拓官舎-旧立岩一郎邸」として復元された建物が「一番官舎」だと考えられています。

 

 

 

安積開拓官舎」と「安積開拓者住宅」は、このシリーズで、紹介していますね。

 

安積開拓官舎(旧立岩一郎邸)のレポ

 

 

 

安積開拓入植者住宅(旧小山家)(旧坪内家)のレポ

 

 

 

 

 

県限達留 其の他より」明治12年(1870)(左)、「柿板」(右)。

 

 

 

 

和釘」(左)、「釘隠し」(右上)、「落書板」(右下)。開拓官舎の資料になります。

 

 

 

 

更に上階、3階に上がります。

 

 

 

 

すると、銅像が!こちらは「開拓者の群像」。

しかし、どこかで、見たような…?

 

 

 

この「開拓者の群像」は、「開成山公園」にある塔のモニュメントの足元に置かれている像と同じものですね~

 

開成山公園のレポ

 

 

 

 

 

安積開拓ゆかりの人々」の掲示がありました。

まずは、小林久敬。文政4年(1821)岩瀬郡須賀川に生まれ、江戸時代から猪苗代湖の水を引いて安積郡と岩瀬郡を開拓することを考え、明治に入ると県や政府に何度も疏水開削を提言。全財産を投げうって活動しましたが、疏水完成の10年後に亡くなりました。

 

 

 

 

渡辺閑哉と、安場保和

 

 

 

渡辺閑哉

寛政10年(1798)安達郡下長折村に生まれ、江戸時代に既に安積原野の開拓を考えており、明治時代に入ってからは疏水計画の実地調査などを行い、明治5年には県に意見を申し立てていました。当時渡辺の考えた疏水計画は、後に実現した安積疏水の経路と同じものでした。

 

 

安場保和

熊本藩士族だった安場は、郡山出身の儒学者安積良斎(ごんさい)の門人で、明治維新後、地方官としての道を歩み、明治5年、合併前の福島県に県令として赴き、3年7ヶ月在任し、県の事業として開拓に取り掛かるなど、数々の業績を残しました。

中條政恒を福島県典事(現課長職)として迎え、開拓を進めたことも安場の大きな功績と言えます。

 

 

 

山吉盛典と、中條政恒

 

 

 

山吉盛典

明治9年、現在の福島県が成立した時、初代県令となったのは、旧福島県大書記官だった山吉で、米沢藩の家に生まれ、明治5年旧福島県に権参事として赴いてから、明治15年に転出するまで10年余り、福島に在住しました。

安積疏水の為に行われたと言われる三県合併後、全国に先駆けて実施された「民会(県議会)の創設」など、福島県に大きな業績を残した人物です。

 

 

中條政恒

安積開拓の父」とも呼ばれ、安積開拓最大の功労者として賞賛されている中條は、天保12年(1841)米沢藩の家に生まれました。

慶応2年、中條は藩に「北海道開拓」の建議書を提出、明治5年には政府にも提出しましたが行われることはなく、その年に旧福島県へと移りました。

明治6年、旧福島県開拓掛の責任者として、石井・加藤と郡山へ赴き、大槻原開拓の指揮を執り、郡山の有力商人を説得し「開成社」を結成させ、明治9年、権参事となり、安積開拓全体の事業を勧めました。

明治14年、太政官少書記となり福島県を離れますが、その時、郡山では開成館の3階で送別会が開かれ、多くの人々が別れを惜しみました。

その後も中條と郡山の交流は続き、明治30年に東京から桑野村に移り住み、明治33年59歳で自宅で亡くなり、桑野村内の開拓墓場へ葬られました。

 

 

 

奈良原繁と、南一郎平(いちとぺい)。

 

 

 

奈良原繁

天保5年(1834)鹿児島藩士の家に生まれ、明治11年、内務省権大書記でありながら、安積開拓の御用掛に命じられ、明治16年に静岡県令に転出するまでの6年間、政府の直轄事業の「五百戸移住」と「疏水事業」の最高責任者として桑野村に常駐しました。

 

 

南一郎平(いちとぺい)

天保7年(1836)金屋村(現大分県宇佐市)に生まれ、明治9年に大久保利通の命を受け開拓に適した土地を調査するため東北地方へ派遣され、安積郡内の諸原野が最適地であると報告し、翌10年に再び福島県に派遣されます。

派遣内容は、猪苗代湖付近の地形を詳しく検討することで、調査の結果、猪苗代疏水を開拓地へ東注することができるとし、そのの報告に基づき、内務省は明治11年、事業の実施を決定。明治12年に福島県へ出張し、安積疎水の工事着工準備担当として現地で指揮しました。

 

 

 

ファン・ドールンと、伊藤直記

 

 

 

ファン・ドールン

1837年にオランダで生まれ、明治初期のオランダは、水利土木分野が最も進んでいた国で、その技術者であるドールンが明治5年に明治政府の要請により来日。

明治11年、長工師(技師長)の職にあったドールンは郡山へ赴き、猪苗代湖を視察し、政府が提示した疏水開削の候補地を検討、疏水経営が決定されました。

 

 

伊藤直記

文政9年(1826)田村郡荒和田村(現船引町)に生まれ、弘化5年に和算家として有名な佐久間庸軒の門下生になりました。

明治2年に上京、福村周義の門下生となり天文・航海・陸地測量を学び、その後、磐前県と若松県で測量の仕事をし、明治9年に合併後の福島県の職員となり、明治12年には内務省(後に農商務省)との職員の兼任となって、安積疏水の仕事を行いました。

 

 

 

橋本東泉と、後藤良介

 

 

 

橋本東泉

弘化元年(1844)土棚村(現西田町)に生まれ、佐久間庸軒の門下生となり、最上流和算と洋算を学び、安政6年に上京し、関流和算福村周義から測量学を学びました。

その後、明治の地租改正に伴い、仙台・相馬・三春などで測量し、安積疏水事業においては候補地の測量を行いました。

開成山公園内には、東泉の記念碑があります。

 

 

後藤良介

嘉永5年(1852)石筵村(現熱海町)に生まれ、明治維新後、内務寮で土木工学を学び、内務省職員となり、明治12年、内務省勧農局猪苗代疏水工事掛・七等属として郡山に赴きました。

安積疏水工事完了後は福島県職員として従事し、晩年は福島県議会の副議長を務めました。

 

 

 

開成館3階を進みます。

 

 

 

 

続いて、石井貞廉と、加藤邦憲

 

 

 

石井貞廉

明治6年、中條加藤とともに福島県開拓掛として最初に郡山に赴いた3名の職員の一人。桑野地区の開拓に始めから関わった職員で、西洋式農具の導入を進めた人物で、石井は自らも開拓を行い、県官舎の二番官舎の払い下げを受け、桑野村で牧畜を行いました。

 

 

加藤邦憲

明治6年、中條石井とともに福島県開拓掛として最初に郡山に赴いた3名の職員の一人で、会計、営繕面を担当していましたが、明治8年、病気の為、亡くなりました。

開成山大神宮の境内には、加藤の追悼碑が建てられています。

 

 

 

立岩一郎と、大久保利通

 

 

 

立岩一郎

天保10年(1839)米沢城下に生まれ、旧米沢藩以来の同志とも言える中條に最も信頼されていた人物で、明治5年に旧福島県十一等出仕として聴訴分課に務めました。

明治12年には、開成館内に設置された勧業課開拓科出張所の所長となり、併せて郡山農学校長も務めるなど、安積開拓に尽力しました。

その後、福島県を退職しますが、住んでいた一番官舎を払い下げ、明治29年から33年まで桑野村の村長となり、村の発展に努力しました。

 

 

大久保利通

天保元年(1830)薩摩藩士の家に生まれ、明治2年に政府の参事となり、大蔵卿、内務卿を歴任し、明治政権の中心人物として版籍奉還・廃藩置県を決行しました。

政府部内で最も殖産興業を勧めた一人で、安積開拓の五百戸移住、疏水事業の実現も、大久保の力によるところが大きいと言えます。

明治11年、紀尾井坂で襲われ49歳で亡くなりました。

 

 

 

阿部茂兵衛羽根田延光渡辺三平

 

 

 

阿部茂兵衛

文政10年(1827)郡山に生まれた開成社初代社長の阿部は、呉服・質・両替を営む老舗の豪商で、安積開拓における民間資本の大槻原開拓の中心人物で、中條とともに開成社員の勧誘や説得に当たる等、民間人として安積開拓に尽くした人物の一人です。

その功績を讃えて開成山大神宮境内に銅像が建てられています。

 

 

羽根田延光

明治8年、郡山へ出張し、勤めることになった職員で、その後、安積疏水の仕事につき、安積開拓に最も長期間携わった役人の一人です。

明治9年の明治天皇東北巡幸の頃は、一番官舎に住んでいたと思われます。

 

 

渡辺三平

明治13年、安積勧業開拓科出張所の職員となり、安積開拓官舎のうち三番官舎は、後にこの人物に払い下げられたようです。

 

 

 

説明パネル「行幸決定-桑野村の開成館が行在所に

明治天皇が、開成館に来られたんですね。

 

 

 

 

行在所としての開成館

1回目の巡幸は、明治9年6月16日に天皇が馬車で開成館にお着きになり、山吉参事や中條権参事、開成社員25名らが天皇にお会いし、天皇はこの夜、開成館の3階にお泊まりになりました。

 

 

 

2回目は明治14年10月5日で、開成館は昼食会場として使われ、この時は、開成社、久留米、二本松、高知からの移住入植者、桑野村への移住者らが開成館に呼ばれました。

 

 

 

行幸の行列は、こんな感じだったんですね~

 

 

 

 

3階の窓からの眺め。眼下に玄関の破風の屋根が見えています。

 

 

 

 

説明パネル「安積疏水と巡幸

 

 

 

 

説明パネル「明治天皇と郡山-明治9年巡幸

 

 

 

 

菊花御紋章桐御紋章落雁木型」明治9年(1876)か?(上)

天皇御巡幸の際に、菊と桐の紋章を象った落雁を作って献上したとされます。

記(明治天皇東北御巡幸の諸品手配)」明治9年(1876)(下)

 

 

 

 

御巡幸関係記録」明治14年(1881)

御巡幸に際して購入した調度品が記されています。

 

 

 

 

説明パネル「明治天皇と郡山-明治14年巡幸

 

 

 

 

説明パネル「明治天皇と郡山-明治9年巡幸

 

 

 

その7」に続く。

 

 

 

 

郡山市開成館

福島県郡山市開成3-3-7

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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