勝山城 旧真庭郡勝山町 | 山城攻略日記

山城攻略日記

北海道から沖縄まで、日本全国の有名所の城を旅し…
現在は地元・鳥取を中心とした城巡りの日々(^-^)/

勝山城(真庭市勝山)

天保書上五四城の一で、「古城之覚」は真島郡高田村の「高田山」として、城主を三浦駿河守貞連とし、「後太平記」を引いて永禄末期の高田城を巡る交戦に触れるなどしている。「作陽誌」は「大総山」(おおつぶさやま)として、本城を如意山、山へは一二○間、周り一六町、その南は「二廓」で勝山といい、合わせて大総山城と記す。天保国絵図に「勝山城」とある。「美作鏡」は「勝山城」とし、『真庭郡誌』は、勝山城(高田城・大総山城)として現在、大佐分利・小佐分利といい城山と総称、一名を津府山・大顆山とする。
高田城の城主は三浦貞連に始まり、子の貞国、孫の貞久と代々継続したとされる(「作州高田城主覚書」)。享禄五年(1532)、尼子氏は美作国への侵攻にあたり、備中国の新見氏を高田城の在番としており(東寺百合文書)、また天文十三年(1544)十一月、尼子国久・誠久・敬久父子は備後国を経て美作国に討ち入り、浦上氏が軍勢を籠める「高田」など三ヶ城を落とし、出雲国に帰陣したとされる(「安西軍策」)。同十七年九月に城主の三浦貞久が籠城のなか病死したのち、城には尼子氏の家臣宇山飛騨守が在城したとされる(「作州高田城主覚書」「作陽誌」)。永禄二年(1559)二月、貞久の弟貞勝を擁立した牧河内らは合戦のすえ、宇山氏を駆逐、貞勝が高田城に入ったが、同七年(八年とも)十二月、家臣の金田氏によって自刃した。まもなく牧氏は貞広・貞勝の「祖父」とされる三浦貞守を擁立、高田城へ戻ったといい、貞広も永禄八年の九月には高田城へ回復した(「作州高田城主覚書」、岩見牧文書、美作美甘文書など)。
しかし同十一年二月、毛利氏に対して反抗した「三浦衆」らが「高田表」で討ち果たされ、同月十九日には毛利方の長・香川・宍道氏は謀って三浦貞守に切腹させたとされ、以降、毛利方の兵が在番した。難から逃れた牧氏は翌同十二年に三浦貞広を擁立し、十月には高田城を攻撃し回復、貞広は入城を果たしたとある。しかし天正二年(1574)以降、三浦氏は宇喜多方の侵攻を受け、さらに翌同三年以降の毛利勢の攻囲に九月十一日、貞広は宇喜多直家の仲介により下城、高田城は落去し、城には毛利方の楢崎元兼が入城したとされる(「吉川家中并寺社文書」、香川家文書、「閥閲録」、「作州高田城主覚書」、「作陽誌」)。以降、毛利方の拠点として推移し、毛利氏と羽柴氏の和睦ののち同十二年正月、安国寺恵瓊は児玉元良らに対し、「高田・岩屋・宮山・高仙」の城へ国元からも退去を言い聞かせるように要請している(毛利家文書)。
楢崎元兼が退去した跡には、牧藤左衛門を始めとした三浦氏旧臣が在番しまが、まもなく服部隠岐守も交代となったといい、篠向城(真庭市三崎・大庭)の城主江原親次の家臣中島本政は走者を討った功により「高田城主服部隠岐」から脇差を与えられたという(高田城主覚書、美作勇山寺文書、美作岡田家文書、中島本政覚書)。
一説には宇喜多氏の家臣不破内匠が城を抱えたともいう(「武家聞伝記」)。また慶長三年(1598)九月に戸川達安は宇喜多秀家から「山内・高田近辺」五千百石を預け置かれ、達安組の岡市丞も同年に「高田城領」として千石を加増されている(秋元興朝所蔵文書「宇喜多秀家家士帳」)。同五年八月、関ヶ原合戦に先立ち、宇喜多秀家は領国内の城の在番に対し人質の差出を求めており、その内に「高田中務」として小瀬中務がみえる(新出沼元家文書)。
宇喜多氏の没後、慶長六年(1601)からは小早川秀秋の陪臣木下斎之助が城を抱えたという。慶長八年からは各務四郎兵衛が、同十四年春以降は大塚丹後とその子息が五代、相次いで城を抱えたという(「武家聞伝記」)。
(※美作国の山城より)
南西畝状竪堀群を南より



小屋の段西帯曲輪
小屋の段

西帯曲輪南上段
西帯曲輪北下段
北西七郭
北西八郭
北西九郭
北西十郭
戻って北西六郭西帯曲輪
北西六郭
北西五郭西帯曲輪
北西五郭
北西四郭
西三郭
西二郭
帯曲輪状の北二郭
帯曲輪状の北三郭
東二郭からの主郭南帯曲輪
東二郭
主郭南東腰曲輪
主郭
南二郭
南三郭
南四郭
東二郭南東帯曲輪
北東三郭
北東四郭
北東五郭
北東五郭と北東六郭間の堀切
堀切からの北竪堀
北東六郭
北東堀切
北東堀切からの北竪堀
北東七郭
北東七郭東帯曲輪
北東八郭
北東大堀切
北東大堀切からの北竪堀
北東大堀切からの南竪堀
北東九郭
上がって北東十郭
南五郭(二の丸)

太鼓丸曲輪群東六郭
太鼓丸曲輪群東六郭東腰曲輪
太鼓丸曲輪群東七郭
東七郭付け根辺りの堀切
東七郭と東八郭間の堀切
太鼓丸曲輪群東八郭
太鼓丸曲輪群東九郭
太鼓丸曲輪群東十郭
東十郭と東十一郭間の堀切
太鼓丸曲輪群北東十一郭
北東十一郭北帯曲輪
方向を変え、南東大堀切
南東大堀切からの南西竪堀
南東大堀切からの北東竪堀
南堀切
南堀切からの南竪堀
太鼓丸曲輪群南東三郭
南東三郭よカンカン井戸
東大竪堀
太鼓丸曲輪群東四郭
太鼓丸曲輪群東五郭
太鼓丸曲輪群南東二郭
太鼓丸曲輪群主郭
主郭東腰曲輪
太鼓丸曲輪群西二郭
太鼓丸曲輪群南西三郭
太鼓丸曲輪群南西四郭
太鼓丸曲輪群南西五郭
北二重堀切(南)
太鼓丸曲輪群北二郭
北二重堀切(北)
太鼓丸曲輪群北三郭

勝山城遠望
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