正保書上五十四城の一で、「古城之覚」は久米北郡坪井中北村の「岩屋山之城」とする。「作陽誌」は「岩屋城」として、中北上村にあり、麓から頂きに至る八町余りと記す。「美作鬢鏡」は「岩屋城」として城主不詳、「美作鏡」は城主を「大河原大和守」「天正九、浜口淡路守家職」とする。天保国絵図に「岩屋古城跡」とある。『日本城郭全集』は本丸のあった頂上をはじめ、すぐ下の二の丸、三の丸の跡にも雑木や熊笹が茂り、頂上から五、六m南側下に古井戸があり、土地の人は「城のいのち水」と伝えるとする。
嘉吉元年(1441)、山名教清が美作国に封ぜられた際に初めて築城され、応仁年中(1467~69)に山名勢を逐った赤松政則が、後藤・大河原・小瀬・中村氏らを「国留守」として岩屋城に置いたという(作陽誌)。永正十七年(1520)三月、備前国の浦上村宗が岩屋城にあった小寺・大河原氏を破り中村則久に守らせたところ、七月には播磨国の赤松義村は則久を討つべく小寺藤三・大弾正を美作国に送り、対して則久は館から退き岩屋城へ籠城、十月には浦上村宗は中村氏の後詰のため美作国に入り「岩山」の南に布陣、将の宇喜多能家の勝利により攻城側の敵軍は潰滅、因幡・伯耆国に敗走し、村宗は小寺加賀守をはじめ数百人を斬首し三石に帰陣したとある(「大山寺文書」「古代取集記録」「宇喜多能家寿像画賛」「作陽誌」)。天文九年(1540)十一月十三日には「岩屋山下」で合戦があり、三浦次郎が南条治部らを討ち取っている(岩見牧文書)。その後岩屋城に直接関わる史料は途絶えるものの、高田城(真庭市勝山)の城主三浦貞久の弟貞尚が岩屋城主となったといい、同時代史料にも尼子氏縁戚の大河原貞尚として現れることから、貞尚は尼子方として天文末年以降しばらく当城にあったと考えられる。
ところが美作国からの出雲尼子氏の勢力退潮によって、当城の城主も大河原氏から中村氏に変わったようで、さらに永禄五年(1562)以降、備前国から浦上宗景の侵攻を招くこととなった。美作国内の主体勢力は毛利氏を頼り一度は浦上勢を同国東部へと押し戻したが、同八年に再び宗景の侵攻を受け、浦上勢は院庄を経て次第に国の西部へと及び、国内勢は岩屋城で抵抗するに至った。そして同九年頃から岩屋衆は西進して神上城(真庭市樫東)、さらに同十年七月には篠向城(同市三崎・大庭)麓に出勢、「神森」で高田三浦氏の家中中山三郎兵衛や牧兵庫助、岩佐勘解由らと交戦している(「牧兵庫助覚書」「美作国諸家感状記」「作陽誌」)。しかし城主の中村則治は宇喜多直家の調略で家臣の「芦田備後介秀家」らに殺害され、秀家は直家のもとに出奔したという(作陽誌)。この年とみられる十一月、浦上宗景の家老岡本氏秀は、岩屋城の降参について「然るべし」と報じている(「美作総社文書」)。その後「大河原大和守」なる人物が城主となったが、同十一年三月十一日にまたも家臣の「芦田備後守」に殺害されたといい、備後守は毛利氏から岩屋城を預かりその城主となったとされる(「岩屋古城覚」「少林寺加古帳」など)。まもなく秀家は、直家の家老富川秀安らによりその凶悪を憎まれ謀殺されたといい、元亀二年(1571)以降、芦田秀家の跡職は芦田正家という人物が継いだ。しかし天正二年(1574)三月、おそらく宇喜多氏と浦上氏の対立を背景に、岩屋城は宇喜多方の荒神山城(津山市種)の城主花房職秀と稲荷山城(美咲町原田・西幸)の城主原田貞佐の攻撃を受け、一日で落城、芦田氏の一族も攻め崩されたという(「美作国諸家感状記」「武家聞伝記」「岩屋古城覚」など)。
芦田氏の跡には直家の叔母聟という「浜口淡路守」「家職」が城主となったという。同七年の宇喜多氏と毛利氏の対立にあたっては直家の家老長船貞親が籠められ防戦したものの、同九年六月、岩屋城を囲んだ葛下城(鏡野町山城・中谷)の城主中村頼宗が、西浦城(同町養野)の城主大原主計に二十四、五から四十歳までの侍三十二人を添え、同月二十五日、風雨に乗じて夜討ちし岩屋城を落城させ家職は逃走、毛利輝元は中村頼宗に在城を命じたという(「閥閲録」「藩中諸家古文書纂」「美作立石家文書」「武家聞伝記」「美作国諸家感状記」「美作宮川家文書」「東作誌」「拾遺感状録」「山田家古文書」「吉川家中并寺社文書」「岩屋古城覚」「作陽誌」)。そして同十二年正月、安国寺恵慶は児玉元良らに対し、「高田・岩屋・宮山・高仙」の城へ国元からも退去を言い聞かせるように要請している(「毛利家文書」)。しかし頼宗は退去を拒否したらしく、同年三月から宇喜多勢による攻城が始められた。四月二日には「石蕨尾首」で双方が交戦、五月十九日には籠城勢が「岩屋城尾首」の「江原陣」を攻撃している(「美作立石家文書」「美作宮川家文書」「美作国諸家感状記」)。この時であろうか、中島本政は江原兵庫助の陣所にあって、先駆けして討死した瀬島宗四郎の首取りを防ぎ、岩屋城兵の伏兵を突き崩したという(「中島本政覚書」)。六月十日にも籠城勢が石蕨尾首へと出勢している(「美作感状記」)。また「岡豊前・長舟越中」らが大勢、城の「壁際」まで取り詰めた時、牧左馬助は城内から立ち向かってきた坂手勘之丞を討ち取り、褒美として感状を宇喜多秀家から与えられたという(「牧左馬助覚書」)。その後、備後国の鞆(広島県尾道市)にあった足利義昭の仲裁により七月十八日に開城となり、城には宇喜多方の長船貞親が入った。貞親は配下の侍十八人に所領を分配したが、同十八年三日、城は廃城となり、焼き尽くされたという(「岩屋古城覚」など)。
椿ヶ峪砦(南東十六郭)
南東十五郭
南東十五郭の西登り土塁
石橋上砦(南東十四郭)
南東十三郭
南東十三郭の南東石塁
南東十三郭の西土塁
図に無い南東十二郭と南東十三郭間の堀切
南東十二郭
南十一郭
南西十二郭
南西十二郭と南西十三郭間の堀切
南西十三郭
南西十四郭
南西十五郭
南西十五郭と南西十六郭間の堀切
南西十六郭
南西十七郭
南西端の南西堀切
戻って南十郭
南九郭
南八郭