ボブ・ディランのノーベル文学賞受賞 | オーディオの楽しみ

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ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞した。一時は受賞辞退かという憶測も流れたが、まずは関係者は胸をなでおろしているだろう。

ディラン・ファンの間では、ディランの詩の文学的な価値について疑う人はいない。ディランの詩は、音楽とは別に、常に特別なものと考えられ、一行一句を分析するディラノジストなる人たちもいる。またディランの反戦プロテスト・ソングは、大きな社会的な影響力を持ってきた。

しかし、ひやりと感じさせたのには理由もある。

 

一つには、ノーベル文学賞の性格だ。

ノーベル賞は、自然科学分野が数からいって中心をなす。その自然科学分野では、賞は業績を具体的に特定して与えられる。例えば、アインシュタインは1921年にノーベル物理学賞を受けているが、対象は相対論に対してではなく、光電効果に関してだ。当時、相対論(特殊相対論)は有名ではあっても、まだ斬新な仮説だったのだ。アインシュタインも他の問題では自分の誤りを正して自説を修正しているから、賞の在り方として、業績や論文を特定して与えられるというのは非常に賢明なことだと思う。

同様に、たいていの文学賞や音楽賞は、著作やアルバムを特定して授与される。作品というのは、作者にとっては子供のようなものであり、世に出た瞬間から独り歩きする。その生みの親として、子供たちが評価されることくらいうれしいことはないと思う。

ところがノーベル文学賞は、作品を具体的に特定せずに与えられる。我々は、川端康成や大江健三郎が受賞しているのは知っているが、特にどの作品ということではない。

このことはノーベル文学賞が、作品やそれを成し遂げた人というよりは、その人自身を表彰している印象を与える。これは、もちろん人生最高の名誉と感じる人もいるだろうが、常に新しいことに向かって創作活動をしている人の中には戸惑う向きもあるのではないだろうか。

 

もう一つは、このような賞の性格から、ディランの何が評価されたのかよく分からないことだ。

ディランは確かに、プロテスト・ソングで世に出た。例えば初期の代表的なプロテスト・ソングに、「ハッティ・キャロルの寂しい死」という、黒人女性を歌った歌がある。(アルバム「時代は変わる」所収)

「大農場主ウィリアム・ザンジンガーは、何をしたわけでもない小間使いのハッティ・キャロルをステッキで殺した。さあ、訳知り顔のあなたたち、今は涙するときではない。」「ウィリアム・ザンジンガーは逮捕されて裁判にかけられ公正な裁判官は刑期6カ月の判決を言い渡した。さあ、訳知り顔のあなたたち、今こそ涙する時だ。」

しかしディランの歌の中で、反戦歌や公民権運動の歌はむしろ少なく、ごく普通のラブ・ソングも歌っていた。

その流れの中で、社会の底辺で生きる麻薬常習者の不安な心理を歌ったとされる「ミスター・タンブリンマン」。私はこの曲が死ぬほど好きだが、「the twisted reach of crazy sorrow(気が狂うような悲しみがある折れ曲がったところ)」とか、「let me forget about today until tomorrow(今日のことは明日まで忘れよう)」といった表現は特に好きだ。

このあたりからフォーク・ロックへ向かい、アメリカン・ロックの新しい流れを創り出した。「ライク・ア・ローリング・ストーン」は、経済的な成功を収めた後も、無名で、無一文で、転落者だったときの心を持ち続け、いつまでも転がる石のように自由でいることを宣言したような歌だ(そうは言ってないけど。たぶん。一つの解釈。なんせこれは、すべてのロックン・ローラーにとってのバイブルのような歌だ)。

しかしその後は、再びプロテスト・ソングを歌ったりしている(ただ初期のように、経済的弱者を歌っているわけではない)。

ディランは、歌手としての最盛期が数回にわたって訪れている珍しいアーティストだ。創作活動は現在も非常に活発であり、最近はさすがに「老い」を扱った歌も聞かせる。

 

私はディランが好きだから(最近のディランが好きだとまでは言えないけど)、今年の4月に東京ドームシティホールで行われたコンサートに行っている。ディランは昔の歌はほとんど歌わず、最新アルバムからの甘い愛の歌が中心だった。雰囲気はほとんど歌謡ショーだったが、いいコンサートだった。ギターも持たず、ステージ中央のやや奥で手ぶりを加えながらバンドをバックに歌うディランを見て、私は、「この人は、フランク・シナトラが歌手だというのと同じ意味で歌手なのだ」と思った。つまり、本質的にはエンターテイナーなのだ。

ディラン自身は、singerなのかpoetなのかと問われて、"I sing and dance."と答えている。

 

ディラン・ファンは、その人気を自分たちの目的のために使おうとして、ディランを偶像視してきた人たちがことごとく裏切られてきたことを知っている。ファンの願いは、ノーベル賞をもらっても、そんなこととは関係なく、ディランには自分の歌いたい歌を歌って欲しいということだ。

ディランの反応を「無礼で傲慢」と言ったスウェーデン・アカデミーの委員がそれで不満なら、こんなふうに答えるだけだろう。(ディランの歌ではないけど)

「(夜更けの電話 あなたでしょ 話すことなど 何もない)」

「疲れ果てたあなた 私の幻を愛したの」