「作陽誌」は「高山堡」として、大庭郡余野上村にあり、高さ七町、昔、水沢為虎が築城、東は播磨国、北は伯耆国、南は備前国が見え、上河内東谷村との境で小道が頂上を通じると記す。「天保国絵図」に「高山」と山名がみえ、「美作鏡」は「高仙城」とする。
天正八年(1580)十一月四日、毛利輝元は高田(真庭市勝山)から二山城(真庭市余野下)近辺まで出張・出陣し、所々の山見などを命じ、十七日には小早川隆景に「高仙」の普請を命じ、隆景は二十三日までには普請を終わらせており、三沢氏を「城督」にするとしている(「閥閲録」)。同十二年正月、安国寺恵慶は児玉元良らに対し、「高田・岩屋・宮山・高仙」の城へ国元からも退去を言い聞かせるように要請している(毛利家文書)。
(※美作国の山城より)
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