オーディオの楽しみ -2ページ目

オーディオの楽しみ

一音楽ファンの目から見たオーディオのページです。いい音で音楽を聴けるのは至上の喜びです。

 

大ヒットしている映画「Yesterday」を見た。この映画は、もし世の中の誰もがビートルズの曲を知らなかったら、もしそれらを自分だけが知っていて歌ったらどんなにヒットするだろうか、というような発想から作られたという。ビートルズ・ファンを自認する私としては押さえておかなければならないと思った次第だ。

主人公だけが知っている歌として出てくるのは、まず「Yestereday」、そして「Let It Be」、「Help」、後半の方では「The Long And Winding Road」などだ。見ている最中、「この映画のオチは何だろう」と思っていたところ、特段ビックリするようなことも起こらなかったので拍子抜けしてしまった。これが大ヒット?と思ったが、見終わって映画館の観客を見て年齢層が若いのに驚いた。往年のビートルズ・ファンとは違うようなのだ。

映画の目玉として、エド・シーラン自身が出演することがある。エド・シーランの曲とビートルズの曲を比較するような趣向もこらしてある。いかにビートルズが偉大かというような意味付けのようでもある。だが、ちょっと待てよ、ホントにそうなのか?

 

主人公は自分だけが知っている曲を楽々と書いて、世界中にフィーバーを起こす。そしてコンサートを行うスタジアムは、熱狂的なファンで埋め尽くされる。その一方で、幼友達の女性と紆余曲折がありながら結ばれる。

これって、エド・シーラン自身のことじゃないか。

これを見てビートルズの映画と思うのはおじさんたちだけで、実はこの映画はエド・シーランという現代のニュー・ヒーローの誕生を描いているようなのだ。エド・シーランがいかに凄いかということを言うためにビートルズが引用されているようなものだ。

エド・シーランという人は、アルバム売上、シングル売り上げ、興行収益、観客動員数、すべてに渡って記録を塗り替えつつある。こういう人は、自分の才能にどんなに謙虚であっても、その数字相応の自信を持つものだ。映画の中で、ジョン・レノンを思しき人が出てくるが、主人公と向き合うと、えっと思うくらい冴えなくてショボい人物に描かれている。でもそれも道理だ。かつてジョンは、ビートルズはキリストよりも有名だと言って物議をかもし出した。エド・シーランが、もし自分がビートルズを越えたと思ったとしても非難するには当たらない。そう思ったっていいじゃないか。その裏付けとなる数字があるんだから。

 

そういうことで、エド・シーランを聴いてみる。アルバム「DIVIDE」は特に売れた。
全体に、自分と自分の身の回りのことを歌っている。自作自演だが、詞には特別びっくりするようなことはない。ビートルズの詞に関しては、ジョン・レノンは天才、ポール・マッカートニーは万人向けするもので良く出来ている、ジョージ・ハリソンは特段に詩作の才能はない、という具合で、立ち位置としてはポールに近いだろうか。映画に引用された「Yestereday」「Let It Be」「The Long And Winding Road」は、どれもポールのパーソナルな内容な曲なので、私小説的なエド・シーランの曲と対比するのにいいと思う。

エド・シーランの曲作りで印象的なのは、シンセサイザーやら打ち込みやら多重録音やらで、全部一人で歌って演奏しているのではないかと思われることだ。それは映画でも触れられていて、ビートルズが4人でしたことを、主人公は1人で実現しているというくだりだ。

たしかによく出来ている。例えば「Perfect」と題された曲。「ボクなんか君に値しない。今夜の君は完璧だ」と歌う。思ったままを歌っているようだが、よくよく聴くと曲も歌詞もよく練られていてそれこそ完璧だ。この曲には別に、ビヨンセと共演したバージョンも出ていて、ビヨンセの歌唱力もあってか、恋人から結婚、子育てと進んでいく歌詞には心が暖かくなるような雰囲気があり、つくづくいい曲だと思う。

ビートルズの時代とは、若い人たちが音楽に求めるものも違う。過多な熱狂もなく、過多な感傷もなく、乾いた感情で自分と自分の日常と向き合っている。これが新しい世代のスーパー・ヒーローなのだろう。

ビートルズは若い人たちにも人気がある。しかしあまりに神格化しすぎると、新しい音楽が作れなくなる。おじさんたちも達観しよう。エド・シーランが新時代のヒーローでいいじゃないか。

 

秋雨の冷たい初日、行ってきた。

音の入り口が問題なのはいつも通りだが、ネットワーク・プレイヤーも出てこないと思っていると、dCSからはストリーミングDACと銘打ったBartὀkが現れた。海外での論調からすると、これ1台(180万円)で、これまでのdCS製品全部にとって代わるほどの出来栄えらしい。BartὀkとLANとパワーアンプ、スピーカーがあれば、それで簡単に世界最高の音が楽しめてしまう。もうそんな時代が近づいている。

ショウの中心は、アンプ、スピーカーだろうか。

 

幸いにして、スピーカーは新製品が多い。まずはアッカのYG AcousticsのVantage。Hailey(598万円)とCarmel(340万円)の中間の位置づけで、485万円。価格的にはどういう意味があるのか不明の製品だが、音はさすがに切れ味が鋭く、独特の張りつめた感じがたまらない。Carmelはさすがにスケール感が小さくなった感じがするが、これは上級機に比べ遜色がない。

ハイエンドでは、ランシェ・オーディオの新しいスピーカーが粒立ちのいいはっきりとした音で印象に残った。ドイツの音というのはあまり聴く機会がなかったので新鮮だ。ナスペックではVienna Acousticsのスピーカーを、私の好きなPlayback Designのプレーヤーで鳴らしていたが、2つのスピーカーの間の音場に躍動感があって、かつ音色も懐かしいような面もあり好ましかった。アーク・ジョイアではエストニアのエステロンのスピーカー初めて聴いたが、デザインほどに奇抜な音ではなくて、私の好きなSoulutionのアンプで鳴らして低音も豊かでよかった。個人的に興味のあった太陽インターナショナルのアヴァロンの新しいPMシリーズは、ハイレゾ対応が主眼だろうが、デザイン(色)も音も渋くなった。TADのフラッグシップ・スピーカーは弩級で、堂々とした音響はほとんど完璧と言っていいが、やはりいくらか日本的な部分もあってあっと驚くところまではいかない。

新製品ではないが、ヨシノトレーディングで聴いたDiapasonでは後ろの壁の更に後ろ側から声が聞こえるという驚きの立体感を久しぶりに味わった。真空管のEARのアンプの威力が大きいだろうが、スピーカーの性能もあるとしたらいつか欲しいとさえ思った。LINNは、Selectのようなどんなに小さなシステムでも、またスピーカーが小さくても出てくる音はきりっとして驚きがあった(ただ、内部アンバランスとこの音が関係しているとしたら、高級オーディオの在り方としてどうなのだろう)。

 

雨模様もあってか、雰囲気は重苦しい。日本のオーディオ・ショウは音の入り口が決まらないので、トータルな提案を自信を持ってすることが出来ないことが要因だろうかと思う。

私自身はCD一本になってきているが、頼みの綱と思っていたアマゾンがストリーミングに力を入れだしている。今や日本人のCDの最後の牙城は、タワレコ・オンラインだろうか。CDに見切りをつけた海外では、デジタル・オーディオは、Tidal+MQA+Roonの御三家を中心に動いている。一方、日本はハイ・ビットレートのハイレゾ一本。ハイレゾは多くのデジタル資産が対応できないのに対して、MQAはモノラルからステレオ、アナログからデジタルと、全ての音源資産の音が対応でき、なおかつハイレゾだ。

欧米のメーカーは、「ネットワーク・プレーヤー」(DLNAベース)から、「ストリーミングDAC」(非DLNAベース)の方向に向かおうとしているように見える。いずれにせよTidalの聴けない日本は、この流れに遅れている。

まあ関係者は頑張っているのだろうけど、それにしても、ものすごい閉塞感だ。どこか遠くへ行きたい!?

 

オーディオ製品で最もやっかいな問題の一つに、「エージング」(または「エイジング」)ということがある。

オーディオの新しく製造された製品は、一定期間通電しなければ、本来のいい音を出さない。愛好家はだれでも知っているが、新規の購入時以外はあまり考えない問題であり、メーカーもあまり強調すると新製品の売れ行きに影響をあたえそうな気がするためか、はっきりとは言わない。

私はオーディオ機器、特に高級オーディオ機器の売り方として、ピカピカの新品を出荷するという今のやり方がいいのかという疑問を、日に日に強く持つ。

 

「エージング」という英語は、「経年変化」とか「熟成」とかの意味で使っているのだと思うが、それだとどうも永遠に続くような印象を与える。「使えば使うほどよくなる」とか「鳴らしこむほどによくなる」とかいうことはあったとしても、そういうオカルト的な現象は、「エージング」とは言わない。エージングは、出口のある概念であり、そこで終点という地点がある。

「エージング」という言葉は、和製英語と思う。英語圏では、「Break-in」とか「Break-in Period」とかという。「慣らし運転」「慣らし運転期間」という意味で、はっきりとした期間概念だ。(私はこの言葉の方がずっとポイントを正確に伝えていると思うが、以下では混乱を避けるために引き続き「エージング」という言葉を使います。ただ、この言葉は「老化」「経年劣化」という意味もあるから、女性はアレルギー的に嫌いということもあるようだなあ。関係者は考えた方がいいかもしれない)。

 

では、それはどのくらいの期間なのか。

ケーブルなどの取り扱い説明書では、エージングについて書かれていることがある。だいたい10時間とも30時間ともされる。しかし、これは第1段階のことでしかない。エージングには第1段階と第2段階の2つがある。

アンプやスピーカーでは、工場出荷の直後では、高音が非常にキレイに出るが、低音の力感が欠けるような鳴り方をする。しかしこれは第1段階のエージングを経ると変化して、高音はあまりキレイには出なくなり、音色もくすんだ地味で不安定なものになる。これが典型的な第2段階だ。これがどのくらい続くのか。

私は、かつてこの期間を測ったことがある。PAD(Purist Audio Design)社のスピーカー・ケーブルを新たに導入した時だ。第2段階の音に閉口していたので、CDをループ再生して、ほぼ一日中スピーカーに非常に微弱な信号を入れ続け、毎日、夜に音をチェックした。音は1日ごとに変化した。変化の方向は一直線ではない。第2段階は音が安定しないのだ。私は高域にも低域にも不満があったので、早く音が固まってほしいと思った。

やがていくらやっても音が変化しないという地点がやってきた。だいたい、それまでの時間は、300時間だ。その間は、きつかった(私はそのことをこのブログに書いた)。

記事を書いたずっとあとで知ったのだが、PAD社はホームページでこの慣らし運転の期間が300時間であることを広告していた。それを受けて日本代理店もその数字を周知し始めた。

しかし、300時間というのはどういう時間なのか。これは一日2時間毎日聴く場合で(そうとうな愛好家と思う)、約5カ月だ。たいていの人は平均すると2時間以下だろうから、もっと長くなる。メーカーが周知をためらうはずだ。

 

プリ・アンプのエージングは地獄だった。

私の現用機のマーク・レヴィンソンNo.320の時だ。買ってすぐは、全体に力感がないが、高音がキレイで、これはこれでいい音だ、これが続いてもいいのに、と思っていたが、直に第2段階に入った。高音が出ない、音色がよくない、とひどい音だった。私は、しびれを切らして、「この音は、どんなにエージングを重ねても私の好みの音にはならない」と半ば確信したような気がして、真剣に売ることを考えた(実際に、この期間に売ってしまった人の話を直接に聞いたことがある)。しかしいちおうはどんな音になるのか確かめるためにも1日24時間の通電を続けた。毎日、夜にチェックするのが日課になったが、ストレスはたまるばかりだった。

そしてある晩、「どうせまた同じ音だろう」とあきらめるような気持ちで音を聴いて驚愕した。実体感を伴った信じられないくらいいい音が出てきたのだ!私は目の前で鳴っているヴォーカルの音に夢中で聴き入って、心臓はドキドキ、足がガタガタ震えるのを感じた。(エージングでここまでの経験は、その後はないが)

 

プリメイン・アンプの時には、本当に売ってしまった苦い経験を持っている。

それは就職して間もない時だった。学生時代にはトリオ社のレシーバーを使っていたが、就職を機にプリメインにグレードアップすることにした。それで色々調べて、ヤマハ社のCA-R1というアンプを買った。これが評判ほどにいい音、伸び伸びとしたスムーズな音を出さなかった。当時は、エージングのことなどよく知らなかったので、当時あった週刊FMという雑誌の読者欄にこの売却希望を投稿した。まさかという感じで、この雑誌に載り、買い手も付いた。喫茶店で同じくらいの年恰好の男性と会い、製品を手渡しした。

今思えば、典型的な第2段階の音で、エージングは全く終わっていなかったと思う。第2段階は、時に非常にイヤな音を出すものだ。

 

エージングは、機械類には皆多かれ少なかれあるだろう。しかし、オーディオ以外ではあまり聞かない。

例えばデジカメだ。デジカメは新品でも綺麗な写真が撮れる。だからいい新製品は大人気だ。電子回路は、エージングを必要としていると思うが、人間の視覚というのは、聴覚ほどには敏感ではないのだろうか。

テレビにしてもそうだ。買ってすぐに綺麗な色で見れる。やっと色が乗ってきた、というような話は聞いたことがない。

クルマなどは、新車からして性能をフルに発揮する。だから、2年くらいで定期的に買い替えるお金持ちもいる。新型車はたいていは性能が良くなるから、こういうことは楽しみにもなる。こういう豪快な楽しみ方はオーディオにはない。

 

300時間というのは、製品によって違うだろう。スピーカーの場合は、電子回路のほかにユニットのエージングもいる。電子回路は微弱な信号でも流れていさえすればいいが、ユニットはそうはいかないのではないか。経験的に言えばもっと長くて、500時間かそれ以上かかる。毎日聴いても1年だ。実際に音を出さなければエージングが出来ないというのは、スピーカーの難点だ。

だからスピーカーの買い替えは地獄だ。1年間はよい音で聴くことを諦める決心がつかなければ、決断できない。

世の中には、500万円から1000万円以上するスピーカーがある。こういうスピーカーを買う資力がある人は、暇がないのが常だ。週末に2時間程度聴くと仮定すれば、5年以上かかる。こういう人は、最後までそのスピーカーの真価を知らずに、これはハズレだったという印象を持つかもしれない。

私は、メーカーは、普及品では無理かもしれないが、数が出ない高級品は、あらゆるジャンルの音源で慣らし運転をキチンとした上で出荷したらどうかと思う。時々プラグなどで「エージング済み」を謳っているいる製品があるが、完成品となると新古品のようでイヤだというユーザーも多いだろうから、あえて周知する必要はない。しかし買ったらすぐいい音がしたという経験は、確実に次の購入に繋がると思う。中古品市場も、クルマのように年式で価値が決まるようになるかもしれない。

 

私自身は、オーディオ製品は長く使う方だ。その理由の一つに、このエージングの問題がある。「これから、また、あの…」と思うだけで非常に depressing なのだ。時間がたっぷりあって、慣らし込みを人に自慢するような時代は過去のものだ。

エージングの問題がある限り、「高級オーディオは眺めているのが一番。どうせ評論家がほめているような音は、メーカーの言う通り20~30時間エージングしたところで、私のステレオからは出ない」という風潮がいつまでも続くような気がする。

 

illust: illust AC (いかぽん)

 

 

 

アンダンテラルゴの接点クリーナ・拡張安定剤を使って1年近くが経つ。2018年度の「オーディオ・アクセサリー銘機賞」のグランプリに選ばれた5つのうちの一つだ。「グランプリ」というのに惹かれて買った。

一般にオーディオ・アクセサリーというのは、何か不満足な点がある場合にその改善を図るというイメージがある。低音とか音色とか。これはちょっとそういうイメージとは違う。音が根本的に良くなる。音のベールが1枚も2枚もはがれた感じで、実体感・実在感が大きく増すのと同時に、細かいニュアンスが出て情感・音場の雰囲気の表出も増す。音のエッジが立つが反面痩せるというような偽りの実体感とは全然違う。改善というよりは、これが電気がスムーズに流れたときの本来の自然な音だという印象だ。全く驚きのアクセサリー商品だ。

 

これは、電源ケーブルとか接続ケーブルのプラグの金属部分に被膜を作って、接点を安定させるものだ。

2つの溶液がセットになっており、1つは汚れを除去し、もう1つが被膜を作る。

これを使う前は、正直言って怖かった。アクセサリーはこれまでにもいくつか買っているが、7割がたはじきに使わなくなる。変化は当然にあるが、常に良い方向とは限らない。もしこれを使って同じような結果になったとき、もう元には戻れない。そこが他のアクセサリーと違うところだ。やはり、「グランプリ」というのが背中を押した。

最初は、とっかえがきくどうでもいい電源ケーブルで行なった。確かに良くなる、しかし副作用はないかというあら捜しになる。音色は、周波数特性は? どう探してもあらは見つからない。それで、次のケーブルに行なう。うん、特に副作用はない。結局、私が使っている、全ての電源ケーブル、接続ケーブルに行なうことになった。マーク・レヴィンソンのプリアンプの純正ケーブルなどは、相当な覚悟が必要だった。

 

使い方は簡単だが、いくらか注意が必要だ。「Polish」というのは、汚れの除去剤で、瓶のキャップがスポイトにもなっているので、それで少し吸い上げて付属の(市販のものでもよい)綿棒に垂らし、プラグの金属部分に塗ってから、別な綿棒でふき取る。綿棒にいくらか汚れの黒ずみが付く。これだけでも音の改善には効果があるはずだ。(この汚れ除去作業は、2回目以降は不要だという)

次に本チャンの「Polymer」で、同じように綿棒で塗る。今度は被膜が出来るまで10分くらいそのままにして、それからやはり綿棒でふき取る。

ケーブルはすぐに使えるが、被膜が安定しないようで、効果は1~2日してから出てくる。この結果が驚きなのだ。

 

出てくる音を聴きながら不思議に思うのは、なぜこれをケーブル・メーカーが、製品出荷時に適用しないのかということだ。これだけの効果をケーブルの材質やらシールドで出そうとしたら、相当なコストがかかるように思う。一番違うのは、やはり電源ケーブルだ。コスト・パフォーマンスは何倍にもなるし、なにより感動指数が上がると思う。

欠点は、使っているうちに、これを使ったことを忘れてしまうことだろうか。この音が当たり前になってしまって、使わない音との比較が出来ないことから、何か月後にはケーブル固有の音と思ってしまうことだ。まあ、アクセサリーはそれが理想かも知れないけど。

 

 

OTOTENに行ってきた。会場はインターナショナル・オーディオ・ショウと同じだが、これと比べるとOTOTENの方は、国内のメーカーに重点が置かれていること、そのため音を創り出している現場を見せているようなところがあることが特徴だ。デジタル技術の分野が充実していることももう一つの特徴だろう。

そういう意味で、それぞれのブランドの主宰者から直接に話が聞けたことが大きな収穫だった。よりよい音を求めてのセミナーなども開催されて、ずいぶん盛況のようだった。日本のオーディオ製作者・関係者が一堂に会した感がある。

 

印象に残ったのは、まずSoulNoteだ。主催する加藤秀樹さんの話を聞いたが、音も話も強く印象に残った。このブランドは、D/Aコンバーターが製品の中心だが、NOS(Non Oversampling)ということをやっている。これはD/A変換の時に必ずと言っていいほどされているオーバー・サンプリングをやらない、つまり44.1KHzでデジタルに分割された音をアナログに復元するときに、その分割された間の補完を行わないというものだ。ちょっと考えると、もとの連続したスムーズなアナログ信号が復元されないので、デジタルのギザギザが出てしまいそうだ。しかし実際には、オーバーサンプリングをした音と、しない音を比較した結果は、しない方が音がくっきりして、ベールを剥いだような生々しい実在感・空間感がある。SoulNoteの再生音の生き生きとした表情と相まって、この違いは非常に強く印象に残った。

このあたりの理屈の説明はなかったが、別なブースで聞いたこの方式に賛同するSforzatoの主宰者、小俣恭一さんの話で非常によく分かった。つまり、オーバーサンプリングによる補完というのは、もとのデジタル信号にない成分を前後の音の流れから演算により推定して補完することだから、音が一定して流れているときはいいのだが、いきなり立ち上がるとき、立ち消えるときには、その直前・直後にわずかに擬音が付加されるのだという。これが自然音のキレをそいでしまう。小俣さんは、人間が楽器の音色を判断しているのは、ほとんど音の立ち上がりなので、これが聴感上の音質に非常に大きな影響を与えるという話もしていた。

PCMデジタル方式が実用化されて半世紀。依然としてこういう新しい発見、新しい提案があることに驚く。そしてこの2つのブランドが、世界最先端のデジタル技術で、世界最高クラスの音質を実現しているということに感嘆し、かつ納得する。

CDの音はレコードに比べて良くない。この点については、誰も異論がない。私はその一番大きな要因は、レコードが持っている音のキレ、特にその立ち上がりの音のキレがCDでは充分に得られないということだと思う。MQAをはじめとしてここらへんにメスが入ることにより、CDの音はかなりレコードに近づくと思う(あとは電磁波ノイズだろうか。これに対しては光が有望だ)。

 

新しい技術という点では富士フィルムが、新しいコンセプトのスピーカー(昨年度の改良版)を提案していた。これはマグネットとコーン紙により音を出すのではなく、フィルムを直接電気で駆動するというものだった。高忠実音ということではまだ途上の技術という感は持ったが、音の立ち上がりの速さなどに優位性があるようで、こういう新しい技術に挑戦すること自体は素晴らしいと思った。

また香港を拠点とするLuminのネットワーク・プレーヤーはあまり聴く機会がないので、その素晴らしい美音にさすが世界のトップブランドと思った(ただ同じアジアなのだから、もう少し安く入ってきてほしい)。

Dynaudioも好きなメーカーなのだが、最近はあまり聴く機会がないので、改めて音色の素直さと空間表現に感心した。

Olasonicの小型スピーカーは信じられないほど良い音を出すのだが、ここが小型アンプ類をデモをしていて、やはり本格的な音を聴けた。こんなに小さくて、まったく不思議だ。

ヤマハなど、予約制で満員で聴けなかったところもあったし、総じて雨の中、講演があったところは超満員盛況だった。来場者がきれいな音出しだけでは満足しない点は、インターナショナル・オーディオ・ショウと違うかなとも思った。

 

河野太郎外務大臣の肝入りで、外国の公式国名から「ヴ」の表記がなくなるという。ブログなどを書いていると、いつも頭を悩ませるのがこの問題だ。「ボーカル」なのか「ヴォーカル」なのか。少し考えてみたい。

 

「u」「v」「w」の音は、西欧語でも悩ましい。

ラテン語にはもともと「v」しかなく、「ウ」とも発音した。「Bvlgari」「virus」は、それぞれ「ブルガリ」「ウィルス」と読む。

それから「u」が作られ、更にはこれを語頭に置くときの文字として「w」も作られた。読み方は、どちらも「ウ」だ。「bulldog」「window」は、「ブルドッグ」「ウィンドウ」だ。

しかしそれに従わない言語もあって、例えばドイツ語だ。「w」は「v」と発音され、「v」は「f」となる。「Wagner」「Volkswagen」は、「ヴァーグナー」「フォルクスヴァーゲン」と発音される。

 

日本語での外国語表記は基本的に英語式だが、読み方には2つの考え方があって、一つは「英語読み」、もう一つは「原語読み」だ。「ワーグナー」は英語読み、「ヴァーグナー」は原語読みだ。(「Volkswagen」は、英語読みで「ヴォルクスワーゲン」、原語読みで「フォルクスヴァーゲン」だから、「フォルクスワーゲン」は両者の折衷ということになる。)

 

そこで今回の問題だ。

「v」を「ヴ」と表記するのは、ひょっとしてドイツ語から来たのではないかと思う。誰かが、「Wagner」は「ワーグナー」ではないと言い出したのだろうか。「w」は基本的に「ウ」の音だから、それに濁点を付けて「ヴ」とすればよいということになったとか。これによって、表記がドイツ語式となってしまった。

そうでなければ、「v」音を「ウ」とも発音したラテン語を参考にして、「ヴ」とした可能性もある。「v」音と「u」音は近くはないと思うのだけれど。もしそうであればラテン語式の表記ということになる。

いずれにせよ、これが違和感の起源だ。多くの日本人がこの表記に馴染まないのは、日本語では、原語読みを取る場合でも、表記自体はみんな英語式じゃなかったの?という疑問を持つからだろう。

 

ならば、という訳で、英語式でこれを解決したらどうなるかを考えてみた。(「v」と「b」を区別すること自体は、必要な気がする。何と言っても、「v」音というのはどこか知的な感じがするじゃないか。この区別がないスペイン語は、どこか物足りない)

音声学上、「v」「f」を唇歯音、「b」「p」を両唇音というらしい。それで、「v-b」の組、「f-p」の組に分けて対比して見てみる。

まず「f-p」の組を見ると、「pa」「pi」「pu」「pe」「po」は、「パ」「ピ」「プ」「ぺ」「ポ」と表記するのに対して、「fa」「fi」「fu」「fe」「fo」は、「ファ」「フィ」「フ(フュ)」「フェ」「フォ」と表記する。つまり、唇歯音の表記は、両唇音の「ウの位置の音」あたりをベースにしている。そしてこれが完全に定着している。

そこでもう一方の「v-b」の組を見ると、「ba」「bi」「bu」「be」「bo」は、「バ」「ビ」「ブ」「ベ」「ボ」と表記する。したがって上と同じように考えると、「va」「vi」「vu」「ve」「vo」は、英語式では「ブァ」「ブィ」「ブ(ブュ)」「ブェ」「ブォ」ぐらいに表記することとなる。なんか、これでいいような気がする。「vocal」は「ブォーカル」、「Wagner」は原語読みで「ブァーグナー」だ。(単に、無声音「f」を有声音にしたのが「v」だから、「ファ」→「ブァ」とすると考えてもいい。こちらの方が対応が正確かも)

最初は戸惑うかもしれないが、f音からの類推で、誰もが正しい唇歯音に至りつくのではないだろうか。

 

「ボーカル」(bocal?)とは書きたくないし、とか言って英語なんだから「ヴォーカル」(wocal?)と書くのも抵抗がある。私には「ブォーカル」(vocal)でいいように感じられる。今回の河野大臣の決定は「ボーカル」に軍配を上げたような形になったが、根本の問題が解決されたわけではない。早くこの問題から解放されたいものだ。

 

 

 

相変わらず盛況だった今年のインターナショナル・オーディオショウ。円安のせいか、毎年少しづつ国内メーカーの出展が多くなっている。

今年は、購入動機からして音の入り口に興味があった。しかし、ここに焦点を当てるブースはほとんどなく、CDやレコードを普通にかけているといった様子だった。音の入り口は、依然として混乱が続いている。

 

そんな訳で今年は久しぶりに原点回帰、LINNのブースに寄ってみた。LINNは、音の良さでネットワーク・オーディオを先導した偉大なパイオニアだ。頑固なメーカーだが、必ずしも首尾一貫していたわけではなく戸惑うことも多かった。主力商品DSのビジネスモデルはCDのリッピングだが、今や大前提とするCD市場そのものが縮小している。やはり大前提としている有線LANの普及は、ないものねだりだ。

TIDAL、Roon、MQAと目まぐるしく変化する市場に臨機応変に適応できるのはやはりPC(ノートパソコン)=USBだ、ということなのか、LINNはDSの製造を中止し、USB端子もフォノ端子もプリアンプ機能も持つDSMに一本化するのだという。CDプレーヤーの製造中止の時も驚いたが、DSの製造中止もまた時代の流れというべきか。そのPC市場も縮小しているから、ハイエンド・デジタルの行きつくとことろはレコードだったという、予想もしなかった結果(しかしLINNにとっては悪くない結果)になりかねない。

 

有線LANが普及しない大きな理由は、諸悪の根源とも言うべきDLNAだ(?)。この規格に基づいて作られたアプリで、まともに動作するものがほとんどないのだ(ワタシの場合)。誰か、これに代わるシンプルで音の良い国際標準規格を作ってくれないものだろうか。

TIDALが上陸してTIDALプレーヤーに移行する人もいるだろうが(私も狙っているのだが)、有線LANそのもののハードルは依然としてなくなりそうもない。WiFiとの併用だろうか。

そこで有力な方向の一つが、スマホ+Bluetoothだ。私は10年くらい前からこの組み合わせのハイエンド・システムが有力だと思っていたのだが、どうもBluetoothの規格やらで難しかったらしい。しかし、今ではだんだん実現しそうな雰囲気だ。前段のシステム同様、うまくダウンロードを組み合わせれば、再生局面での無線伝送は避けられるだろう。

 

ブースで実際に音を聴くと、やはりスピーカーに耳が奪われる。北欧勢が頑張っていて、スウェーデンのMARTENがくっきり・はっきりの中域の充実した音で印象に残った。イタリアのフランコ・セルブリンのLIGNEAというスタンド型の小型スピーカーは、絶品ともいうべき高音を聴かせていて魅せられた。YGAcousticsは相変わらず大きな部屋を音楽で満たしていた。これだけ音が拡がると定位との兼ね合いが出てくるのかもしれないが、やはり凄い音だ。

 

私自身、鑑賞の中心はCDだ。それで何の不足も感じない。ただ、CDの購入枚数はぐっと減った。それでもレコードやレコード・プレーヤーは押し入れに入ったままだ。場所をとるCDの置き場も何とかしたいし、ストリーミングで膨大なコレクションを聴ければ、夢のようだと思う。

一方で、小さな書斎でのシステムは、Spotify Connect対応のWiFiスピーカーが中心だ。非常に便利で、この辺りはまだまだ伸びしろを感じる。

大手カメラ・メーカーは、本格的なミラーレス時代に向けて大きく舵を切った。デジタルの本質はコストが劇的に下がることだが、このことを角度を変えて見ると、同じコストをかければ質が劇的に上がることでもある。私は音の入り口には100万円と考えて、お金を蓄えている。これ以上は無理だし、これ以下であってほしいという訳でもない。しばらくは悩ましい日々が続きそうだ。

 

 

今年のオーディオショウは、9月29日から10月1日までで、私は初日の29日に行った。
どのブースも音の入口の主役は完全にファイル再生へと移っている。このあたりは海外の動きが反映されているだろう。

 

最近の話題の中心、MQA(Mater Quality Authenticated)は、開発者のメリディアンが伝統的にこのショウには出ていないので、話が出ることは期待していなかった。しかし、MQA対応製品をいち早く出した今井商事のマイテックのブースで、麻倉怜士さんの非常に有益な講演があった。
この講演では、同一音源のPCMハイレゾ・ファイル(ビットレートは様々)と、MQAのファイルの1対1の聴き比べをし、最後にはSACDとMAQ-CDとの聴き比べをした(SACDを除いてハードウェアの条件は全く同じ)。

MQAの音の特徴は、巷間言われている通りだ。前後左右に自然に音場は広がり、高音は柔らかくなり、中低音はゆったりとバランスよく膨らむ。演奏者は実体感、空気感、佇まいの雰囲気感が増し、歌手は口の動きがよく分かるようになり、よりリアルになる。どんなビットレートのハイレゾと比べてもこの差は同じで、さらにSACDと比べても同じだ。MQAの音には派手さや驚きはないが、感動がある。昔のレコードの音が、1枚ベールをはがして戻ってきたような懐かしさと新しさがある。演奏会場(スタジオ?)に居合わせているような臨場感があるのだ。
私はこれらのデモを聴きながら、MQAがCDの発明以来の、デジタル・オーディオ技術の最大の技術革新であることを確信した。それと同時に、私がこれまで聴いてきた音は何だったのかというほどの思いを持った。

温泉劇場でマイクを手にした地場歌手の声が、安物の小型のスピーカーからリアル・タイムで出てくるその音が、なぜあんなに生気に満ちているのか。どんな立派なデジタル録音でも敵わない、たとえ音自体はひどくとも、何も失われていない音だけが持つ生気がある。それは周波数の問題ではない、というのが私の印象だった。MQAには、その生気がある。

MQAは、ハイレゾ技術の上に立った低コストの高規格ファイルの技術であり、優位性は成果とともにはっきりしている。MQAは、モノラル録音から最新録音まで、既存のすべての音源をより良い音に変える。イヤホンからラジカセ、高級ステレオに至るまでメリットが全ての機器に及ぶ。その自然な音の佇まいは女性にも受け入れられそうで、お茶の間に音楽が戻ってくるかもしれない。MQAは、音声のデジタル化の一般的な技術革新であるから、もし標準化が進めば、これからテレビ・ラジオをはじめとして、ほとんどすべての音声分野に影響を与えていくだろう。

メリディアンは、MQAの普及のための会社を立ち上げているが、知的所有権がどのように扱われるのかや権利料の水準などが当面の関心事だろう。これだけの技術だから、各方面からの思惑がらみで正常進化の動きがゆがめられないことを願うばかりだ。

 

あとは例年通り、スピーカーを中心に聴いた。

太陽インターナショナルのブースでは、アヴァロンのIndra DiamondとSagaがデモされていて、どちらも非常に良かった。プレーヤー、アンプ類については、Indra Diamondを動かしていたdCSのVivaldi OneやJeff Rowlandの組み合わせが強烈だった。

アッカのYG Acousticsは、大、中のスピーカーを鳴らしていたが、大音量にもびくともしない安定感が印象的。つくづく、価格が難点と思う。

日本のメーカーも活躍している。TADのReference MK2は、全ての帯域で安定した音色を出し、なんでもこなしそうだ。劇場とかでは活躍するだろう。家庭でこれを使える人は幸せだ。フォステクスのスピーカーも、音場表現に優れているところは印象的だった。アキュフェーズのアンプ類で鳴らしていたが、今の日本でこれが最高の音です、というほどのものだった。

 

今年はMQAを最初に聴いてしまったものだから、それ以後、高音が無機的になりがちで、音場が平坦な、感情表現に劣る非MQAファイルを聴くのは、正直しんどかった。素晴らしい音で聴けたところも、これがMQAだったらどんな鳴り方をするのか、つい考えてしまった。帰宅して家のステレオを聴いても、これがMQAならこう鳴っているはずだとか思ってしまう。

来年は、ぜひ全てのブースでMQAが普通に聴かれるようになって欲しいと思う。

 

 

 

オーディオ機器を生産する企業は、エレクトロニクス産業と呼ばれる産業に属している。最近、やや持ち直したとはいえ、この産業を取り巻く環境は厳しい。

自動車産業がかなり安定した国際競争力を持っっているのとは対照的だ。そもそもこの産業は日本経済を支えてきたはずだった。同じような機械産業である自動車とは、どこで違いが出たのだろうか。

私はかつて国際物流の仕事に従事したことがあり、やや知識が非現行とは思いつつも、その時以来感じていることを書いてみたい。

 

かつて流通論の大家と言われる大学の先生と話していた時、こんなことを言われた。「日本は周りを海で囲まれ、複雑な海岸線を持っていますね。でも、これが日本の競争力の源泉だというと、みなさん怪訝そうな顔をされますなあ」

日本はいたるところ、天然の良港に恵まれている。海上輸送にとって、これほどの立地はない。

私たちが子供の時は、日本は原材料を輸入して製品を輸出する加工貿易国なのです、と習った。そのために日本人の勤勉さが国際競争にとって重要なのです、とも。それはそうだが、その見地からそれに勝るとも劣らないほど重要なのが物流コストだ。

海上輸送というのは、陸上輸送に比べると、ほとんどコストはタダだと言ってよい。かつて日本で生産された自動車は、海を渡ったアメリカで、日本での価格以下で売られていた。イギリスにしろ、日本にしろ、「世界の工場」と呼ばれるような国は、こういう物流上の優位を持っていた。とても内陸国には真似のできない競争上の優位だ。

 

それが最近のエレクトロニクス製品だと、重量当たりの付加価値が高いので、主力が海上輸送から航空輸送に移っている。航空輸送というのは、昔は重量当たりの付加価値から、高級アパレルぐらいにしか使われなかったのだが、いまは半導体の輸送に使われている。私は半導体が、ごく小口の航空輸送の分野にまで押し寄せているのを知って、ある時驚いた記憶を持っている。

それで問題が生じる。我が国は、成田という、世界一不便な空港でそれらを処理しなければならない。

成田空港は、騒音対策のためだろう、夜の10時半から朝の7時まで(実際には11時頃から朝の6時ころまで)、飛行機は飛ばない。さらに減便はその前後の時間帯からすでに始まる。これは旅客輸送には何も問題はないだろう。真夜中に発着するような便を使いたい旅行者はいないからだ。

しかし、物流上は大問題だ。物流というのは、夕方に集荷して、それから深夜にかけての作業が中心になる。真夜中から明け方にかけての便が、物流の生命線だ。この時間に、成田は閉鎖される。

パリや、サンフランシスコ、シカゴといったハブ空港に向けての便は、夜の9時~10時くらいまであったから、これらの便を利用した。直行便主義をとると、貨物は成田で翌日まで一晩寝ることになる。とにかくその日のうちに送り出してしまえば、あとのヨーロッパ各地、アメリカ本土各地域への輸送は、これらのハブ空港を経由して何とでもなった。

到着の方も同じで、早朝6時半ころに早々とシンガポールから到着する便があったから、アジアの国はシンガポールを経由してもらえば、日本へはどこよりも早く到着した。(こういうことは、航空会社の戦略にも関係する。朝は早ければ早いほど、夜は遅ければ遅いほどいいのが物流、その反対が旅客だから、航空会社内部でこの2つのせめぎあいになるのだという)

ハブ空港というのは、できるだけ多くの国からの便を集めて、できるだけ多くの国に便を出さなければならない。非常にシビアなコスト競争がある。物流基地としてのハブ空港は、24時間稼働が世界の常識だ。常に最大のネックだったのが成田だった。

(騒音が人が住めないほどに大きな場所は、空港が買い取って空港の一部とするなどの対策を講じる必要がある。しかしそれほどまででないところは、結局は補償の問題だろう。空港が出来る前からそこに住んでいる人たちには、静かな環境に対する既得権がある、というのが法経済学の考え方だ。公共の利益が絡む場合、それは補償の問題、つまりは補償の額の問題だ。伊丹や普天間の内実について、私は何も知らない。しかしこれらの推移を見ると、本音はゼロか100かの問題ではなく、結局は補償額の問題だということを感じてしまう。)

 

それで関西空港が出来たはずだった。しかし、関空は、深夜から早朝にかけての通関に手数料がかかった。それは関税当局の方針だからどうにもならない。それで、物流業者は結局、朝9時からの通常の通関を選択した。関空も現実にはやっぱり24時間稼働しなかったのだ。

(税関という職場は難しいのだ。彼らにとっては、麻薬、ピストルの水際阻止が最大の仕事で、関税の徴収はどうしてもその次になる。ある時アメリカ人から、別な問題で、「アメリカなら公務員は国民のために働く。なぜ日本ではそうでないのか」ときかれて、問題意識自体が理解できなかったことがある。)

 

日本人の勤勉さは、確かにエレクトロニクス産業の国際競争力の源泉かもしれない。しかし、こんなに大きな物流コスト上のハンディを負わされて、それを撥ね退けるのは容易ではないだろう。

自動車は、依然としてタダみたいな輸送費で世界中に運ばれる。

アジアの国は、韓国にしても中国にしても、香港にしてもシンガポールにしても、物流ハブ空港の成功こそがエレクトロニクス産業の国際競争力の源泉だとしてその整備を図ってきた。

ヨーロッパにしてもそうだ。私はスイスのある空港から、ハブとして使ってほしいという売り込みを受けたことがある。非常に熱心で、中継空港としての貨物の積み替え、保安には万全の責任体制をとるということだった。そういうことは、一切空港に任せてよいということだ。しかしハブ空港としての利便性から言えば、パリやフランクフルト、アムステルダムに到底かなわなかった。

 

ハブ・アンド・スポークスというのは、アメリカのフェデックス創始者のフレッド・スミスが大学時代に考案した航空輸送のシステムで、それを書いた論文がCをもらったことから発奮し自分の会社を興して、全米翌朝配達網を作り上げたことが起源だ。

大学でこういうことを教えるとしたら、商学部のマーケティングでの商流・物流論あたりだろうが、私はトラック以外の物流を専門的に研究している人を知らない(トラックでさえ非常に少ない)。企業が単独で企画するとなると、相当に大きな話になり、情報も限られる。フェデックスが、アジアのハブをフィリピンの軍事空港跡地に置いた経緯が時おり報道される程度だ。理系の研究もあるが、かなりミクロの細かい世界になる。長期的なコスト計算の上に成り立つ、複雑なシステム思考が要求される分野だが、そもそもその視点を誰が持つのかさえもよく分からない。

 

成田が難しいのは分かっている。多くの人が苦労しただろう。しかし、ハブ空港というとほとんどの人が旅客にしか関心がないようだ。旅客と貨物では、必要な要件が全く違う。日本は、物流のハブ空港は作れなかったのだ。

観光立国も大切だ。しかし、技術的には依然として世界最高水準にあるエレクトロニクス産業が、どうしてこんなに急速に国際競争力の低下に会ったのかを考えると、システムとしての航空輸送の重要性をあまりにもないがしろにしてきたように感じてならない。

 

(illust: gu-mantan)

ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞した。一時は受賞辞退かという憶測も流れたが、まずは関係者は胸をなでおろしているだろう。

ディラン・ファンの間では、ディランの詩の文学的な価値について疑う人はいない。ディランの詩は、音楽とは別に、常に特別なものと考えられ、一行一句を分析するディラノジストなる人たちもいる。またディランの反戦プロテスト・ソングは、大きな社会的な影響力を持ってきた。

しかし、ひやりと感じさせたのには理由もある。

 

一つには、ノーベル文学賞の性格だ。

ノーベル賞は、自然科学分野が数からいって中心をなす。その自然科学分野では、賞は業績を具体的に特定して与えられる。例えば、アインシュタインは1921年にノーベル物理学賞を受けているが、対象は相対論に対してではなく、光電効果に関してだ。当時、相対論(特殊相対論)は有名ではあっても、まだ斬新な仮説だったのだ。アインシュタインも他の問題では自分の誤りを正して自説を修正しているから、賞の在り方として、業績や論文を特定して与えられるというのは非常に賢明なことだと思う。

同様に、たいていの文学賞や音楽賞は、著作やアルバムを特定して授与される。作品というのは、作者にとっては子供のようなものであり、世に出た瞬間から独り歩きする。その生みの親として、子供たちが評価されることくらいうれしいことはないと思う。

ところがノーベル文学賞は、作品を具体的に特定せずに与えられる。我々は、川端康成や大江健三郎が受賞しているのは知っているが、特にどの作品ということではない。

このことはノーベル文学賞が、作品やそれを成し遂げた人というよりは、その人自身を表彰している印象を与える。これは、もちろん人生最高の名誉と感じる人もいるだろうが、常に新しいことに向かって創作活動をしている人の中には戸惑う向きもあるのではないだろうか。

 

もう一つは、このような賞の性格から、ディランの何が評価されたのかよく分からないことだ。

ディランは確かに、プロテスト・ソングで世に出た。例えば初期の代表的なプロテスト・ソングに、「ハッティ・キャロルの寂しい死」という、黒人女性を歌った歌がある。(アルバム「時代は変わる」所収)

「大農場主ウィリアム・ザンジンガーは、何をしたわけでもない小間使いのハッティ・キャロルをステッキで殺した。さあ、訳知り顔のあなたたち、今は涙するときではない。」「ウィリアム・ザンジンガーは逮捕されて裁判にかけられ公正な裁判官は刑期6カ月の判決を言い渡した。さあ、訳知り顔のあなたたち、今こそ涙する時だ。」

しかしディランの歌の中で、反戦歌や公民権運動の歌はむしろ少なく、ごく普通のラブ・ソングも歌っていた。

その流れの中で、社会の底辺で生きる麻薬常習者の不安な心理を歌ったとされる「ミスター・タンブリンマン」。私はこの曲が死ぬほど好きだが、「the twisted reach of crazy sorrow(気が狂うような悲しみがある折れ曲がったところ)」とか、「let me forget about today until tomorrow(今日のことは明日まで忘れよう)」といった表現は特に好きだ。

このあたりからフォーク・ロックへ向かい、アメリカン・ロックの新しい流れを創り出した。「ライク・ア・ローリング・ストーン」は、経済的な成功を収めた後も、無名で、無一文で、転落者だったときの心を持ち続け、いつまでも転がる石のように自由でいることを宣言したような歌だ(そうは言ってないけど。たぶん。一つの解釈。なんせこれは、すべてのロックン・ローラーにとってのバイブルのような歌だ)。

しかしその後は、再びプロテスト・ソングを歌ったりしている(ただ初期のように、経済的弱者を歌っているわけではない)。

ディランは、歌手としての最盛期が数回にわたって訪れている珍しいアーティストだ。創作活動は現在も非常に活発であり、最近はさすがに「老い」を扱った歌も聞かせる。

 

私はディランが好きだから(最近のディランが好きだとまでは言えないけど)、今年の4月に東京ドームシティホールで行われたコンサートに行っている。ディランは昔の歌はほとんど歌わず、最新アルバムからの甘い愛の歌が中心だった。雰囲気はほとんど歌謡ショーだったが、いいコンサートだった。ギターも持たず、ステージ中央のやや奥で手ぶりを加えながらバンドをバックに歌うディランを見て、私は、「この人は、フランク・シナトラが歌手だというのと同じ意味で歌手なのだ」と思った。つまり、本質的にはエンターテイナーなのだ。

ディラン自身は、singerなのかpoetなのかと問われて、"I sing and dance."と答えている。

 

ディラン・ファンは、その人気を自分たちの目的のために使おうとして、ディランを偶像視してきた人たちがことごとく裏切られてきたことを知っている。ファンの願いは、ノーベル賞をもらっても、そんなこととは関係なく、ディランには自分の歌いたい歌を歌って欲しいということだ。

ディランの反応を「無礼で傲慢」と言ったスウェーデン・アカデミーの委員がそれで不満なら、こんなふうに答えるだけだろう。(ディランの歌ではないけど)

「(夜更けの電話 あなたでしょ 話すことなど 何もない)」

「疲れ果てたあなた 私の幻を愛したの」