大工町・林学横町・大手前と、小田原城大手門跡・鐘楼と ~神奈川県小田原市の街並・史跡 | 九州下町おやじの珍道中

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先日2020年6月22日の小田原歴史散策の続き。

 

北条氏政・氏照の墓所」をお参りし、小田原の旧地名案内板「高部屋」「上幸田」を見つけた後は、小田原市内を南の方、海の方に向かって歩いて行きました。

 

 

北条氏政・北条氏照の墓所・高部屋・上幸田のレポ

 

 

 

 

 

小田原 江嶋」というお茶屋さんから歩いてきた道を戻り、銀座通り交差点を左折すると、「大工町(だいくちょう)」と刻まれた石碑を発見。

 

 

 

小田原北条氏時代、大工(この時代、鋳物師や左官、鍛冶工などの諸職の職人頭を大工と言いました。)が住む町だったため、「大工町」と呼ばれたと伝えられていて、江戸時代からは大工ではなく商人も住むようになりました。

 

 

 

銀座通り交差点に戻り、今度は右折。南の方、海の方に歩いて行くと、「林学横町(りんがくよこちょう)」という石碑を見つけました。

 

 

 

この地名は、小田原北条氏時代からの住人であった渡辺利右衛門の号「林学」に因んだものだと言われています。「林学横町」は、「大工町」から林学小路まで南北に走る横町を言います。

 

 

 

林学横町」の碑がある路地を、こんな感じ。

 

 

 

更に海の方に歩いて行くと、道路の側溝の蓋に梅がデザインされていて…。なかなかステキです♪

 

 

 

更に歩くと、大きな松が植わっている建物があって…。

こちらは「だるま料理店」。明治26年(1893)創業の日本料理店。老舗料亭なんですね!威厳があります。

 

 

 

更に南下すると、国道一号線・東海道に出るんですよね。日本橋まで84kmのポストがありました。

 

 

 

東海道・国道一号線を左折。歩道橋の前に、「大手前」の石碑があって…。

 

 

 

町名の由来は、ここが小田原城大手門に通じていたためと言われ、当時は重臣屋敷が並んでいました。大手前から東に走る道路は甲州道と交差し、そこには柵門大手先黒門)があり、その先は唐人町に通じていました。

 

 

 

歩道橋のある交差点の角には、中央労働金庫小田原支店があるんですが、なかなか古そうな建屋で…

 

 

 

目を引きますね~♪素晴らしい!

 

 

 

歩道橋を渡ると…。おや?Y字になっている!変則的な歩道橋なんですね♪

 

 

 

歩道橋の上から、中央労働金庫小田原支店の建物を…

 

 

 

歩道橋を渡ると、周辺案内図がありました。

 

 

 

由緒書き「江戸時代の小田原」。文久年間の小田原城絵図が掲示してあって、この場所は、まさに大手門の前!

 

 

 

関東一円を支配した後北条氏は、天正18年(1590)豊臣秀吉公との小田原合戦に敗れ、戦国期最大規模の城郭として発展した小田原城徳川家康公の支配下に置かれました。

 

 

江戸時代に入ると、有力な譜代大名である大久保氏稲葉氏によって江戸を守る西の要として小田原城は改造され、石垣と水堀を中心とした近世的な城に姿を変えました。

この付近には、現在の道路に沿って、南北に三の丸東堀が造られ、この堀に架かる土橋を渡り、大手門を抜けると小田原城三の丸で、家老職など藩の重臣の屋敷や藩校集成館などがありました。

 

大手門は、小田原城で最も大きな門の一つで、小田原藩の藩士以外の通行には、氏名の確認が必要とされ、大手門から三の丸に入り、現在も残る二の丸東堀を渡り、馬出門、銅門(あかがねもん)を通ると、二の丸の中心部である藩主屋敷に至り、この道順が正式な登城路とされていました。

 

ここから約500m東にある国道1号線新宿交差点までの区間は、将軍専用の「御成道」とされ、藩主もこの道を通ることを遠慮したと言われています。

 

 

 

歩道橋を渡り、また海の方に進んで、すぐの角を右折すると、正面が「小田原城」になります。道路も一段高くなっているようです。

 

 

 

小田原城の方に進むと、右手に石垣があって、その上には鐘楼がありました。

 

 

 

この鐘楼の由緒書き。現在、朝夕6時に撞かれ、時を知らせていますが、「時の鐘」は、長い間、昼夜の隔てなく撞かれ、江戸時代の貞享3年(1686)の「貞享三年御引渡記録」には「小田原町の時の鐘は昼夜ついている。鐘つきの給金は一年金六両、この内金三両は町方から、三両は町奉行所から遣わしている」という記事があります。

 

 

この鐘は、初め浜手御門(ここより約150m南)の所にあったものを、明治29年(1896)裁判所の北東隅に移され、大正年間に現在の場所に移されました。

昭和17年(1942)には太平洋戦争の激化により、政府が金属類の供出命令を出し、金は応召され(時鐘応召)、その後、時報はサイレンやチャイムになりましたが、城下町に似つかわしくないということで、昭和28年(1953)小田原寺院団によって新しい鐘が造られ、これが現在の鐘となっています。

 

 

時の鐘になるんですね。

 

 

 

石垣の奥には石段があって…

 

 

 

石段を上り、時の鐘をじっくりと…

 

 

 

この石垣の前には、「大手門跡」の由緒書きがありました。

この鐘楼は、江戸時代に小田原城大手門の櫓台北側石垣があった場所にあり、東川の城下(国道1号線側)より一段高くなっていて、この門より西側は小田原城三の丸で、藩の重臣屋敷が建ち並んでいました。

 

 

大手門には、翌年に3代将軍徳川家光公の上洛を控えた寛永10年(1632)の改修工事により石垣が造られ、寛永20年(1642)に幕府の許可を得て、正保年間(1644~1648)に渡櫓門が、延宝年間(1673~1681)に前面に冠木門が普請されました。

 

 

この石垣は、大手門の石垣になるのか~スゴい!

 

 

 

この由緒書きに掲示された位置関係図。まさに大手門の前!

 

 

 

大手門跡は、現在はこんな感じで…

 

 

 

この写真の右側は、かつての濠跡になるようです…

 

 

 

旧町名の「大工町」「林学横町」「大手前」と回り、「小田原城大手門跡」に建てられた「鐘楼」を見学した後は、「松原神社」に向かいました。

その様子は、また後日。

 

 

 

 

だるま料理店

神奈川県小田原市本町2-1-30

 

 

 

 

中央労働金庫小田原支店

神奈川県小田原市本町2-1-23

 

 

小田原城大手門跡・鐘楼

神奈川県小田原市本町1-5-25付近

 

 

 

 

 

 

 

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