2018年8月17日の鹿児島市内散策の続き。
稲荷川に架かる黒葛原橋を渡り、「伊東祐亨元帥誕生地」「仁王堂水」「今和泉島津家下屋敷跡・桐野利秋旧宅」を見学した後は、「本立寺跡」に向かいました。
伊東祐亨元帥誕生地・仁王堂水・今和泉島津家下屋敷跡・桐野利秋旧宅のレポ
https://ameblo.jp/indyaki12/entry-12534167927.html
「今和泉島津家下屋敷跡・桐野利秋旧宅」から北に進み、一つ目の角を右折、またすぐの角を左折して、突き当たりを右に曲がると、左側に次の目的地「本立寺跡」があります。
「本立寺跡」の由緒書き。島津家初代島津忠久公は、鎌倉で没し鹿児島五道院に祀られたという記録があり、「本立寺」は当初「五道院」と呼ばれていました。
初代忠久公の戒名が得仏道。2代の戒名が道仏、3代道忍、4代道義、5代道鑑、と5人とも「道」がつくところから「五道院」と名付けられたもので、19代島津光久公の時、論語の「本立而道生」(本たちて道生ず)より「本立寺」と改められました。
時宗「浄光明寺」の末寺で、21代島津吉貴公の時代には寺門も再建され、壮大な寺院となりました。
島津家五代の墓石塔が今もこの跡地に残されていますが、本来の墓は、島津氏の初めの根拠地「出水(出水市野田)」にあり、「本立寺」は鹿児島における霊廟とみられています。
門が閉まっていたので、外から中を拝見…。
奥の方に、石塔がありますね~
よく見えないので、横の方に回って…。
塀の上から、再び拝見。
先程いた門の方も眺めて…。
一段高くなった場所に、5基の墓石が並んでいました。
中央に初代島津忠久公の墓、右に2代島津忠時公、左に3代島津久経公、4代島津忠宗公、5代島津貞久公と、交互に並んでいるようです。
島津公5代の墓石の横、一段低い場所にも石塔があって…。島津家の方々の墓石でしょうか…。
「本立寺跡」から歩いて来た方向・西に進みます。
すると、石垣の下に「本立寺馬場」という旧町名の石碑を発見。
余談ですが、この記事を作成するに当たり、グーグルマップで位置を確認した処、石垣の上に、大きな石碑があるじゃないですか!全く気づかなかった…(笑)
「良子女王殿下御台臨記念碑」、「鶴嶺高等女学校 校跡碑」の2基。
「良子(ながこ)女王」とは、香淳皇后陛下、昭和天皇の皇后陛下になりますね。
更に真っすぐに進むと、川に突き当たりますので、道なりに左に進みます。この川は稲荷川。先程渡った皮になります。
道なりに進むと、橋が見えて来て…。この橋は「一つ橋」。あら?親柱の上に、女の子でしょうか、人の顔が!インパクトあるな~(笑)
「一つ橋」を渡り、一つ目の四つ角を右折しすぐのY字路を左に入って行くと、右手に石碑を発見。
「奈良原助八殉死之地」という由緒書きがありました。奈良原助八は山城国賀茂の出身で、16歳の時、11代島津忠昌公に仕えました。
島津忠昌公は文明6年(1474)12歳で父島津立久公の跡を継ぎましたが、彼の治世は打ち続く戦乱の為、困難を極めていました。
永正3年(1506)大隅の肝付氏が反乱を起こした為、忠昌公は永正5年(1508)2月15日に失意のうちに清水城内で自刃して果てました。
当時25歳であった奈良原助八は、2月20日「福昌寺」門外の楠樹の下で親類や友人に遺書をしたためた後、島津忠昌公に殉死しました。法号は、関月道三居士。
助八の死は島津家における初めての殉死と言われ、その場所に六地蔵塔が建てられ供養されました。正面の石柱は塔の一部であると思われます。
尚、幕末の生麦事件に関わった奈良原喜左衛門は助八の子孫に当たります。
正面に見える石碑。由緒書きにあった六地蔵塔の一部と考えられているんですね。
横にも石碑がありました。
島津家5代墓所の「本立寺跡」をお参りし、「奈良原助八殉死の地」を見学した後は、「福昌寺跡」に向かいました。
その様子は、また後日。
本立寺跡
鹿児島市清水町12
奈良原助八殉死の地碑
鹿児島市池之上町22
にほんブログ村 福岡(市)・博多情報
https://localkyushu.blogmura.com/fukuoka_town/ranking.html?p_cid=10197823
↑ランキング参加中!クリックして戴けますと、嬉しいです!
人気ブログランキング
https://blog.with2.net/in.php?819555
↑ランキング参加中!クリックして戴けますと、嬉しいです!