~背景~
1938年1月に、
ドイツの科学者
オットー・ハーンとフリッツ・シュトラスマンの論文により、
ウラニウムの核分裂反応が発見された。
彼らは、ウラン235の原子核に
中性子を衝突させて分裂させることに成功した。
 
 
 
 
ナチス・ドイツ政権下で、
1939年9月末からドイツ国防軍兵器局のもとに
原爆開発のための実験が試みられるようになった。
当時、ユダヤ人系の学者は追放、または亡命していたので、
残っていたドイツ人学者によって開発が進められた。
 
 
~第二次世界大戦中の原子爆弾開発~
1939年頃、ドイツ国防軍は、
ドイツと占領地区全域から物理学者を一人残らず招集した。
フォン・ヴァイツゼッカー、ヴェルナー・ハイゼンベルク、
ヴァルター・ボーテ、ローベルト・デペル、
ハンス・ガイガー、クラウス・クルティスなど、
非ユダヤ人のドイツ人物理学者が招集されて、
第一回研究会議で、原爆製造の可能性について討論した。
 
 
 

ドイツでは、
日本やアメリカ合衆国以上に、
核分裂の理論は完成していた。
 
濃縮ウランの連鎖反応を利用することが
通常の方法であったが、
ウラン235の分離法についての技術開発が困難であった。

そこで、
技術的に困難であった濃縮ウランではなく、
自然界に存在する天然ウランを利用した
連鎖反応の大胆な理論の可能性を検討した。
 
通常、ウラン235の核分裂により発生した中性子は
ウラン238の原子核に飲み込まれてしまう
が、
中性子を減速すれば、容易に飲み込まれなくなる。
そして、
ウラン235の核分裂も
減速した中性子の方が
起こりやすいという性質を利用した。
 
すなわち、
天然ウランの中にわずか0.7パーセントしか含まれない
ウラン235の核分裂によって発生した中性子のスピードを
重水によって減速して、
天然ウランに99.3パーセント含まれるウラン238に
飲み込ませないようにして、
残りの0.7パーセントのウラン235に
減速した中性子を集中させて、
確実に連鎖反応を起こさせるという理論
であった。
 
 
 
 

 

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     [「核分裂」と「核融合」との違い]

 

特定元素・核反応:
  [分裂(-)]⇔[融合(+)]
 
水素・ヘリウム・リチウムなどの
軽い原子核間の反応でより重い原子核になること。
その際,大きなエネルギーを放出する。
恒星のエネルギー源であり,
水素爆弾は
水素の同位体を用いて「瞬間的な核融合反応」を起こさせるもの。
融合反応。原子核融合。
*
水素や重水素、三重水素など質量の小さい元素の原子核が互いに衝突して、
ヘリウムなどの別の重い原子核に変わる現象のことをいう。
太陽のエネルギーは「核融合」によるものである。
原子核を衝突させるためには一億度を超える高温が必要であり、
基礎的な研究の段階にある。

 

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ハイゼンベルクらは、
この理論では原子炉の製造は可能でも、
爆撃機に搭載できるような
小型軽量な原子爆弾の開発は不可能だと見ていた。
 
1940年春、
ナチス・ドイツは科学者達の要請によって
ノルウェー作戦を実行した。
これにより、ヴェモルクにある、
世界最大の重水製造工場である
ノルスク・ハイドロ電気化学工場を占領することができた。
これによって、
中性子減速材の重水を取得することが可能になった。
 
 
 
 
 
アドルフ・ヒトラー総統を始め、
ナチス・ドイツ指導者層からは、研究はほとんど理解されず、
教育科学省からの資金の援助もなかった。
 
しかし、アルベルト・シュペーア軍需大臣は、
フリードリヒ・フロム大将が、
新兵器が開発されない限り、
ドイツが戦争に勝つ見込みがないと言った言葉に共鳴した。
 
そして、科学者らを集めて、
ナチスの政府高官たちに最初の講演を開いた。
その時、ハイゼンベルクが
原子核破壊とウランとサイクロトロン開発に関して報告した。
アメリカが核開発で政府からの資金提供が豊富であることを述べ、
ドイツでは教育科学省の理解が乏しいので、
資金と資材が不足している上に、
科学者が軍に招集されて不足している状況を訴えた。
アメリカの核開発がドイツより先行している事実を述べた。
 
講演後に、シュペーアが
ハイゼンベルクに原子爆弾の開発は
何年後に可能かと質問した。
 
 
 
ハイゼンベルクの答えは、
原爆製造の理論には何の障害もなく、
生産技術への援助があれば、
2年以内に可能であると答えた。
 
 
 
6月23日、
シュペーアはヒトラー総統に報告したが、
「ユダヤ的物理学」として、ヒトラーは関心を示さなかった。
 
1943年2月23日、
ノルスク・ハイドロの重水工場が、
6人のノルウェー人の決死隊により、爆破されてしまった。
これにより、重水が入手困難になった。
また、戦況の切迫から、
6週間以内に実践に使用できる兵器以外の研究を
ヒトラーが許さなかったため、
シュペーアは第二次世界大戦中に製造が間に合わないと
予想された原子爆弾の開発中止を決定した。
 
 
 
 
 
 
 
ドイツは、
原子爆弾の開発には多大な資材と予算を浪費する為に、
連合国側によって
原爆が作られる可能性は余り高くないと判断していた。
 
100名に満たない科学者と技術者が、原子炉の開発を始めた。
戦争終結まで、1,000万ドルの予算を消費した。
 
1944年11月15日、
連合軍のバッシュ中佐が指揮するアルソス・ミッションは、
原子爆弾開発の重要人物フォン・ヴァイツゼッカー博士を捕らえて、
原爆開発の全貌を知るために、シュトラスブルクに侵攻した。
 
シュトラスブルク病院の一角にあった原子物理研究所を発見して、
数名の物理学者を捕虜にした。
 
部隊の一員オランダの物理学者サミュエル・ゴーズミット博士らが、
ヴァイゼッカーの研究室で
ドイツの原子爆弾開発計画の貴重な資料を発見した。
 
それにより、
ヒトラーは1942年に原爆の可能性について報告を受けていたが、
1944年後半には原子力開発はまだ実験段階にあり、
原爆製造の考えを放棄していたという事実が知られた。
 
連合軍は、これまでアメリカの原子爆弾開発を、
政治的に、軍事的に、道徳的に正当化して、
原爆製造と投下計画に駆り立てていた
ドイツの原爆の脅威が幻影であることを知った。
 
~ドイツ原子爆弾開発の妨害活動~
≪フレッシュマン作戦≫
1942年11月19日に
イギリスのMI6部長スチュワート・メンジーズが主導した作戦。

善意のドイツ人科学者と名乗るものから
の小包で送られた情報(オスロレポート)により
ドイツの原子爆弾研究がかなり進んでいることがわかり、
また当時の状況からその信憑性もかなり高かったため
それを阻止すべくノルスク・ハイドロの破壊を計画した。
作戦は地形的に空軍による爆撃が困難なため
グライダー搭乗員による襲撃隊を送り
地上攻撃で破壊を予定した。
しかし天候不良や不運が重なり全滅し、失敗した。
 
≪ガンナーサイド作戦≫
1943年2月16日から28日にかけて
イギリスの特殊作戦執行部(SOE)ノルウェー担当部長
ジャック・ウィルソン大佐が主導した作戦。

ノルウェー軍に所属する秘密工作員のみで編成され
小規模な潜入班を現地に送った。
彼らはノルスク・ハイドロ電気化学工場へ侵入し
目標である重水精製装置と重水タンクの爆破に成功する。
ハイドロ号爆破作戦≫
しかし
2年はかかると思われた復旧が4月までに終わり
重水の生産が再開された。
再びイギリスは
1944年2月19日に、
生産された重水を乗せた連絡船ハイドロ号を爆破し
(⇒「一般客船」であった為、多数の一般乗客も犠牲になった。)
湖水に沈めてドイツの原子爆弾開発を完全に阻止した。

この一連の作戦は
【テレマークの要塞(1965/英米)】として
映画化されている。
 

 

 

 

 

 
また近年、
ノルウェー本国で長編TVドラマ化されている。
 
 

 

ノルスク・ハイドロ重水工場破壊工作は、
第二次世界大戦中ノルウェーの破壊工作者が、
核兵器の開発に利用できる重水を
ドイツの原子爆弾開発計画が入手するのを阻止するために
起こした一連の破壊工作である。
1934年にノルウェーの企業ノルスク・ハイドロが
ヴェモルクに、
肥料生産の副産物として
世界で初めて重水を商業的に生産できる工場を建設した。
第二次世界大戦中、
連合国はナチス・ドイツの核兵器開発を阻止するために、
重水工場を破壊して重水の供給を絶つことを決定した。
テレマルク県のリューカンの滝にある、
60 MWのヴェモルク水力発電所が攻撃目標となった。
ドイツのノルウェー侵攻より前の1940年4月9日に、
フランスの諜報機関参謀本部第2局が、
当時はまだ中立国であったノルウェーの
ヴェモルクの工場から185 kgの重水を撤去した。
工場の管理者であったAubertは、
戦争の期間中この重水をフランスに貸し出すことに同意した。
フランス人らは重水を
秘密裏にオスロとスコットランドのパースを経由して
フランスへと運び込んだ。
工場は重水の生産能力を持ったまま残された。
連合軍はなお、
占領軍がこの工場を利用して
兵器開発計画のための重水をさらに生産することを心配していた。
1940年から1944年にかけて、
ノルウェーの抵抗活動による破壊活動と、
連合軍の空襲により、
工場の破壊と生産された重水の損失を確実なものとした。
これらの作戦は、
「グルース」(「ライチョウ」)、
「フレッシュマン」(「新人」)、
「ガンナーサイド」(イングランドの村)
とコードネームが付けられ、
最終的に1943年初頭に工場を操業停止に追い込んだ。
グルース作戦では、
イギリス特殊作戦執行部(SOE)が、
工場の上にあるハダンゲルヴィッダ)の地域に
先発隊として4人のノルウェー人を送り込むことに成功した。
後に1942年に、
イギリスの空挺部隊によりフレッシュマン作戦が実行されたが、
失敗に終わった。
彼らはグルース作戦で送り込まれたノルウェー人たちと合流し、
ヴェモルクへと向かう予定となっていた。
しかしこれは、
軍用グライダーがそれを牽引していた
ハンドレページ ハリファックス爆撃機とともに
目的地手前で墜落したために失敗した。
他のハリファックスは基地に帰還したが、
それ以外のすべての参加者たちは墜落の際に死亡するか捕えられ、
ゲシュタポにより尋問され、処刑された。
1943年に、
イギリス特殊作戦執行部が訓練した
ノルウェー人の特殊部隊が2回目の作戦「ガンナーサイド作戦」で
重水工場を破壊することに成功した。
ガンナーサイド作戦は後に、
イギリス特殊作戦執行部から
第二次世界大戦でもっとも成功した破壊工作であると評価された。
こうした破壊工作に加えて、連合軍の空襲も行われた。
ドイツは工場の操業中止を決め、
残りの重水をドイツに輸送することにした。
ノルウェーの抵抗活動は、
ティン湖において鉄道連絡船「ハイドロ(英語版)」を沈め、
重水の輸送を阻止した。
 
~第二次世界大戦後の状況~
第二次世界大戦後のドイツは、
原子爆弾・水素爆弾などの核爆弾を含む
核兵器を保有していない。
 
~1960年代の核保有検討~
2010年10月3日放映のNHKスペシャル
「核を求めた日本」では、
日本の元外務事務次官村田良平(2010年3月死去)
の証言をもとに、
核拡散防止条約調印後の1969年に、
日本の外務省高官が
西ドイツ外務省の関係者
(当時、分析課長の岡崎久彦、国際資料室の鈴木孝、
調査課長の村田良平と政策企画部長のエゴン・バール、
参事官のペア・フィッシャーとクラウス・ブレヒ)
らを箱根に招いて、
核保有の可能性を探る会合を持っていた事実を
明らかにした。

 

 

 

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