伊東祐亨元帥誕生地と、仁王堂水と、今和泉島津家下屋敷跡・桐野利秋旧宅と ~鹿児島市の史跡 | 九州下町おやじの珍道中

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20188月17日の鹿児島市内散策の続き。

 

砲術館跡」「春日神社」「森有礼誕生地」「大乗院橋」と回った後は、「伊東祐亨誕生地」に向かいました。

 

 

砲術館跡・春日神社・森有礼誕生地・大乗院橋のレポ

https://ameblo.jp/indyaki12/entry-12511782583.html

 

 

復原された「大乗院橋」がある「若宮公園」から、黒葛原橋を渡ります。

 

 

黒葛原橋は、前回レポでも話題に上った稲荷川に架けられた橋です。

 

 

写真奥の左手の緑が「若宮公園」になりますよ。

 

 

黒葛原橋を渡ると、右手の一段低い場所に大きな石碑を発見。

 

 

石碑の場所には直接は下りられないので、少し先に進んでみると、その石碑は清水小学校の敷地内にありました。

 

 

失礼して、敷地内入り、その石碑に近づくと「伊東元帥生誕地」と刻まれていて…。公爵島津忠重公の揮毫によるものです。

 

 

台座には「元帥海軍大将伯爵伊東祐亨 天保十四年五月廿一日ヲ以テ生ル」とあります。伊東祐亨の誕生地になるんですね。

 

 

石碑の横には由緒書きがありました。「伊東祐亨(すけゆき)元帥誕生地の碑

「薩摩の海軍」の長老と呼ばれた伊東祐亨は、清水町で生まれました。

 

 

若い頃、島津久光公に随行して江戸からの帰路、生麦事件が起き、文久3年(1863)薩長戦争となり、伊東祐亨祇園之洲砲台を守ったり、スイカ売り決死隊に参加したりしました。

その後、「海軍操練所」に入り勝海舟に学んだり、「江川塾」で洋式砲術を学んだりと、「海軍の伊東」としての腕を磨きました。

明治27年(1894)日清戦争の時、連合艦隊の司令長官として大きな勝利を挙げた話は全世界に伝えられ、最高の礼節として称えられました。

 

伊東祐亨は、飫肥藩主伊東家に繋がる名門だそうです。

 

 

 

伊東祐亨誕生地」から北に進むと、清水小前交差点の右手に、朱の御堂を発見。

 

 

こちらは「仁王道水」。三国名勝図会によると、城下町鹿児島の始まりであった清水町は、山城(東福寺城)と港(戸柱港)、泉(仁王堂水)という好条件に恵まれていました。

 

 

大乗院橋から清水馬場までの道は坊中馬場と呼ばれ、昔は十軒のお寺が両側に並んでいました。

その南の端に仁王堂様を祀る御堂(仁王道木像)があり、その傍にあった泉は「仁王堂水」と呼ばれ、多くの人々に大事にされてきました。

清水町の町名の由来でもあります。

 

 

此は鹿児島八丁の地「清水町」ごわんど』という由緒書きもありました。

鎌倉時代に源頼朝の命を受けて薩摩地頭職になった島津氏は、1343年、山城東福寺城を攻め落とし40年間居城、清水中学校辺りに「清水城」を新築し60年間居城し、合わせて100年間根城に、住家も多数存在し、盛況を極めたと記録されています。

 

 

この辺り、清水町が、鹿児島の始まりなんですね!

 

 

またこんな由緒書きも!『「篤姫」「桐野利秋」ゆかりの仁王堂水

於一」が今和泉島津忠剛下屋敷を訪れた折、清水馬場などで遊びこけ、桐野利秋薩摩示現流の稽古等で汗を流し、この「仁王堂水」で喉を潤しただろうと思われるんですね。

 

 

この朱の御堂の中には、石仏が安置されていて…。

 

 

仁王堂水」の由緒書き。この場所から北側(現 清水中学校)にかけては、薩摩藩の真言宗の中心寺院として栄えた大乗院がありました。

 

 

大乗院は、島津氏の祈願所として代々の藩主から篤い信仰を受け、その寺の前に架かる橋を「大乗院橋」と呼び、この橋から南に向かって「坊中道」という参道があり、その道に沿って、大乗院の支院である十の寺が建ち並んでいました。

この坊中道の門前から200m程の所に当たるこの付近には、大きな仁王門があって、その近くから湧き出る泉を「仁王堂水」と呼んでいました。この水は茶・酒造りにはよく、「清水町」の名もこの「きれいな水」に由来すると言われ、現在、この水は上水道の水源地となっていて、水道水として利用されています。

 

 

 

仁王堂水」の所で右折すると、左手に消防署があります。「鹿児島市中央消防署上町分遣隊

 

 

その敷地の一角に「清水馬場」と刻まれた石碑と由緒書きがありました。

 

 

由緒書きには「今和泉島津家下屋敷跡」とあります。ここ鹿児島市消防局上町分遣隊の敷地中央辺りから東側一帯には、今和泉島津家の下屋敷がありました。

 

 

島津家の分家である今和泉島津家は、島津家の家臣団において最高の家格である一門家(重富、加治木、垂水、今和泉の四家)とされ、1万石以上の石高がありました。

天保年間の絵図によれば、ここにあった屋敷は847坪あり、安政年間の絵図では742坪でしたが、清水馬場に面していました。

今和泉島津家10代当主島津忠剛の子で、後に徳川将軍家に輿入れした篤姫が幼少の頃は、今和泉島津家は城下に少なくとも5つの屋敷を構えておりましたが、当時はまだ、今和泉家8代島津忠厚、今和泉家9代島津忠喬、篤姫の実父忠剛が存命で、それぞれに屋敷が必要だったからと考えられます。

 

 

このシリーズで、篤姫が生まれた今和泉島津家の本邸をレポしていましたね。

 

今和泉島津家本邸跡(篤姫誕生地)のレポ

https://ameblo.jp/indyaki12/entry-12496718214.html

 

 

更に進むと、左手に駐車場があるんですが、そこに『「篤姫」「桐野利秋」ゆかりのち』という由緒書きがあって…。「今和泉島津家下屋敷」だったこの地は、人切り半次郎と異名を取った桐野利秋の邸宅跡でもあったんですね!

 

 

桐野利秋旧宅のあった清水馬場」という由緒書きもありましたよ。

 

 

桐野利秋は通称を信作といい、はじめ中村半次郎と称しました。

天保9年(1838)現在の鹿児島市吉野町で生まれ、示現流の剣術に優れ、文久2年(1862)島津久光公に従って上京、明治元年(1868)戊辰戦争では、東海道先鋒などを務め、明治4年には陸軍少将に任官しました。

しかし、明治6年(1873)の政変による西郷の参議辞任により西郷に従って鹿児島に帰り、篠原国幹村田新八らとともに私学校を設立、子弟の養成に努めましたが、明治10年(1877)西南戦争では実質的に西郷軍の指揮を取り、九州各地を転戦、9月24日に城山で戦死しました。

 

 

桐野利秋旧宅」には、古そうな石垣があって…。

 

 

桐野利秋旧宅」の所で左折。振り返って…。左手が「今和泉島津家下屋敷跡」「桐野利秋旧宅」、正面に見える建物が清水小学校の校舎になります。

 

 

稲荷川に架かる黒葛原橋を渡り、「伊東祐亨元帥誕生地」「仁王堂水」「今和泉島津家下屋敷跡・桐野利秋旧宅」を見学した後は、「本立寺跡」に向かいました。

その様子は、また後日。

 

 

 

伊東祐亨元帥誕生地

鹿児島市清水町8-15(鹿児島市立清水小学校内)

 

 

仁王堂水

鹿児島市清水町7-7付近

 

 

今和泉島津家下屋敷跡・桐野利秋旧宅

鹿児島市清水町7-5付近

 

 

 

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