先日2020年6月22日の小田原歴史散策の続き。
「松原神社」をお参りした後は、「明治天皇宮ノ前行在所跡」に向かいました。
松原神社のレポ
「松原神社」の参道を南に進むと、丁字路に突き当たるので、そこを左折。
すると、右手に、「明治天皇宮ノ前行在所跡」があります。
入口脇には、「明治天皇聖蹟」と刻まれた石碑があって…。
「小田原宿 清水金左ヱ門本陣跡」という由緒書きもありました。
小田原宿は、東海道五十三次の江戸から20里(約80km)の距離にある、品川宿から数えて9番目の宿場で、箱根越えを控えたことなどから、多くの大名や旅行者が宿泊し、東海道中でも大変規模が大きい宿場でした。
天保年間(1830~1844)当時、小田原宿には4軒の本陣、4軒の脇本陣、95軒の旅籠があり、清水金左ヱ門本陣跡と片岡永左ヱ門本陣跡は、明治天皇が全国巡幸の折、宿泊していたことから、それぞれ「宮ノ前行在所跡」「本町行在所」として、小田原市の指定史跡になっています。
清水金左ヱ門本陣跡は、尾張徳川家、薩摩島津家、熊本細川家など西国の有力な大名の定宿としていて、明治元年(1868)東京遷都や全国巡幸の折、明治天皇も5回に渡り宿泊しています。
清水氏は、戦国大名北条氏の家臣で、伊豆下田城主を務めた家の子孫と伝わっており、江戸時代にも小田原宿の町年寄など重要な役割を担っていました。
「明治天皇宮ノ前行在所跡」である「小田原宿 清水金左ヱ門本陣跡」の敷地に進みます。公園のような空間になっていて、右手には、石碑がありました。
石碑の手前には、「明治天皇聖蹟」を記した碑文があって…
「明治天皇宮ノ前行在所跡(旧清水金左衛門本陣跡)」の由緒書き。
明治天皇が宿泊した清水金左衛門本陣のあった場所で、正碑は高さ2.73mの小松石の総磨で、碑面に「明治天皇小田原行在所址」と刻まれています。
清水金左衛門本陣跡は、小田原宿に4軒あった本陣の筆頭で、清水金左衛門家は江戸時代に町年寄も務め、宿場全体の掌握を行っていました。
本陣の敷地面積は、およそ240坪で、大名、宮家などの宿泊に当てられました。
明治天皇が宿泊したのは、明治元年(1868)10月8日の御東行の際を初めとして5回を数え、明治天皇聖跡小田原町保存会は、この土地を買収し、昭和15年2月に整備工事を着手、昭和15年10月に落成しました。
「明治天皇宮ノ前行在所跡」の石碑。「明治天皇小田原行在所址」と刻まれています。揮毫は公爵近衛文麿。
「宮ノ前聖蹟由来」という石碑もありました。
明治天皇が5回お泊りになった詳細が刻まれています。
2回目 明治元年12月9日 京都御還幸
3回目 明治2年3月25日 再度御東行
4回目 明治6年8月4日 皇后陛下御同列 宮ノ下行幸
5回目 明治6年8月28日29日 皇后陛下御同列 宮ノ下御還幸
「明治天皇宮ノ前行在所跡」の前には、「宮前町」という旧町名を表す石碑がありました。
読み方は、「みやのまえちょう」。「松原神社」の門前に当たるから、ということなのでしょうね。
小田原北条氏時代には、上町・下町に分かれていたと伝えられ、町の中央に城主専用の入口、浜手門口、高札場があり、江戸時代末期、町内には本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠23軒あって、本町とともに宿場の中心でした。
「清水金左衛門本陣跡」の左隣のビルの前にも、由緒書きがあるんですよね。
その由緒書きは、「8月15日の小田原空襲」。
昭和20年(1945)8月15日、まさに敗戦の当日、深夜1時か2時頃、小田原市はアメリカ軍の戦略爆撃機B29一機による焼夷弾空襲を受けました。
小田原空襲の直前には、埼玉県熊谷市と群馬県伊勢崎市が空襲を受けており、その攻撃をした編隊の一機が、マリアナ諸島の米軍基地へ帰還する途中に、小田原を空襲したものと考えられます。
アメリカ軍のその日の作戦任務報告書には、小田原空襲の記載は一切なく、計画されたものではありませんでした。
アメリカ軍の日本都市空襲の候補地が記された「180都市の表」の96番目に小田原が挙げられていて、本格的な空襲がなされた可能性もありました。
8月15日の小田原空襲で被災し炎上した地区は、現在の浜町1・3丁目、本町2・3丁目にまたがり、国道1号線を挟んで国際通りの両側に当たります。
焼失した家屋は約400軒、死者は本会の調査によると12名。
被災した古清水旅館には、小田原空襲を伝える写真が保存されていますが、当時の館主清水専吉郎氏が写真屋を呼んで撮影したものです。
小田原にも空襲があってんですね…それも計画外…焼夷弾が余ったから、機体を軽くするために、落として行ったということなのでしょうか…
「8月15日の小田原空襲」の由緒書きの前から、「明治天皇宮ノ前行在所跡」の方を眺めて…この辺りには、かつて、旅籠が並び、賑わっていたんですね…
「明治天皇宮ノ前行在所跡」から西の方、小田原城方面に進むと、左手に昔ながら建屋が見えて来ます。
こちらは「小田原宿なりわい交流館」。昭和7年に建設された旧網問屋の建物を再整備した小田原市の施設で、1階は観光案内・お休み処、2階はイベントスペースになっています。
この建物は、関東大震災(大正12年)により被害を受け、昭和7年に再建したもので、小田原の典型的な商家の造りである「出桁造り(だしげたづくり)」という建築方法が用いられており、2階正面は出格子窓になっていて、昔の旅籠の雰囲気を醸し出しています。
2階内部には、震災後に耐震工法として採用された洋小屋の構造を取り入れています。
出桁造りとは、柱の上に載せた太い桁を店の前面に何本も突き出し、そこに軒や屋根を載せた江戸時代から続く伝統的な商家の建築方法です。
「小田原宿なりわい交流館」を、別角度から今一度…
「小田原宿」の由緒書き。昔の絵図に、旧町名と本陣の位置が記されていて…これは分かり易いな♪
江戸時代の小田原は、城下町であるとともに東海道屈指の宿場町として発展。江戸を出発して、通常は途中一泊してここに到着します。
東は徒歩渡り(10月から3月の間は橋が架けられていました)の酒匂川、西は東海道一の難所箱根越えが控えていましたので、小田原で宿泊する人が多くいました。
小田原城下は、藩士が居住する武家地と寺社地及び商職人の住む町人地からなり、小田原宿の中心であったこの辺りの宮前町と西隣の本町でした。
土産物や旅の必需品を売る店も多く、蒲鉾、梅干、ういろう、小田原提灯などが小田原の名物とし広く知れ渡るようになり、市内では江戸時代から続く古い店が残っていて、今でも伝統を引き継ぎ、これらの名物を製造・販売しています。
「小田原宿なりわい交流館」は、国道1号線が直角曲がる本町交差点にあります。この地に、高札場があったそうです。
この辺りの海抜は、9.3m。海に近いのに、地盤は結構高いんですね。ビックリ!
国道1号線、東海道を西に進みます。
すると、「片岡本陣跡」という案内板があって…。小田原宿に4軒あった本陣の一つで、伊予松山の松平家などが定宿としていて、幕末の当主片岡永左ヱ門は、明治時代には小田原町の要職を歴任し、当時の貴重な記録を数多く残しています。
「清水金左衛門本陣跡」の由緒書きにあった「片岡永左衛門本陣跡」とは、こちらになるんですね。
同時に、「明治天皇本町行在所跡」になるということか…
でも、「片岡本陣跡」は、今では、ビルやマンションになっていて、その面影はなく…
旧町名案内板「本町」。
小田原北条氏時代、この町は通小路と言われていましたが、江戸時代前期に、この町を基準にして城下の町人町を左右に町割りしたため本町と改められました。
隣の宮前町とともに小田原宿の中心として、江戸時代には本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠26軒ありました。
更に西に進むと、「久保田本陣跡」があって…。紀州徳川家、九州の黒田家、鍋島家、中国地方の毛利家などが定宿としており、久保田氏は、江戸時代前期から町年寄や名主役も務めていました。
御幸の浜交差点を左折し、海の方に進んで一つ目の角を左折。この通りは、「小田原かまぼこ通り」と呼ばれ、小田原名物の蒲鉾屋さんが多く建ち並んでいるようです。
その一角に、旧町名案内板「代官町」があります。
小田原北条氏時代には、代官小路と呼ばれていましたが、江戸時代、町内には魚座(魚商人の同業組合)商人が多く、魚座名主も住んでいました。
おまけ。小田原市の枡の蓋には、梅のデザインや…
松のデザインがなされているんですよね。
こちらは、松と梅の両方のデザインが!
「明治天皇宮ノ前行在所跡」である「小田原宿 清水金左ヱ門本陣跡」から「小田原宿なりわい交流館」、「片岡永左衛門本陣跡」「久保田本陣跡」「小田原かまぼこ通り」と回った後は、「小田原城」に向かいました。
その様子は、また後日。
明治天皇小田原行在所址・小田原宿 清水金左ヱ門本陣跡
神奈川県小田原市本町3-5
8月15日の小田原空襲碑
神奈川県小田原市本町3-5
小田原宿なりわい交流館
小田原市本町3-6-23
片岡本陣跡
神奈川県小田原市本町3-11-20付近
久保田本陣跡
神奈川県小田原市本町3-12-22付近
小田原かまぼこ通り
小田原名物・小田原かまぼこ
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