福昌寺跡(島津家墓所)(その5)~島津家6代から28代までの墓所 ~鹿児島市の史跡・墓所 | 九州下町おやじの珍道中

九州下町おやじの珍道中

下町おやじが、愉快に美味しく楽しく過ごす九州。
よかとこやね~九州は♪大好きバイ(^^)

2018年8月17日の鹿児島市内散策の続き。

 

 

福昌寺跡(島津家墓所)」の続き。

 

 

福昌寺跡(島津家墓所)(その4)のレポ

https://ameblo.jp/indyaki12/entry-12592236943.html

 

 

 

第10代島津立久公の前にある墓石。2基並んでいます。

 

 

 

向かって左側は、薩摩第6代島津師久公の墓石で…。ん?薩摩6代?

 

 

===================================

島津 師久(しまづ もろひさ)は、南北朝時代の武将。島津氏6代当主(総州家初代当主)。

生涯

5代当主・島津貞久の三男として誕生。

足利尊氏に属して武功を挙げたため、薩摩国内や肥前国内の地頭に任じられた。父の死の直前である正平18年/貞治2年(1363年)4月、次兄・宗久が早世した為、父から家督と薩摩守護職を継ぐこととなった(大隅守護職は弟・氏久が継ぎ、奥州家の祖となった)。これが総州家の始まりである。(後略)(ウィキペディア「島津師久」)

===================================

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E5%B8%AB%E4%B9%85

 

 

 

で、向かって右側は、第5代島津貞久公次男の島津宗久公の墓石。

 

 

===================================

島津 宗久(しまづ むねひさ)は、南北朝時代の武将。島津氏5代当主・島津貞久の嫡男(次男)。

建武5年(1338年)、父・貞久と共に高師直の軍に属して、北畠顕家と戦い功を上げる。家督相続の有力候補だったが、僅か19歳で没した。興国元年/暦応3年(1340年)、山門院から薩摩郡平佐へ向かう途中に落馬したのが原因だとされる。

その早すぎる死に伴い、弟の師久・氏久が守護国の分与を巡って争い、島津氏は総州家と奥州家の2家に分裂した。(ウィキペディア「島津宗久」)

===================================

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E5%AE%97%E4%B9%85

 

 

なるほど…家督争いの有力候補だったのか…。早過ぎる死去により、島津家を二分する争いが起きて、分裂して…

 

それで、前回レポでも触れましたが、6代目は、薩摩守となった島津師久公の薩摩6代と、大隅守、日向守、筑後守となった島津氏久公の大隅6代と分かれているということですね。

 

 

===================================

島津 氏久(しまづ うじひさ)は、南北朝時代の武将、守護大名である。島津氏6代当主(奥州家初代当主)、大隅・日向・筑後守護。5代当主島津貞久の4男。母は大友親時の娘。川上頼久、宗久、師久の弟。元久、久豊の父。(後略)(ウィキペディア「島津氏久」)

===================================

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%B0%8F%E4%B9%85

 

 

その後、島津氏久公の奥州家が宗家となっていくという流れになっていく訳か…

 

 

 

島津師久公の墓石(左)と、島津宗久公の墓石(右)。

 

 

 

島津師久公の後ろには、2基に並んでいて…。

 

 

 

こちらは、第9代島津忠国公の墓石。

 

 

 

忠国公(右)と忠国公夫人(左)の墓石に近づいて…。

 

 

 

薩摩6代師久公、大隅6代氏久公、9代忠国公から14代勝久公の墓石が並ぶエリアを今一度。

 

 

 

こちらは、30代島津忠重公の四男島津斉徳の墓石。没年が昭和43年になっています。

 

 

 

石積みに小さく開いた出入口があったので、くぐってみると…

 

 

 

山川石の立派な墓石がありました!

 

 

 

こちらは、第27代島津斉興公の墓石でした。

 

 

 

斉興公の墓石に近づいて…。

 

 

 

その横には、斉興公後夫人ゆらの墓石があります。幕末の「お由羅騒動」というお家騒動が有名ですね。

 

 

===================================

お由羅騒動(おゆらそうどう)は、江戸時代末期(幕末)に薩摩藩(鹿児島藩)で起こったお家騒動。別名は高崎崩れ、嘉永朋党事件。藩主・島津斉興の後継者として側室の子・島津久光を藩主にしようとする一派と嫡子・島津斉彬の藩主襲封を願う家臣の対立によって起こされた。(後略)(ウィキペディア「お由羅騒動」)

===================================

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E7%94%B1%E7%BE%85%E9%A8%92%E5%8B%95

 

 

 

斉興公とお由羅の墓石の脇には、石灯籠がたくさん並んでいました。

 

 

 

斉興公とお由羅の墓所の正面入口。

 

 

 

島津家墓所。広くて、立派だな~スゴい!

 

 

 

墓所内を一回りしたので、一旦、門から外に出て、石塀に沿って、奥に進みます。というのも、奥も墓所になっているからなんですが…

 

 

 

上の写真の角を曲がると、「鶴山東條先生碑」という石碑や石祠があって…。東條伝之丞の墓になるそうです。

 

 

 

その後ろには、一段高くなった空間があって、墓石がいくつも並んでいました。

 

 

 

山川石の墓石もあったり…

 

 

 

琉球人の墓や、五輪塔の墓石もありますね。

 

 

 

一番奥にある大きな石碑。顕彰碑のようですが…

 

 

 

こちらは、横山安武顕彰碑。市内春日町出世院の初代文部大臣森有礼の兄で篤志家として知られ、明治政府の役人の中には、国のことは考えず、自分のことばかり考えている人が多いことを憂い、反省を求める十ヶ条の意見書を懐にして、明治3年7月、衆議院の門前で自刃しました。

 

 

明治政府は、あまり例のない祭祀料を当時の鹿児島潘知事に送り、また安武を大変尊敬していた西郷隆盛もその死を悲しみ、業績を讃える碑文を造りました。

 

 

 

そのまた奥にも、墓石が並んでいる空間がありますね~ここからは入れないので、一旦、引き返してから、回り込みます。

 

 

 

「その6」

 

 

に続く。

 

 

 

 

福昌寺跡(島津家墓所)

鹿児島市池之上町24

https://www.kagoshima-kankou.com/guide/10551/(鹿児島県観光連盟HP)

 

 

 

 

 

にほんブログ村 福岡(市)・博多情報

https://localkyushu.blogmura.com/fukuoka_town/ranking.html?p_cid=10197823

↑ランキング参加中!クリックして戴けますと、嬉しいです!

 

 

人気ブログランキング

https://blog.with2.net/in.php?819555

↑ランキング参加中!クリックして戴けますと、嬉しいです!

 

 

Trip-Partner [トリップパートナー]

https://trip-partner.jp/

 

 

ぷらたび

https://platabi.com