郡山駅前と、郡山市道路元標と、善導寺と ~福島県郡山市の駅・史跡・寺院 | 九州下町おやじの珍道中

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20202月下旬に、また仕事で、福島県郡山市に出撃して来ましたので、郡山歴史散策シリーズの続きとして、アップして行きますね。

 

 

NOODLE CAFE SAMURAI(ヌードルカフェサムライ シャモロック塩そばのレポ

 

 

 

 

東北新幹線で、郡山駅に到着。駅前広場に向かって…前回訪問時、ライトアップされていた場所になりますが、噴水のようなモニュメントだったんですね。

 

 

郡山駅の前回レポ

 

 

 

 

このモニュメントは、「麓山の滝」。

この滝は、郡山市発展の礎である安積疎水工事の完成を祝って、明治15年に勇気ある開拓者たちの手によって造られた「麓山の飛瀑」として人々に親しまれてきたもので、昭和初期に滝の大半が埋められ、ほんの一部分がその面影を残していましたが、平成の時代になり、安積開拓の先人の偉業を後世に伝えるため、麓山の滝を復元しようという機運が高まり、蘇ったものになります。

 

 

麓山の滝」をイメージして造られたものなんですね。

 

 

 

駅前には、手形のプレートもあって…。

 

 

 

その横には、「自らの扉を開け、歩き出して行こう!!by GReeeeN」というパネルが!GReeeeNは、ここ郡山で結成されたので、こうして手形が設置されているんですね。

 

 

 

メンバー全員の手形とサインがプレートとして埋め込まれていました。

 

 

 

その横には、ドアも!「自らの扉を開け、歩き出して行こう!!」というメッセージなんですね。足形もありました。

 

 

 

郡山駅から駅前大通りを西に進み、商店街の路地を入ると、何やらいろいろと置かれている場所があるんですよね。

 

 

 

郡山の水道史

 

 

皿沼水道

江戸時代、宿場町として大きく成長してきた郡山は、水田灌漑用の「皿沼」(現在の商工会議所)の水を代官所に願い出て、飲用・雑用・防火用として利用、皿沼の南東土手下に「水箱」を置き、受け口から竹を繋いで地下に埋め、各家に引きました。

 

山水道

皿沼の水は、その後の人口増加に応じきれず、明和年間(1760年頃)上町・下町の商家は個人や共同で現在の清水台・虎丸一帯の湧水の地に井戸を掘り「山水道」を引きました(富商の自弁工事)。地下を木管・竹菅で継ぎ、長くは数千メートルにも及びました。

 

貰い水

山水道を導入した商家は、屋敷に水井戸を造り、近所の人に自由に水を汲ませ、これが郡山の風物詩「貰い水」の習慣であり、山水道の一部は、昭和47年頃まで湧き続き使用されました。

 

 

郡山の「屋台歌舞伎」

文政7年(1824)郡山は宿場町に昇格し、それを祝って各町内は祭や山車の豪華さを競い、中町や大町は、栃木・烏山や地方回りの歌舞伎、また芸者の手踊り等を山車で披露しました。

交通事情等の理由から、山車舞台は昭和38年で姿を消しましたが、1996年、表参道の高質化を記念し、柳橋歌舞伎が上演され、その後5年間継続され、山車の飾りなどの一部は、現在も市によって保管されています。

 

 

 

その由緒書きの隣には、木箱と「山水道」と記されたモニュメントがありました。丸い棒のようなものは、水道管を表しているようで、木箱は「水箱」を表しているようですね。

 

 

 

その隣には、「郡山市道路元標」があります。

 

 

 

道路・元標

江戸時代、奥州街道の道標として、町の境界や分岐点に置かれたもので、中町では八幡様(安積国造神社)の表参道の正面に当たる場所に建てられ、当初は木の道標で江戸や会津までの距離が書かれていたようです。

 

 

その後、御影石に建て替えられた元標は、人々の記憶のオブジェとなっていましたが、道路改修の際、撤去される処を故・鈴木忠秋氏(鈴木忠株式会社創業者)が、その歴史証拠の重要性を認識し保管していたもので、中町モール化事業に伴い、復元しました。

実際に立っていた場所は、路上に印をしています。

 

 

 

郡山市道路元標」から更に西に進み、昭和通りを渡ると、古そうな御宅を発見。

 

 

 

昔ながらの建屋は、情緒があって、いいな~♪

 

 

 

その御宅の隣には、お寺があるんですよね。こちらは「善導寺」。

 

 

 

境内には、大きな石碑があって…「前内大臣正二位勲一等男爵湯浅公碑」とありますので、湯浅倉平の顕彰碑のようです。

 

 

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湯浅 倉平(ゆあさ くらへい、1874年(明治7年)2月1日 - 1940年(昭和15年)12月24日)は、日本の内務官僚・政治家。位階・勲等・爵位は正二位勲一等男爵[1]。初名は石川倉之丞。(後略)(ウィキペディア「湯浅倉平」)

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湯浅倉平顕彰碑の後ろには、鐘楼があって…。

 

 

 

善導寺鐘楼」の由緒書き。昭和33年(1958)落成。国登録有形文化財。

 

 

 

こちらの建物も古そうですが…

 

 

 

こちらは「善導寺庫裏」。建設年代や大工棟梁名は不明ですが、小屋裏の焦げ跡から明治33年(1900)の寺院火災から焼失を免れたものと思われ、恐らく明治元年(1868)戊辰戦争による被災で焼失した後、明治16年(1883)再興時に建造されたものと推定されます。

国登録有形文化財。

 

 

 

南無阿弥陀仏と刻まれた石碑。

 

 

 

本堂に近づいて…扁額には「光明閣」とあります。

 

 

 

善導寺本堂」の由緒書き。棟札のより明治42年(1909)に上棟し、帝室技芸員第九代伊藤平左衛門が大工棟梁として担当した堂宇です。こちらも、国登録有形文化財。

 

 

 

本堂に上がらせて頂いて、お参り…

 

 

 

彫刻がどれも見事でした♪

 

 

 

本堂の前には、仏足跡があって…。

 

 

 

仏足跡の由緒を刻んだ石碑。

 

 

 

境内には、小さな御堂と石碑が並んでいて…

 

 

 

御堂の中には、お地蔵様がいらっしゃいました。

 

 

 

その横には、石碑があって…。

 

 

 

その横には「二十三夜」と刻まれていますので、「二十三夜塔」。「月待塔(つきまちとう)」という民間信仰で、特定の月齢の夜に集まり、月待行事を行った講中で、供養の記念として造立した塔のことですね。

 

 

二十三夜塔」は、郡山の「如宝寺」のレポの中にも出て来ましたね。

 

如宝寺のレポ

 

 

 

 

その横の石碑には、「居士」とありますので、墓石のようです。

 

 

 

本堂を今一度。

 

 

 

郡山市道路元標」を見学して、「善導寺」をお参りした後は、「麓山公園」に向かいました。

その様子は、また後日。

 

 

 

 

郡山市道路元標

福島県郡山市中町11-11付近

 

 

善導寺

福島県郡山市清水台1-1-23

 

 

郡山銘菓!

 

 

 

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