吉田城跡(その2)~愛知県豊橋市の城跡・城郭・史跡 | 九州下町おやじの珍道中

九州下町おやじの珍道中

下町おやじが、愉快に美味しく楽しく過ごす九州。
よかとこやね~九州は♪大好きバイ(^^)

20214月中旬の愛知県豊橋市散策の続き。

 

吉田城跡」の続き。

 

 

吉田城跡(その1)のレポ

 

 

 

 

 

吉田城鉄櫓(くろがねやぐら)」の中を進みます。

陣羽織が展示してあって…

 

 

 

 

酒井忠次と吉田城

争乱に明け暮れた「吉田城」にピリオドを打ったのは、岡崎城を本拠とする松平家康徳川家康)。1565年今川方の城代小原鎮実の守る吉田城を攻略し、重鎮酒井忠次を吉田城主に置きました。夫人は家康公の叔母「碓氷姫」で、家臣で城が与えられたのは、酒井忠次が初めてでした。

 

 

 

酒井忠次は、1527年に現在の岡崎市井田町で生まれ、1565年~1588年の23年間を吉田城で過ごし、駿河の今川攻めに参加し、武田信玄吉田城攻めを受けるなど戦いに明け暮れ、徳川四天王の筆頭、第一の功臣として称えられ、1575年の長篠の戦いで活躍した酒井忠次は、戦いの後、信長公から「背に目を持つ如し」と称賛され、革羽織を褒美として授かりました。

 

ということは、一つ上の写真の羽織は、信長公から拝領したものを復元したもの、ということのようですね~

 

 

 

 

明治期 吉田城の元家臣像

 

 

 

 

池田輝政と吉田城

池田輝政(当時は照政)は1564年清洲に生まれ、1582年に本能寺の変で信長公が明智光秀に討たれると、父兄とともに豊臣秀吉に仕え、関東の北条氏を降伏させると、家康公を関東に国替え。

 

 

 

秀吉は、東海地方に配下の武将を置き、吉田城には岐阜城主だった池田輝政を15万2,000石の大名として国替えさせました。

酒井忠次とその嫡子の酒井家次は3万石程度でしたが、池田輝政は城地の拡張整備に着手し、城郭を大改修、大規模な縄張り(84ha)とし、1600年の関ケ原の戦い後、播磨姫路52万石に国替えされ、国宝となっている姫路城を造りました。

 

 

 

 

吉田城の縄張り

豊川や浅倉川を背に本丸と基点として、二の丸、三の丸を前面と側面に配した半輪郭式の「後ろ堅固の城」と称されるものですが、欠点は、河川を背にして戦う背水の陣を取りながらも、背後から川を渡られ、本丸を直接攻撃されやすいことにありましたので、本丸背後に腰曲輪を備え、石垣もより高く強固なものとして、その弱点を補っています。

 

 

 

 

九つの櫓で構成

吉田城にはかつて9棟の櫓があり、本丸の四隅に鉄櫓、入道櫓、辰巳櫓、千貫櫓があり、二之丸、三之丸、腰曲輪には、雷櫓、着到櫓、評定櫓、太鼓櫓、川手櫓がありました。

この建物は、1954年に豊橋公園で開催された豊橋産業文化大博覧会に併せて模擬再建された鉄櫓(くろがねやぐら)です。

 

 

 

 

城下町・宿場町として発展した吉田

1663年から1690年の間に整備がほぼ完了。武家屋敷は12の小路で町が形成され、足軽の屋敷は武家屋敷都は塀と堀で区分された城外の東西2ヶ所に配置されていました。

 

 

 

吉田の宿は、東海道ができた当初からの宿場で、江戸日本橋から34番目の位置にあり、東海道沿いの町を表町12町、東海道の南にある町を裏町12町といい、計24町で構成していて、表町には本陣が2軒、脇本陣が1軒、旅籠屋は65軒(1802年の記録)あり、戸数は約1,000軒、人口は5,000~7,000人程でした。

 

 

 

 

吉田と花火」「手筒花火

現在も行われている吉田神社の祇園祭は、平安中期の1124年にこの地に疫病が流行したので、除疫神である牛頭天王を新たに迎えて、祇園会を行ったことが起源であると言われています。花火も名物なんですね~

 

 

 

 

最上階に到着。

 

 

 

 

窓は…小さくて、格子もあって、見づらいですが…(^^;

 

 

 

 

池田輝政の顔出しパネル!流石に一人ではできん 笑

 

 

 

 

下の階に下りて、更に展示を見学します。

 

伊勢航路としての吉田湊

船町一帯は吉田湊と呼ばれ、港町として栄えました。吉田藩は吉田川(豊川)河口から約4㎞上流にありますが、満潮時には海から大型の帆船が入港することができ、その為、伊勢参宮の旅人や奥三河からの物資の輸送拠点として賑わいを見せました。

伊勢へは陸路で4日かかる処、海路では天候が良ければ半日で着くことができました。

 

 

 

 

床には、「吉田城下町推定図」が貼られていて…これは、分かり易い!

 

 

 

 

吉田城の石膏模型

昭和29年の豊橋産業文化大博覧会の展示品で、そのまま櫓内に残っている唯一のものだそうです。

 

 

 

 

天下の奇祭 豊橋 鬼祭 [現在]

940年に創建されたと伝えられる「安久美神戸神明社」の例祭で、鬼と天狗のからかいを鬼祭と言い、この地を治める武将の庇護を受け、古式を残し伝えて来ました。

祭のクライマックスは「赤鬼と天狗のからかい」で、暴れる赤鬼を天狗が退治する無言劇は天狗の勝利となりますが、敗けた赤鬼は若衆とともに白い粉とタンキリ飴をまき散らし境外に走り出しレ行きます。この粉をあび、飴を食べると厄除けとなり、夏病みしないと言われています。

 

 

 

 

吉田城」の模型。

 

 

 

 

別角度、豊川の方から…天守閣はなく、本丸には御殿があったのですね。

 

 

 

 

明治期 大手門の写真

大手門は、池田輝政が拡張した際の1594年頃に建設されたと言われ、この写真は明治初期に撮影されたもので、静岡県湖西市の本興寺には、吉田城旧大手門と奥書院が残っています。

 

 

 

 

明治期 吉田城の写真

御城の北側を流れる豊川の対岸(下地町)方面から撮影した明治期の写真で、右手の櫓は川手櫓で、その後ろ(南側)にあった鉄櫓は既に解体されたのか、写っていません。

江戸時代には、河岸から見れば、川手櫓鉄櫓が重なり、鉄櫓は天守としての雄姿を見せたことでしょう。左に見えるのは、入道櫓です。

 

 

 

 

明治2年(1869)最後の城主大河内信古は版籍奉還を受け入れ、新政府から藩名替えを命ぜられ吉田改め豊橋藩知事となり、城郭や武家屋敷などは官公庁用地として利用されました。

明治18年(1884)吉田城址は歩兵第18聯隊の屯営となり、昭和20年(1945)第二次世界大戦終結まで陸軍省の用地として、普段は一般人の入場はできず、1949年に豊橋公園として一般に開放されました。

 

 

 

 

鉄櫓の内部の見学を終え、外に出て、本丸を一回り。

鉄櫓跡」という案内石碑を発見。ここに、鉄櫓があったのか…

 

 

 

 

石垣もじっくりと…

 

 

 

 

こちらの隅石は、大きなものを積み上げていますね~♪

 

 

 

 

城の石垣刻印とは

室町時代から江戸初期頃に築城されたお城の石垣には、刻印(家紋・名前・文字・記号など)が施してあることがありますが、刻印を施したのは築城に携わった武将か配下の武士、石工、採石場の石職人、石を運搬手配した商人など、多くの可能性があり、ここは自分たちの仕事であると誇示するとともに所有を示し、盗難を防止するためとも言われています。

 

 

 

 

吉田城の由緒書きには、「石垣と刻印」についても記されています。

大規模に拡張された吉田城も、石垣のあるのは本丸とその他数ヶ所だけで、他は土塁。

野面積み(自然石を砕いてそのまま積んで行く)である鉄櫓(復興)下北面と西面の石垣は、後世の手直しの跡のない池田輝政時代の石垣と言われています。

 

 

 

刻印は現在まで50以上確認されています。

吉田城の石垣に使われている花崗岩は、名古屋城創設用の石材を使用したものです。

 

 

 

 

空堀と石垣。

 

 

 

 

城内を更に進んで…石垣が途切れている部分が、冠木門跡になります。石垣と石垣の間に、城門があったんですね。

 

 

 

 

嗚呼 中村道太翁」と刻まれた石碑。

 

 

 

 

================================

中村 道太(なかむら みちた、天保7年3月10日(1836年4月25日) - 大正10年(1921年)1月3日)は、幕臣、明治・大正期の実業家、教育者。

弟に実業家(花火師)の平山甚太、作家獅子文六は甚太の孫。

(中略)

人物

三河吉田藩士の出身。大政奉還後、藩命により江戸詰めを命じられて穂積清軒に従事し、行動を共にする。やがて江戸屋敷の上屋敷に移り、公用人に挙げられた。江戸奉公で上府し幕臣となる。ここで勝海舟や外国方翻訳局の福澤諭吉を知り、築地鉄砲洲の慶應義塾に学ぶ。戊辰戦争で藩の大参事となり、豊橋で好問社を創立し、女子教育を始める。明治維新後、家禄を失った武士を集めて中村屋を創業する。横浜で貿易などに挑戦する。福澤諭吉の門下の丸屋商社(丸善)の早矢仕有的と懇意になり、それが縁で横浜正金銀行初代頭取に就任する。西南戦争の後、愛知県渥美郡長となり、第八国立銀行を創立する。東京米商会所の頭取となるが、薩長閥の官僚によって終生その商才を妨害されることになった。(後略)(ウィキペディア「中村道太」)

================================

 

 

 

 

 

中村道太碑」。顕彰碑が2つもあるので、ビックリです!

 

 

 

 

お花を植えた時計もあって…

 

 

 

 

こちらの花壇は、NHK朝ドラ「エール」の撮影現場だったことを記念して整備された「花のステージ」です。

 

 

 

 

花のステージ」には、「豊橋市歌」の楽譜・歌詞も掲示されていました。

 

 

 

 

吉田城跡」を見学した後は、帰路に着きましたので、このシリーズもこれにて終了です。

中部地区は、なかなか訪問する機会がなかったので、新鮮な気持ちになりますね~

豊橋もこんなにもゆっくり回ったことがなくて…

 

他にも、歴史散策したい!と思うような場所・町がまだまだありますので、少しずつ散策してアップして行きますね(^^)

 

 

 

 

吉田城跡

愛知県豊橋市今橋町3(豊橋公園)

 

 

 

 

 

 

豊橋がロケ地だったんですね、エール

 

 

 

にほんブログ村 福岡(市)・博多情報

https://localkyushu.blogmura.com/fukuoka_town/ranking.html?p_cid=10197823

↑ランキング参加中!クリックして戴けますと、嬉しいです!

 

 

人気ブログランキング

https://blog.with2.net/in.php?819555

↑ランキング参加中!クリックして戴けますと、嬉しいです!

 

 

Trip-Partner [トリップパートナー]

https://trip-partner.jp/

 

 

ぷらたび

https://platabi.com

 

 

昨日のライブ、素晴らしかったな~MONSTER CAT'S 大好きな曲♪WOMAN♪