勝興寺と、西應寺と、戒行寺と、戒行寺坂と、宗福寺と ~東京都新宿区の寺院・坂道 | 九州下町おやじの珍道中

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20185月上旬GWの市ヶ谷・四ッ谷散策の続き。

 

四谷怪談お岩さま縁の「陽運寺」を参拝した後は、歩いて来た路地を引き返し、四ッ谷散策を続けました。

 

 

陽運寺(於岩稲荷)のレポ

https://ameblo.jp/indyaki12/entry-12490745117.html

 

 

陽運寺」から、歩いて来た道を引き返し、「本性寺」や「闇坂(くらやみざか)」の前を通り過ぎ、東の方向に進むと、左手に「勝興寺」お寺が見えて来ます。

 

 

境内を進むと、お地蔵様でしょうか、石仏がいらっしゃって…。

 

 

祠があって、中にも石像が…。勝興寺HPを拝見すると、「奪衣婆(だつえば)」だそうですが…。

 

 

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奪衣婆(だつえば)は、三途川(葬頭河)で亡者の衣服を剥ぎ取る老婆の鬼。脱衣婆、葬頭河婆(そうづかば)、正塚婆(しょうづかのばば)姥神(うばがみ)、優婆尊(うばそん)とも言う。

多くの地獄絵図に登場する奪衣婆は、胸元をはだけた容貌魁偉な老婆として描かれている。(中略)

奪衣婆は鎌倉時代以降、説教や絵解の定番の登場人物となり、服がない亡者は身の皮を剥がれる、 三途川の渡し賃である六文銭を持たずにやってきた亡者の衣服を剥ぎ取る など、さまざまな設定や解説が付け加えられた。(中略)

江戸時代末期には民間信仰の対象とされ、奪衣婆を祭ったお堂などが建立された。民間信仰における奪衣婆は、疫病除けや咳止め、特に子供の百日咳に効き目があるといわれた。(後略)(ウィキペディア「奪衣婆」)

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%AA%E8%A1%A3%E5%A9%86

 

 

観音様もいらっしゃいました。

 

 

勝興寺」の本堂。立派だな~

 

 

境内には由緒書きがありませんでしたので、ホームページから…。

 

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沿 革

1582年 天正10年  麹町清水谷にて東竹院第四世、雪庭春積大和尚により開創

1634年 寛永11年  江戸の大火・江戸城の整備により当地に移転

(後略)(勝興寺HP)

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http://www.shoukouji.biz/

 

 

 

勝興寺」の斜め向かいにもお寺があります。こちらは「西應寺(西応寺)」。

 

 

西応寺」の門前には、由緒書き「榊原健吉の墓」があるんですよね。幕末から明治にかけて活躍した剣客で、天保元年(1830)江戸の麻布広尾に生まれました。

 

12歳の時、麻布狸穴の直新影流男谷信友に入門、嘉永2年(1849)免許を受けました。

安政3年(1856)幕府講武所の剣術教授方に登用され、文久2年(1862)師範に昇進、元治元年(1864)下谷車坂の屋敷で道場を開きました。

慶応2年(1866)幕府遊撃隊頭取となり、上野戦争で活躍しますが、明治元年(1868)徳川家達に従って静岡に移住しました。

その後、明治政府より再三招かれますがこれを断り、明治6年(1873)撃剣会を発足、衰退した剣術の再興と普及に努めました。

明治27年(1894)9月11日に死去。亡くなるまで髷を切らず、最後の剣客と称されました。

 

 

その下には「西應寺の梵鐘」という由緒書きもありました。西應寺の第4世住職惠白の発願により正徳2年(1712)に鋳造された銅造の梵鐘。高さ130.5cm、口径70.3cmで、江戸鋳物師小沼播磨守藤原長政が製作しました。

 

 

境内に入り、本堂を…。

 

 

 

更に東に進むと、またお寺が見えて来ます。こちらは「戒行寺」。

 

 

題目搭があって…。

 

 

境内を進むと、大きな石碑があるんですが、「火付盗賊改方 長谷川平蔵供養之碑」と刻まれていますが…。ということは、鬼平こと長谷川平蔵ゆかりのお寺なの!?

 

 

本堂。

 

 

左手には、観音様がいらっしゃって…。

 

 

多宝塔。

 

 

長谷川平蔵の由緒書きもありました。「鬼平犯科帳」の主人公である火付盗賊改の鬼平こと長谷川平蔵は、延享3年(1746)江戸赤坂築地中之町(現港区赤坂6-12)の拝領屋敷で生まれ、姓は藤原、名は宣以、称は初め銕三郎、後に平蔵と言いました。

 

 

寛延3年(1750)鉄砲洲築地湊町に転じ、明和元年(1764)本所三ツ目通り菊川町に移りました。

長谷川宣雄が火付盗賊改の時、目黒行人坂の放火犯を捕えて、京都西町奉行に栄進しましたが、10ヶ月で急逝。宣以が家督を継ぎ、西城御書院番や御徒頭を務め、御先手弓頭から火付盗賊改を兼帯し、石川島人足寄場を開設しました。

寛政7年(1795)50歳で病没、当山に葬られました。

 

尚、当山には、鬼平の父宣雄が5人の火付盗賊改めが葬られています。

安部式部信旨 享保9年(1724)2月24日卒

桑嶋肥後守政恒 宝暦7年(1757)11月10日卒

山岡豊前守景之 明和3年(1766)2月4日卒

長谷川備中守宣雄 安永2年(1773)6月22日卒

菅沼主膳正虎常 寛政元年(1789)4月16日卒

 

 

長谷川平蔵宣以の墓所は、四谷だったのか~知らなかった…(^^;

 

 

 

戒行寺」から更に東に進むと、緩やかな下り坂になっていて…。

 

 

この坂道は「戒行寺坂」。「戒行寺」の南脇を東に下る坂で、「戒行寺」に因んで名づけられました。

 

 

別名「油揚坂」とも言われ、昔坂の途中に豆腐屋があって、質の良い油揚げを作っていたからこう呼ばれたとも言われています。

 

 

戒行寺坂」を下る途中にも、右手お寺があります。こちらは「宗福寺」。

 

 

宗福禅寺」と刻まれた石碑。

 

 

由緒書き「源清麿の墓」。江戸後期の刀鍛冶の名匠源清麿は、本名を山浦環といい、文化9年(1812)信濃国小諸に生まれました。

 

 

始めは、上田の刀匠河村寿隆について鍛冶を学び、天保6年(1835)江戸に出て幕臣窪田清音のもとで兵学を学ぶ傍ら刀工として精進しました。

その後、四谷北伊賀町(現在の三栄町の一部)に居を構えて刀剣の製作に励み、名も源清麿と改めました。

その刀の切れ味は、正宗のようだと言われ「四谷正宗」と呼ばれました。

安政元年(1854)11月14日没、享年42歳。

 

 

江戸刀匠 水心子正秀先生墓所」「四谷正宗 源清麿先生墓所」と刻まれた石柱もあって…。

 

 

観音様でしょうか…。

 

 

境内には、仏像がいくつも安置されていました。

 

 

宗福寺」の本堂。

 

 

お地蔵様もたくさん!

 

 

石仏も…。

 

 

勝興寺」「西應寺」「戒行寺」「宗福寺」とお参りした後は、「戒行寺坂」を下り、四ッ谷駅方面に歩いて行きました。

その様子は、また後日。

 

 

 

勝興寺

東京都新宿区須賀町8-7

http://www.shoukouji.biz/

 

 

西應寺

東京都新宿区須賀町11-4

 

 

戒行寺

東京都新宿区須賀町9-3

 

 

宗福寺

東京都新宿区須賀町10-2

http://www.kanko-shinjuku.jp/spot/history/article_406.html(新宿観光振興協会HP

 

 

 

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