ブログネタ:この場を借りて、「ざんげ」したいことは?
参加中正直懺悔したい事は山ほどある。
じゃなきゃ、自分で自分を追い詰めちゃうからさ。
All About 「話し方・伝え方」お詫びで心をつかむ法
ブログネタ:この場を借りて、「ざんげ」したいことは?
参加中皆で輪になり赤い風船を飛ばす。
ふわふわと登っていく沢山の風船達は、ひと時の和みを提供する。
風船を飛ばした後画面の中の小さな分身達は、本体の心の一部を
代弁する。
“日本は大丈夫” と。
そして “普通が一番” だと。
自分は、大丈夫という言葉が好きだ。
『がんばれ』 や 『がんばろう』 は一見励ましの言葉だが、それを言われ
ると、気弱な自分は少々プレッシャーを感じてしまうのだ。
心に元気がなかったりすると、
『自分は頑張りが足りないのだ、もっともっと頑張って努力して耐えなけれ
ばいけないのだ。』
などと、自分で自分をどんどん追い詰めていってしまう。
ちなみに 『負けるな』 という言葉は、自分の弱い心を指摘されているような
心地になってしまう。
「おまえは、心が弱いからこんな事に負けそうになるのだ」 と。
心が強い人達にとっては、『がんばれ、がんばろう』 もいいのかもしれない。
しかし残念ながらこの世の中は、心の強い人間ばかりではない。
かく言う自分も弱い心の持ち主なのだが。
そんな自分は、“大丈夫”という言葉に “安らぎ” の雰囲気を感じ、そして
惹かれる。何かを許される心地がする。
これ以上無理をしなくてもいい。今の自分でもいいのだと。
このような場での “大丈夫” には、様々な意味や思いが含まれるだろう。
【みなで一緒に協力しあい、支え合って進んでいくのだ。だからどんな事が
あっても、大丈夫なんとかなるのだ。】
と、解釈したくなる。これは自分の甘えなのだろうか・・・。
よく考えてみれば、【がんばれ・がんばろう・まけるな】も同じようなニュアンス
で、みんな使っているのだと解釈出来るのだが。
それからもう一つ。
“普通” という言葉。
普通の定義は人それぞれだと感じる。
自分自身の経験や生い立ち生活環境等も、“普通”の概念を形成する上で
重要な要素となるだろう。
だから “普通” の基準は人それぞれではないのか。
ここで皆が言っていた“普通が一番” という言葉には、どのような思いが
込められているのか。
被災して、今も辛い状況におかれている人達は、沢山いる。
その人達が早く心穏やかに過ごせる日が来るように願う。
そして穏やかな心になった時、自然に笑い語り合う事が出来るようになる
だろう。
そのような状態を、ここでは “普通” と言っているのではないのか。
『早くそんな日を迎えたいね。そうなるように、皆で協力し合おうね。
そんな“普通”と思える事が、本当は一番幸せな事なんだよね。』
そんな思いが込められた言葉、それがきっと “普通が一番” なのだ。
自分は今までの人生の中で、そこそこいろいろな “もの” を失ってきた。
まあ、人間数十年も生きていれば、何かしら失うという事は避けられない
ものだが。
“何かを失う前の自分” が “普通” と感じていた状況。
“失った後の自分” は、それがとても恵まれた状況だったと理解するのだ。
現在自分が置かれている状況が、今の自分にとっての “普通”
こんな事を言ったら、「向上心の無い奴だ」と笑われるだろうか。
長い月日を経て心の落ち着きを取り戻し、自分の状況を受け入れた
時、無理をせず “普通に” 笑う事が出来るのかもしれない。
言葉を選択するというのはとても難しい作業だと、ブログで自分の文章を
公開するようになってから、ひしひしと痛感するようになった。
自分が選択し使った、数文字の言葉。
そしてその言葉に込めた自分の真意。
それが、相手の受け取り方や心理状態次第で、間逆の意味に受け取られ
かねない。
便利なのに複雑で、まさに “諸刃の剣” それが言葉の正体なのかもしれ
ない。
【補足】
少々東日本大震災というテーマから脱線してしまった感があります。
しかしこの文章を書いた時期に、とても考えさせられる出来事に遭遇し、
“言葉” について自分の考えを書きたくなりました。
自分自身ピグで遊ぶ事を覚えてからずっと感じている事があります。
それは、“極端に表情の少ないピグ” と “長々と文章を書く事の出来ない
チャット“ を通じて、相手の気持ちを害する事の無い表現をする。
それがとても難しいという事。
ある程度交流があって、互いに悪くない印象を持っていれば、多少言葉
が足りなくても悪い方向に受け取られる事は少ないでしょう。
しかし、そうでない場合には・・・。
また、このバーチャル世界の中において、自分の “全て” をさらけ出せる
人など、どれだけいるでしょうか。
自分自身も、かなり秘密扱いにしている部分があるわけで。
このピグ達の交流において、先に述べたような悪い面があるのは事実
ですが、自分が知られたくない部分を大勢の目に晒す事無く、気楽に
交流出来るというのは、ある意味で良い面と捉える事も出来るのでは
ないでしょうか。
そのおかげで、普段自分が隠している一面も垣間見せたりという事も
ありますし。
それがまた、更に交流を楽しくする事も。
ただ、勘違いしてはいけない事が。
本体の正体がばれないからといって、何をやっても何を言っても良い
と思ってはいけないという事。
特に、言葉やピグの行動によって、相手を追い詰めたり傷つけたり等の
行為は、正直腹立たしいものがあります。
ピグという分身の向こう側にいる人間の心を思い、自分の分身にも愛着を
もって、このバーチャル世界で楽しく交流したいと考えています。
告知の場所に行ってみる。
“ひまぐま”さんという方が、一人一人に丁寧な挨拶をしていた。
自分も挨拶・・・というか、チャットに不慣れな自分は、ひたすらお辞儀
をしていたが。
『まるで米つきバッタだな。』自分の分身ながら、情けない・・・といっても
その行動をさせているのは自分なのだが。
「風船を飛ばすと聞いて来てみた」 と分身に言わせる。
広場にある “赤い風船募金” の風船を、皆で輪になって飛ばすのだ
そうだ。
『そうか、この広場で売られている風船は、募金用の風船だったのか。』
一人納得。
しかし、“アメG” とかいうものを持っていな自分には、風船を購入する
事が出来ない。
恥ずかしながら、それを分身に言わせる。
「風船を持っていなくても、どうぞ一緒に参加してくださいね。」
よかった。自分はここにいても良いらしい。
切り株やベンチに分身を座らせ、ボーっと画面を眺めていた。
その場に集まる人達の年齢は様々だろう。
ピグの行動やチャットの内容から考えて、ここに集まってくる人達には、
他の場所でよく目にするような “悪意” が感じられなかった。
その場所に集まる目的から考えて、悪意を持った人間が来るとも
思えないが。
そんな画面の中、リアルの人間達に代わって動き回る沢山の分身達
を眺めていると、何故か“ほんわか”として心地よく思える。
『これは現実逃避か?』
告知の時間になった。何が始まるのかな。
見ていると、画面の中の小さな分身達は、人文字の方法で“輪”をつくり
はじめる。
一人一人が微調整しながら綺麗に円を描いていくのだ。
時には互いに場所を譲り合い、離れたところにポツンと立っている者には
「いっしょに輪にはいりませんか?」などと言葉をかけあいながら。
なんだかいい雰囲気だ。
自分もその輪の中にはまってみる。
結構分身の立ち位置の微調整は難しい。
必要以上にうろうろと彷徨っている自分に、近くにいたピグが 「OK」 を
出してくれた。
『ふぅ。』 やっとのことで落ち着く自分の分身。
さてこれから何が始まるのか。
ブログネタ:ドレッシングは何がいい?
参加中私はシーザー 派!
今日も自分のピグはPC画面の中を放浪していた。
沢山のピグがいる場所で、放置。あ、座りこんだ。・・・寝た。
画面の中で動き回るピグ達を見ていると、ケンカを始める者もいる。
なんとも、口汚く罵り合っていた。
言葉づかいから推測して、多分子供同士なのだろう。
そのような光景は、ここでは珍しくないようだ。
突然近寄ってきたピグに、「いくつ?」と尋ねられた。
『げっ・・・。この場合、なんて答えたらいいんだ?』
なんだか無視するのも可哀相だと思い、
「大人だよ。」などと、ぼんやりとした答えでごまかそうとするが、
通用しなかった。
「だから、なんさい?」再び問いかけられる。
『う~ん、困った。』
このような場で自分の本当の年齢など暴露したくはない。
ひたすら言葉を濁して 「けっこういいとし」 とか言ってみる。
相手は、それに対して何も言わずに逃げて行った。
後に残された自分は、かなり複雑な気分である。
この時は、いい歳をした大人がこのような遊びをする事に対して、多少の
後ろめたさを感じていたから、尚更だ。
たのむから、ちょっとくらい反応を返してくれ。
出来れば、自分のデリケートな心にグサッと来ないやつを。
広場の真ん中付近で、
「情報交換広場の宮城で○○時に風船を飛ばします。」
と言っているのが目に付いた。
詳しい事は解らないが、それがやけに興味をそそる。
時間になったら行ってみよう。
この広場では募金用の赤い風船が売っていた。
アメGとかいうもので購入するらしいが、あいにく自分にはアメGなどない。
現時点では、“アメ” と “アメG” の違いすら理解していないのだ。
要するに“アメ” ≒ “アメG”くらいの認識である。
うーん、前途多難だな。