2020年4月中旬の愛知県豊橋市散策の続き。
「松葉公園」「こども未来館ココニコ」の前を通り、豊橋の町中から豊橋駅周辺を歩いた後は、「吉田城跡」に向かいました。
松葉公園・こども未来館ココニコ・豊橋駅のレポ
豊橋駅前から車で移動。「豊橋市美術博物館」の駐車場に止めて、「吉田城跡」に向かいます。
すると、すぐに「川毛口門跡」の石碑を発見。
「吉田城跡」は、「豊橋公園」の中にあります。「豊橋市美術博物館」も豊橋公園内にあるんですよね。
「豊橋公園」を進みます。
「豊橋市美術博物館」が見えて来て…
「豊橋公園」には、お城の土塁跡と思われる盛り土もあります♪
「豊橋公園」を更に進みます。
この辺りが、「二の丸御殿跡」。御殿は本丸ではなく、二の丸にあったんですね。
「此処に歩兵第百十八聯隊ありき」という石碑。やはり、城跡には、軍隊が置かれていたんですね…
更に進むと、「旧藩祖豊城神社」という石碑があって…
「歩兵第十八聯隊之址」
「歩十八会(戦友会)」
「金柑丸跡」。「キンカン丸」とは、面白い名前ですね~笑
更に進んで、鳥居。「弥健神社」とあります。「豊城神社」ではないんですね…
鳥居をくぐると、銅像が…御社はないようです…
銅像の台石には、由緒書きのプレートがありました。
明治27、28年の日清戦役の戦勝記念碑上に奉安した神武天皇です。
神武天皇像を後ろの方から…
豊橋公園を更に進むと、堀跡と石垣が見えて来て…
「吉田城」の由緒書き。
はじめは「今橋城」と称し、永正2年(1505)牧野古白によって築城され、東三河の要衝と今川・武田・徳川ら戦国武将が攻防を繰り返した後、天正18年(1590)池田輝政が入封、15万2千石の城地に相応しい拡張と城下町の整備が行われましたが、10年で播磨姫路に移封、後に入封した大名は譜代ながら少禄の為、大拡張された城地も未完成のまま明治に至りました。
「吉田城」の由緒書きには、昔の絵図もあって…
先程のお濠をじっくりと…かなり深いですね~
更に進むと、石垣に囲われて、鍵型に曲がった空間が…
この空間は、「裏御門跡」。
裏御門跡を通り抜けると、石垣に囲まれていて…こちらは、本丸跡。
本丸の奥に、天守閣があります。再建天守ですが、なかなかカッコいいですね~♪
本丸に向かって右手に進むと、武具所跡があって、その眼下には、豊川が流れていて…いい眺め~♪
豊川の方から、天守閣を眺めて…
豊川側の石垣。古そうですね~野面積みでいい味わい♪
吉田城の天守閣の内部を見学することができます。入場無料。
あら?「鉄櫓(くろがねやぐら)」というんですね…失礼しました(^^;
「吉田城鉄櫓」には、「吉田城」に関する展示がなされています。
「吉田城 築城から廃城まで」
1590年、池田輝政(当時は池田照政)が入城し、11年間城主を務め、城下町を整備。
徳川幕府成立後に22代の譜代大名が吉田を支配し、吉田城主になることが出世の登竜門とも言われていました。
明治維新を迎え、1873年に廃城令によって取り壊しとなり、明治18年(1885)日本陸軍名古屋鎮台歩兵第18連隊が置かれました。
太平洋戦争後、豊橋公園として整備されました。
「牧野古白と吉田城」
15世紀頃、今橋と呼ばれる宿として経済や交通の拠点で、16世紀になると、宝飯郡の牧野氏、渥美郡の戸田氏、西三河の松平氏、駿河の今川氏が派遣を争うようになりました。
現 豊川市牛久保町にあった一色城主牧野古白が今橋の地に城を築き、これが吉田城の前身で、この地は、一色城を拠点とする今川方の牧野氏と田原・豊橋市南部の戸田氏との中間地点であり築かれました。
牧野古白は築城の翌年に討ち死にし、それから70年余り、吉田城の争奪戦が行われました。
「吉田城争奪戦」
①天文15年(1546)今川義元、②永禄7年(1564)徳川家康、③元亀2年(1571)武田信玄と、有力戦国大名による争奪戦が行われたのですね…
「その2」に続く。
吉田城跡
愛知県豊橋市今橋町3(豊橋公園)
池田輝政を知るには…
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