(戦前の)『日本の原爆開発計画
~2号計画orF計画』は
進化して実現&現存している。
~参考~
 

 

 
 
 
 

参考

【米国のプルトニウム返還要求の意味
(小出裕章)IWJ岩上安身インタビュー】
(2014年2月3日)
【IWJブログ】
によると、
原発開発の真の意図はもとより、
 
***
 
小出
「・・・そしてもうひとつは、
ミサイルに転用できるロケット技術を
開発しておかなければいけない、ということです。
両方を視野に入れながら、
科学技術省というものを作ったわけですね。
今はなくなりましたけれども。
科学技術省は、
原子力と宇宙開発をやるわけですけれども、
まさに原爆を作るためのものです」
岩上
「なるほど。ひとつの役所が、
まるごとそのために生まれたようなものだと」
小出
「そうです。日本人は、
日本は平和国家と思っているかもしれませんけれども、
国家のほうでは、戦略的な目標を立てて、
原子力をやってプルトニウムを懐に入れて、
H2ロケットやイプシロンなど、
ミサイルに転用できるロケット技術を開発してきたんですね。
しかし、日本のマスコミは、
例えば、
朝鮮民主主義人民共和国が人工衛星を打ち上げると、
ミサイルに転用できる、
実質的なミサイルであるロケットを打ち上げたという。
しかし、自分のところが打ち上げるH2ロケット、
イプシロンについてはバンバンザイという、
そんな報道しかしないわけですね。
もちろん北朝鮮だって、
ミサイル開発と絡んでいると思いますけれども、
同じように日本だって、
軍事的な目標を見ながらやってきたわけです。
 
***
 
つまり、小出氏が、
本来的に露骨に社会に暴露したいことは、
特に鹿児島の「種子島宇宙センター」の真の存在意義、
すなわち、
「種子島宇宙センター」の
軍事ミサイル発射基地としての側面
当該施設内に、
「核ミサイル」発射基地が併設されている
ということは、ほぼ間違いないのでは?
沖縄の米軍基地の近接場所に「種子島宇宙センター」
があるわけですけど、地理的にも至極納得いきます。
とすれば、「種子島宇宙センター」
というのは、本質的には、
日本の防衛省とアメリカの国防省の管轄であって、
特に、近未来の「対 中国戦」や「対 北朝鮮線」
を想定しての「核ミサイル」発射基地が装備されている
ことはほぼ間違いないのでは?
 
PS
(2014年12月11日 読売新聞)
 

~対比資料~

〔第二次世界大戦中/ナチス政権下の"ドイツの原子爆弾開発"計画〕

 

中学生等が素手でウラン採掘を強いられた

  福島・石川町で進められた極秘計画

 [日本の原爆開発計画~2号計画orF計画]

 

 

【ふる里と戦争を語り継ぐ会】

〔国産原爆製造を語る〕

~有賀究(きわむ)氏(福島・石川町)

(2010年9月19日)

 

参考

 

〔福島・石川町にウラン鉱石 戦時中、原爆開発で採掘〕
(2013年10月4日 東京新聞)

 

〔戦後70年~福島・石川町で行われていたウラン採掘の証言〕

(FNNLocal  2015年8月14日)

 

地層と言った方が正しいのかもしれない、

何の変哲もなさそうな岩。
70年前、この中には、

戦況を打開するための、あるものが眠っていました。
原爆被爆国の日本が、

もしかすると、

加害国になっていた可能性もあります。
原子爆弾の原料となるウランの採掘が、

福島・石川町で行われていました。

*

阿武隈山地に位置する福島・石川町。

石川町・有賀究(きわむ)さん(84)

「ここが私たち中学三年生がウラン鉱掘りを

した現場です。」

林の中を進むと、大きな白い岩が姿を

あらわします。

広島と長崎で、20万人以上が犠牲となった

原子爆弾。

一瞬にして多くの命を奪い、街を焼き尽くす

大量破壊兵器です。

一方、70年前、日本でも原子爆弾の製造が計画され、

(核兵器の原料となる)ウランの採掘が福島・石川町で

行われていたのです。

福島・石川町立歴史民俗資料館・三森孝則館長

「石川町は工業用に長石(ちょうせき)などを全国に出荷していた。

その中に放射性物質を含む鉱物が含まれていた。」

福島・石川町は

日本三大鉱物産地の一つに数えられ、

昭和40年ごろまで鉱物の採掘が続けられ、

主に陶器や硝子(ガラス)に加工されました。

しかし、昭和20年4月、戦況を変えたい陸軍は、

(鉱物から僅かに出る)ウランを求め石川町に目をつけた。

ウランを含む石の採掘を、

当時の福島・石川中学校の生徒に強いたのです。

有賀究(きわむ)さんも、当時、ウラン鉱の採掘に

あたっていた1人です。

有賀究さん

「その工場の跡が、ここから見える石垣です。」 

石川町の中心部に設置された「理研希元素工業扶桑・第806工場」

くみ上げた水と鉱物を上から流し、

純粋なウランを取り出す研究が行われたといいます。

有賀究(きわむ)さんは、

当時は何も知らされず、毎朝7時に家を出発し

約5km離れた採掘場まで歩いて向かった。

有賀究さん

「ここを掘った。この崖を。

ここに鉱物の鉱石の層があった。」 

更に中に進むと、鉱石の塊があらわれました。

有賀究さん

「放射性物質を含む石がこの中に入っている。

ただ、もっと全体的に層は大きかったと思う。」 

採掘は、炎天下の過酷な作業でした。

15人くらいのグループが、5~6箇所で採掘作業。

有賀究さん

「何と言っても、腹がへって困った。

弁当と言っても、ご飯が少なくて。

それに大根だとか芋だとか混ぜご飯で。」 

「いま思えば、

放射能があるところで、裸同然の姿で

よくも掘ったと思います。」

作業開始から1ヶ月が過ぎた昭和20年5月15日、

生徒たちは突然集められ、陸軍将校からの訓示を受けます。

 有賀究さん

「『君たちの掘った石で爆弾を作れば、

一瞬にしてアメリカの大都市ニューヨークを

破壊することができるんだ。がんばれ』

と陸軍将校から言われた。」 

「それまで、何の目的で石堀りをしたか、わからなかったが、

これは頑張らなくてはと張り切ったのを覚えている。」

その後、ウランの研究は昭和20年6月に中止されましたが、

採掘は終戦まで続いた。

当時「石川山」と呼ばれた山は、

有賀究(きわむ)さんが採掘にあたったもう一つの採掘場。

昭和20年8月になると、

福島・石川町を空襲する米軍機が、

毎日にように行き来し、頭上を飛び、

採掘どころではなくなりました。

Q)戦闘機とかを目の前にして恐さとかは?

 

有賀究さん

「ああ、こわいですね。山の中を逃げまわったこともありました。」 

そして、アメリカが

広島(昭和20年8月6日午前8時15分)

長崎(昭和20年8月9日午前11時2分)

に原爆を投下。

自分たちが大変なことに関わっていたと気づいたのは

戦争が終わってからでした。

石川町・有賀究(きわむ)さん(84)

「戦争は人殺しなんですよ。

人が殺すか殺されるか、だけなんですよ。

人を殺し合うというのは、

全力をあげて知恵を出してさけるべき。」 

「いちウラン鉱を掘った、

いち年寄りが、そう考えるところです。」

 

【荻上チキSession22】
〔「原爆の日」の前に考える。
『日本の原爆開発計画~2号計画orF計画』

とはいったい何だったのか?〕

~ゲスト:

神奈川大学名誉教授・常石敬一氏
恵泉女学園教授&ジャーナリスト・武田徹氏

TBSラジオ・崎山敏也記者(原発関連報道担当)

(2014年8月5日)

 

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参考

 

 <保阪正康『日本原爆開発秘録』(新潮文庫、原著2012年)を読む。>

あまり知られていないことだが、

日本では、戦中に原爆の開発が進められていた

(山本義隆『原子・原子核・原子力』でも言及されている)。

しかし、それは開発と言えるような水準のものではなかった。

むしろ、

工学の領域に入る前段階の基礎研究といったものに近かった。

ウラン235の濃縮も中性子の生成もうまくいかなかった。

開発に関わった科学者たちの水準が低かったのではない。

陸軍が抱えた理化学研究所では、

仁科芳雄をリーダーとして、

湯川秀樹、朝永振一郎らが在籍し、

東京帝大の嵯峨根遼吉らと連携した

(長崎への原爆投下後、

アメリカの科学者たちから嵯峨根宛てに

戦争を止めるよう書いたメッセージが

投下されたことは有名である)。

また、海軍が抱えた京都帝大には

やはり湯川秀樹が在籍し

長岡半太郎や仁科芳雄らと連携した。

重なるメンバーもいるが、

基本的には、

仲の悪い陸軍・海軍それぞれで予算を付けて研究を進めさせた。

このように世界的にもトップ水準の頭脳がいても、

もっと資本を投入し、

国家を挙げたプロジェクトチームを作らなければ、

理学から工学へと突き進み、

「悪魔の兵器」を製造することなどできなかった。

それが可能なのはアメリカだけであった(マンハッタン計画)。

しかし、仁科らは、

日本軍が期待するような短期間で

原爆の開発を行うことなど不可能だと知っていた。

それを認識しながら、

自由な研究活動と予算を確保できる体制を選んだということだ。

広島への原爆投下後、

仁科はすぐにそれを原爆であると悟ったという。

しかし、陸軍に対し、

このまま戦争を続けていては

さらに原爆が投下される可能性があることを、

進言することはなかった。

理化学研究所には、

陸軍から、国内でウラン鉱石を探索するよう指示があった。

*

福島県の石川町では、

ウラン鉱がある可能性など

限りなく低いにも関わらず、

中学生(現在の高校生)が

足を血だらけにしながら、

敗戦まで、採掘した石を運び続けたという。

胸が痛くなる史実だ。

*

科学者たちは、

原爆製造など日本では不可能と知りながら

体制を利用して研究を続け、

一方では、

将来のエネルギー源としての可能性を口にしていたという。

戦後の「原子力の平和利用」につながる芽を、

ここに見ることができる。

実態を理解できない日本軍は、

とにかく敵国にダメージを与える大量破壊兵器の完成を切望し、

さらに噂となって

(マッチ箱程度のもので大都市を殲滅しうる、というような)、

不利な戦局打開を望む世論とも同調した。

そして、戦後、「原子力の平和利用」の名のもとに、

実に奇妙な政治主導が行われた。

「平和」という曖昧なイメージによって

個々の問題を糊塗するあり方は、

「大東亜共栄圏」と本質的に同じだというのが、

著者の見立てである。

すなわち、

戦前から戦後の原子力技術開発の変遷を見ていくことで、

科学者、市民、軍の倫理意識が垣間見えるわけである。

 

 

<福島県石川町で撮影されたウラン鉱採掘関係者。

後方は学徒動員の生徒たち

=1945年5月(石川町立歴史民俗資料館所蔵) >

 

〔日本の原爆研究を後世に~福島の町史編さん委員〕

(共同通信 2007年8月14日)

第2次世界大戦末期、

国内で秘密裏に進められた原爆研究の一環で、

福島県石川町で行われた

ウラン鉱採掘の実態を伝える史料の収集を、

同町の町史編さん専門委員橋本悦雄さん(58)が

約15年にわたり続けている。

日本の原爆研究の過去をゆがめることなく後世に伝えるのが目的。

整理済みの写真などは、

町立歴史民俗資料館で順次、展示している。

国内有数の鉱物産地の同町では、

陸軍から原爆研究を依頼された理化学研究所(理研)が

1945年4月からウラン鉱を採掘。

研究は頓挫したが、

採掘は学徒動員された

旧制私立石川中(現・学法石川高)=石川町=の生徒らで、

終戦の日まで続いた。

調査では、

理研の元助手や学徒動員の生徒ら約30人から聞き取り。

大戦末期に町内に建設され、

ウランの分離のため転用された工場の関連写真を発見。

終戦直前に米軍幹部が

日本の原爆開発の状況を調べるよう命じたことを示す文書も、

国立国会図書館にある

連合国軍総司令部(GHQ)の資料から探し出した。

ただ、時の経過が壁になり陸軍担当者はほとんどが死去した。

 

 

テレビ朝日開局50周年記念

「原爆~63年目の真実

~あの夏“封印”された昭和史最大のミステリー」

(2008年8月2日午後9時放送)

 

 

〔テレ朝50周年特番「日本の原爆計画を追う」〕

(2008年7月14日)

世界唯一の被爆国である日本にも原爆開発計画があった。

そんな驚くべき事実が、

テレビ朝日開局50周年記念

「原爆~63年目の真実

~あの夏“封印”された昭和史最大のミステリー」

(2008年8月2日午後9時放送)で明かされる。

幻の原爆開発計画は3話構成の中の1話で、

開発秘話がドキュメンタリーとドラマとしてまとめられている。

*

日米開戦目前の1941年(昭16)4月、

陸軍が東京・駒込の理化学研究所に

原子爆弾の開発を正式依頼。

優秀な科学者たちが米国の科学者らと同様、

ウランの分離で原爆製造が可能だと陸軍に伝えた。

その原料となるウラン鉱石の採掘に、

福島県石川町に住む15歳の中学生たち160人が動員される。

その1人の証言を軸に物語は進む。

同町で「1000キロ」相当の鉱脈が発見されたからだ。

「マッチ箱1箱分でニューヨークを吹き飛ばす爆弾ができる」

と軍人に聞かされる。

終戦となる1945年、研究所が空襲を受けて実験装置が炎上。

計画は断念されたが、

中学生らはわらじ履きに素手でウランを掘り続けて終戦を迎える。

そして、真実は封印された。

*

戦後63年、原爆の記憶は年々風化。

当事者たちの証言を得られるギリギリの時期でもある。

テレビ朝日は「生き証人たちの再現ドラマは、

昭和史から置き去りにされた真実であり、

語り継がなくてはならない平和へのメッセージ」

と制作意図を説明した。

*

番組にナビゲーターとして

参加した中井貴一は

「原子力には

太陽の面(エネルギーとしての発電)と

悪魔の面があると思う。

悪魔の面を伝えるのは

自分たちが生きていくために必要なこと」

と語っている。

 

【ゲノム問題検討会議、people21】

<講演会/パネルディスカッション>

〔『タブーに踏み込む科学・科学者

軍事研究、遺伝子操作について考える

(UPLAN   2017年7月17日)