2019年1月5日の二日市・太宰府歴史散策の続き。
「古代の大宰府客館跡」「般若寺跡」「石造七重塔」と見学した後は、「高橋紹運首塚」に向かいました。
古代の大宰府客館跡・般若寺跡・石造七重塔のレポ
https://ameblo.jp/indyaki12/entry-12458627419.html
https://blogs.yahoo.co.jp/hsnm3373/42313591.html
「般若寺跡」の「石造七重塔」から先に進むと突き当たるので右折すると、空地が見えて来ます。
おお!?鳥居がありますね。神社なのでしょうか?
鳥居の正面には、小さな祠があって…。
その後ろには、あら?台座があるだけ?その上にあった祠は???
台座の後ろに回って、鳥居を…。本当に何もない…(^^;
あるのは、石柱だけ…。
大木の幹と幹の間に置かれた石柱も…。何とも悲しい感じ…。
鳥居の前に回って来て…。扁額には「天満宮」とあります。
由緒書きなどがないので、ネットで検索すると、太宰府市のHP「文化財情報」に記載がありました。
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本殿跡台座(菅原神社)
(中略)
【文化遺産情報】朱雀2丁目にある菅原道真を祀る神社。建立年月日など由来は不明であるが、文和2(1353)年に片野村が太宰府天満宮に寄進された時に勧請された鎮守神ではないかという説もある。旧社地は現在納骨堂のある場所だったが、大正10年(1921)般若寺跡に近い現社地に移転したという。(太宰府市HP)
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http://www.city.dazaifu.lg.jp/bunkazai/6/gtiku/6113.html
こちらは「菅原神社」といい、歴史ある神社なんですね。
今では、台座と鳥居が残るのみですが…(涙)
鳥居の前には石段があって…。
石段横の石垣の下には、「猿田彦大神」と刻まれた石碑と「更正道路碑」と刻まれた石碑がありました。
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更正道路碑
(中略)
【文化遺産情報】道路が改良されたことを記念して、明治45年(1912)3月に建立された碑。高さ94センチメートル程の石碑には、寄付者の氏名や寄付額等が刻銘されている。(太宰府市HP)
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http://www.city.dazaifu.lg.jp/bunkazai/6/gtiku/6113.html
「菅原神社」下の変形交差点を東の方に進むと、坂道の横の石垣の下に、ちょっとした階段がついている道路を発見!面白いな(^^)
その坂道を上って行くと、未舗装の畦道のような路地になりますので、そのまま進むと…。
石積みの台座・舞台のようなものがあります。
こちらは「高橋紹運首塚伝承地」。この塚は、天正14年(1586)大友氏と島津氏との合戦で、岩屋城(四王寺山中腹)にて全員玉砕という熾烈な戦闘を行い自刃した城主高橋紹運の首をとり実検し、この地に埋めたと「筑前国続風土記」に記されています。
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高橋紹運(じょううん)首塚伝承地(市史跡)[二日市北]
高橋紹運は、戦国時代末期の豊後国大友氏の武将です。吉弘鑑理(よしひろあきただ)の子で、はじめは吉弘鎮理(しげただ)といい、元亀元年(1570年)、高橋鑑種(あきたね)追放後の高橋家を継いで鑑種(しげたね)(入道して紹運)と改め、岩屋・宝満両城主となりました。天正14年(1586年)7月、薩摩国島津氏の攻撃を受け敗死しました。この首塚がある地は、島津氏の本陣付近にあたり、紹運の首は実検が行われた後、この地に埋められたとされています。
紹運塚のことは貝原益軒(かいばらえっけん)の『筑前国続風土記』にもみえ、古くから注目を集めていたことがわかりますが、『筑前国続風土記附録』には「村の艮(うしとら)に茱原(ぐみはら)あり。東西四間南北五間許ばかり也。昔は封塚ありしといへとも今ハなし」。『福岡県地理全誌』には「数十年前、塚ノ四方ヲ石ニテ畳メリ」とあり、変遷がうかがわれます。(後略)(筑紫野市HP)
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https://www.city.chikushino.fukuoka.jp/kyouikubu/bunka-joho/takahasizyouunnkubiduka.html
岩屋城の戦いで降伏勧告を拒絶し、徹底抗戦した猛将高橋紹運の首塚が残っているって、スゴいな!(^^)
柳川の藩主立花宗茂公の父親が、高橋紹運になりますね。
辞世「流れての 末の世遠く 埋れぬ 名をや岩屋の 苔の下水」
「高橋紹運首塚」を正面から…。
横の方からも…。
「高橋紹運首塚」から歩いて来た道を引き返し、変形交差点を右折。北に進んで、南体育館が見えて来たら、右手の路地に入ると「京町北児童遊園」があります。
その奥には、祠があるんですよね。
祠の脇には「五輪種子石塔(伝紅姫供養塔)」という由緒書きがありました。
石塔は長さ1.6m(地上高1.1m)、約0.3m四方の角柱状に、花崗岩を使って作られています。
石碑の上方には、5つの梵字(種子)が肉厚な薬研彫りによって丁寧に刻まれています。
梵字とは、古代インドのサンスクリット語を表す為の文字で、上から「キャ(空)」「カ(風)」「ラ(火)」「バ(水)」「ア(地)」と読み、仏教の宇宙観を示しています。
またこの石塔には、菅原道真公が大宰府に左遷された時に伴った二人の幼子のうち、「紅姫」ゆかりの伝説が伝えられています。
府の南館(榎社)での生活は苦しいもので、弟の「隈麿(くままろ)」は病にかかって亡くなったと言われますが、紅姫のその後については定かではありません。
「榎社」には、もう一つの「紅姫供養塔」が残されています。
「紅姫供養塔」と伝わる「五輪種子石塔」。悲しい伝説が残されているんですね…(涙)
「五輪種子石塔(伝 紅姫供養塔)」は、公園の一角に、ひっそりと佇んでいます…。
「菅原神社」「高橋紹運首塚」「五輪種子石塔(伝紅姫供養塔)」と見学した後は、「隈麿公奥都城(くままるこうおくつき)」に向かいました。
その様子は、また後日。
菅原神社
福岡県太宰府市朱雀2-16-10
http://www.city.dazaifu.lg.jp/bunkazai/6/gtiku/6113.html(太宰府市HP)
高橋紹運首塚伝承地
福岡県筑紫野市二日市北2-14
https://www.city.chikushino.fukuoka.jp/kyouikubu/bunka-joho/takahasizyouunnkubiduka.html(筑紫野市HP)
五輪種子石塔(伝 紅姫供養塔)
福岡県筑紫野市二日市北2-19付近
下町おやじのYahoo!ブログ
https://blogs.yahoo.co.jp/hsnm3373