「Yesterday」とEd Sheeran「DIVIDE」 | オーディオの楽しみ

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大ヒットしている映画「Yesterday」を見た。この映画は、もし世の中の誰もがビートルズの曲を知らなかったら、もしそれらを自分だけが知っていて歌ったらどんなにヒットするだろうか、というような発想から作られたという。ビートルズ・ファンを自認する私としては押さえておかなければならないと思った次第だ。

主人公だけが知っている歌として出てくるのは、まず「Yestereday」、そして「Let It Be」、「Help」、後半の方では「The Long And Winding Road」などだ。見ている最中、「この映画のオチは何だろう」と思っていたところ、特段ビックリするようなことも起こらなかったので拍子抜けしてしまった。これが大ヒット?と思ったが、見終わって映画館の観客を見て年齢層が若いのに驚いた。往年のビートルズ・ファンとは違うようなのだ。

映画の目玉として、エド・シーラン自身が出演することがある。エド・シーランの曲とビートルズの曲を比較するような趣向もこらしてある。いかにビートルズが偉大かというような意味付けのようでもある。だが、ちょっと待てよ、ホントにそうなのか?

 

主人公は自分だけが知っている曲を楽々と書いて、世界中にフィーバーを起こす。そしてコンサートを行うスタジアムは、熱狂的なファンで埋め尽くされる。その一方で、幼友達の女性と紆余曲折がありながら結ばれる。

これって、エド・シーラン自身のことじゃないか。

これを見てビートルズの映画と思うのはおじさんたちだけで、実はこの映画はエド・シーランという現代のニュー・ヒーローの誕生を描いているようなのだ。エド・シーランがいかに凄いかということを言うためにビートルズが引用されているようなものだ。

エド・シーランという人は、アルバム売上、シングル売り上げ、興行収益、観客動員数、すべてに渡って記録を塗り替えつつある。こういう人は、自分の才能にどんなに謙虚であっても、その数字相応の自信を持つものだ。映画の中で、ジョン・レノンを思しき人が出てくるが、主人公と向き合うと、えっと思うくらい冴えなくてショボい人物に描かれている。でもそれも道理だ。かつてジョンは、ビートルズはキリストよりも有名だと言って物議をかもし出した。エド・シーランが、もし自分がビートルズを越えたと思ったとしても非難するには当たらない。そう思ったっていいじゃないか。その裏付けとなる数字があるんだから。

 

そういうことで、エド・シーランを聴いてみる。アルバム「DIVIDE」は特に売れた。
全体に、自分と自分の身の回りのことを歌っている。自作自演だが、詞には特別びっくりするようなことはない。ビートルズの詞に関しては、ジョン・レノンは天才、ポール・マッカートニーは万人向けするもので良く出来ている、ジョージ・ハリソンは特段に詩作の才能はない、という具合で、立ち位置としてはポールに近いだろうか。映画に引用された「Yestereday」「Let It Be」「The Long And Winding Road」は、どれもポールのパーソナルな内容な曲なので、私小説的なエド・シーランの曲と対比するのにいいと思う。

エド・シーランの曲作りで印象的なのは、シンセサイザーやら打ち込みやら多重録音やらで、全部一人で歌って演奏しているのではないかと思われることだ。それは映画でも触れられていて、ビートルズが4人でしたことを、主人公は1人で実現しているというくだりだ。

たしかによく出来ている。例えば「Perfect」と題された曲。「ボクなんか君に値しない。今夜の君は完璧だ」と歌う。思ったままを歌っているようだが、よくよく聴くと曲も歌詞もよく練られていてそれこそ完璧だ。この曲には別に、ビヨンセと共演したバージョンも出ていて、ビヨンセの歌唱力もあってか、恋人から結婚、子育てと進んでいく歌詞には心が暖かくなるような雰囲気があり、つくづくいい曲だと思う。

ビートルズの時代とは、若い人たちが音楽に求めるものも違う。過多な熱狂もなく、過多な感傷もなく、乾いた感情で自分と自分の日常と向き合っている。これが新しい世代のスーパー・ヒーローなのだろう。

ビートルズは若い人たちにも人気がある。しかしあまりに神格化しすぎると、新しい音楽が作れなくなる。おじさんたちも達観しよう。エド・シーランが新時代のヒーローでいいじゃないか。