彼は私をこの建物の中に案内すると、あるスペースを指さして「あれだよあれ」と嬉しそうに呟きます。どういう事であろうか、と疑問に思いつつその指差した先を見ると、そこには小さなゲームコーナーがありました。現在では殆ど見る機会の無くなったテーブル型のゲーム筐体が数台並んでいます。この場所は建物の2階であったか3階であったか記憶が定かではありませんが、階段の踊り場近くで周囲の売り場スペースの中でも一番角の奥まった場所にあり、しかも周囲から丁度良い感じに目隠し状態になるような引っ込んだ形のスペースにありました。もしかすればゲームの音が他の売り場スペースに響くのを嫌ったのかもしれません。
私はポケットの中にあった残り少ない小銭を取り出しゲームに使おうか、それとも傍らにある販売機からジュースを買おうか思案していました。すると彼は「ジュースの方を買えよ、ゲームの方は心配するな」と言いながら、ある筐体の前に腰掛けました。今でもよく覚えていますが、それは「Mr. Do!」というタイトルのゲームで、ナムコというゲームメーカー出した大人気ゲーム「ディグダグ」のパクリの様な内容のものでした。
言われるままに私が販売機でジュースを買い、ついでにトイレにも行って戻ってくると、なんとゲーム画面のクレジット表示(コインの投入回数=可能なプレイ回数)が確か数30回分くらいになっていました。
「随分カネ突っ込んだな」
思わず私はそのように呟きました。『彼』は得意満面といった感じでただ笑っています。今になって思い返してみると、彼はゲーム機にお金を入れず、不正をしていたのかもしれません。記憶がボンヤリしていて細部まで思い出せませんが、あんまりお金を持っているようには見えなかった。
今回のこのお話の舞台となる80年代中盤よりももう少し昔、70年代後半にスペースインベーダーというゲームが国内外で大ヒットいたしました。このゲームのヒットによって日本のゲーム市場は大きな進化を果たしましたが、その副産物的な問題も発生します。その一つがお金を払わずにゲームを不正にプレイしようとする者達の大量発生でありました。例としては、コイン投入口に100円玉ではなく5円玉を入れたり、先を投げ輪のように丸く曲げた針金を入れてみたり、というものです。
しかし筐体を作っているメーカーもバカではありませんから、すぐに不正対策を施した筐体を開発します。とはいえ、それをもって日本中の全てのゲーム筐体がいっぺんに『不正対策済み』の筐体に入れ替わる訳もなく、そこから数年間は日本中のそっちこっちに不正対策の施されていない旧式の筐体が残っていました。今思えば『彼』はそれを目ざとくも見つけていたのかもしれません。
いずれにせよ、プレイ可能なゲーム機が目の前にあるのに遊ばない手はありません。片方がゲームオーバーになれば交代してプレイする。その繰り返しです。当時は任天堂が家庭用ゲーム機のファミリーコンピューターを販売、大ヒットを飛ばしているところでしたが、私の家でこれを購入するのはまだ多少先の話になります。この頃の私にとって、家庭用ゲーム機にせよゲームセンターに設置されるアーケードゲームにせよ、こういったビデオゲームは大好きではあったものの、滅多にプレイできない高嶺の花のような存在でした。
正直に言いましょう。この時に私は数年ぶりに心の底から大きな声を出して笑っていました。この狭いスペースにいるのは私と『彼』のみ。厳しく監視してガミガミネチネチと叱り飛ばしたり『ご高説』を説いてくる嫌な大人達は一人もいません。目の前には普段であれば金額が高過ぎて滅多に遊べない筈のアーケードゲーム機が、大量のクレジットを蓄えた状態で待ち構えていて思う存分遊べる。
フッと視線を上げると、いつの間にやら太陽はさらに大きく傾き、窓からは綺麗な夕日が斜めに差し込んでこのゲームコーナーの中を綺麗なオレンジ色に染めていました。怖ろしく透明感のある綺麗な光……。
(ああ、そういえば保育園に通っていた頃の自分には、目の前の風景がこんな風に鮮やかに見えた。しかし、なんとまあ綺麗なのだろうか)
数年ぶりに頭の中のボンヤリとした霞が取れ、何もかもがクリアで透明感を伴って見えます。いつも感じていた胸や腹の奥に重りが詰まっているような感覚もスッキリと取れていました。飲んでいるジュースの味も一段も二段も美味く感じられ、そしてこの世の何もかもが愉快にも感じられたのです。
もし当時の父や教師がこの事を知ったなら、私が見たこの一時の鬱状態からの解放も、そして鬱状態の原因たる息の詰まるような学校生活や家庭の問題も、恐らくですが尤もらしい理屈をつけて全否定した事でしょう。そもそも苦労に苦労を重ねて生きてきた父の中には「自分は散々苦労してきたのに鬱になんて罹患しなかった。ましてや自分ほどの苦労体験をしていない息子が何故鬱にかかる?」という意識が有ったようで、この後数十年経ち還暦を過ぎても尚、中々そういった考えから抜け出せませんでした。それに、そこら辺の意識は学校の教師も実は五十歩百歩だったと思います。
「意を酌むべき要素など何もない、子供が分不相応な自由を求めて暴走した単なる不良行為だ」と斬って捨てるのが関の山だったでしょうし、むしろ一時的とはいえ、そういったコチコチの堅苦しい道徳律を取り付く島もない勢いで理不尽に要求してくる大人達からの解放状態がとにかく愉快で仕方がなかったのです。
そういえば昔、尾崎豊が「校舎のガラスを割ってまわった」とか「盗んだバイクで走り出す」とか、そんな歌を歌っていましたが、当時の私は「自己陶酔的な不良の身勝手な歌だな、全然共感できないな」くらいの認識しか持っていませんでしたが、後年知る所によると、尾崎自体は不良的な自由に憧れつつも、遂にそれを果たせなかったエリート的な学校の生徒だったのだそうです。
尾崎豊はある意味私の抱えていたのモノとよく似た鬱屈を抱える少年であり青年だったのかもしれませんが、稀有な歌の才能を持っていた事が災いとなり、ついには自己破滅の道に進んでしまったという事でしょう。現に彼のファン層の多くは「行儀の良い子とは言えないものの、結局は本格的な不良にまでは至らず」、といえる人達が多かったという事です。尾崎は少年時代の鬱屈を歌に乗せて吐露し、これといった才能を持たぬ名も無き少年であった私は、ささやかな違反行為で憂さを晴らした格好になっていたわけです。
(そうだ!自分が欲していたのはこういう空間なのだ!これこそが心の、魂の自由だ!)
……確かにあの瞬間、そのように思えたのです。
そうこうしている内に日は更に傾き、いよいよ家路につく時間へとなってゆきます。たかだか一時間程度の夢の様な時間でありましたが、帰る際に自分の足取りが妙に軽く感じられたのを覚えています。しかしそれ以降、理由は覚えていませんが結局私は『彼』と二度とあのゲームコーナーに赴くことは有りませんでした。あれ一回キリです。そして中学校卒業と共にあの『色白で不貞腐れた顔の少年』との縁も完全に切れてしまいました。
それ以降私は再び頭の中に霞がかかり、片頭痛に苦しみ、世を恨みながら暮らす少年~青年に戻ってゆきますが、度々あの『解放の瞬間』を思い出して反芻を繰り返す日々に埋没してゆきます。今思い返してもまるで夢でも見ていたかのような感覚に見舞われますが、あれは間違いなく現実にあった事です。あの少年もビルも消え、盛岡市内の様相もこの30年ばかりで大きく変わりましたが、この思い出だけは私の中に一生残り続け、何度でも蘇ります。……私が生きている限りは。
1980年代の中頃、私は中学生になっていました。当時は自分自身が強い鬱傾向と生まれつきのADD/ADHD持ちの少年である自覚がまるで無い状態で、ただ何となく「苦しいなあ、怠いなあ」と思いながらもそれを口に出さず生活していました。そもそも鬱というものが私の家族や周囲の人間も含めて、どのような病気かも知らず殆ど関心も無かったですし、ましてや先天的な脳疾患の一種である注意欠陥多動症(ADHD)や注意欠陥症(ADD)などという、発達障害に分類される病気はまだ世間に全く知られていない時代です。私自身が注意欠陥症とそれに付随した鬱持ちである事が分かったのはほんの10年程前です。その時点で既に30代後半でした。
当時、発達障害は兎も角、仮に鬱である事に気づく事が出来て、キチンとした治療が出来ていれば果たしてどんな人生が待っていたのでしょうか……。まあ、覆水盆に返らず、終わった事を嘆いても仕方がありません。当時の社会全般の在り様がそうであったし、学校の教師もこういった問題への関心が無いか、或いは薄い人が大半の時代だったでしょう。両親は両親で『過去の負債』を返すべく働きづめで、そもそも子供の異常に関わる問題をジックリと建設的かつ文化的に考えるような「セレブな環境」にもありませんでした。そして、そんな大人たちに囲まれて生きてきた私自身もそこら辺の感覚は同様でありました。
この少年時代の私ときたら、集中力や全般的な学習能力の不全から勉学も振るわず、しかも運動も苦手、その上人付き合いも苦手、不安や恐怖に駆られて冷静さを失いやすく、何をやっても他人からはまるで奇行に走っているかの様にも見えたであろう、信じ難いような失敗の数々。しかし鬱や注意欠陥症由来の失敗や挫折を繰り返したところで、そもそもそういったものへの理解の無い時代でしたので、世間の人や家族からの「自分たちの方がもっと辛い思いをしてきた」あるいは「世の中にはもっと大変な境遇に置かれた人々がいる」という話で厳しく論難された上に相対化されるのがオチだったし、理解してもらえるのか怪しい弁明に明け暮れるのも馬鹿馬鹿しく億劫に感じていた私は必然的に人とのコミュニケーションを拒み、酷く世間を恨み、そして何よりも自己嫌悪の中を鬱々として暮らす少年になっていました。
そんな折、ある少年が私に声をかけてきました。彼はクラスメイトでしたが、同じクラスになってからも殆ど口もきいた事が無い人間で、何時もふて腐れたような態度で斜に構えたように過ごす少年でした。その瞬間「何で彼が自分に声をかけるのだ?」と多少戸惑ったものの、決して悪い気もしなかったのを覚えています。
パッと見た感じ、非常に色白な肌、若干だけれども栗色がかった髪の毛と瞳を持っていて、その仏頂面で時に挑発的にも見られがちな振る舞いは、学校内のいじめっ子グループに絡まれる原因ともなりがちで、現に気の強い他の男子生徒のグループから難癖をつけられ、殴られた上にポケットに納めていた物を取り上げられ、ふざけ半分に晒し者にされていた事がありました。(取り上げられたものが何だったのかはっきり覚えていませんが、学校への持ち込みが禁止されていたアイテムであったようです。)
しかし、その直後、彼は猛然とモノを奪った男子生徒に殴りかかったのです。明らかに喧嘩慣れしていない風な「へっぴり腰」で野放図に繰り出される彼のパンチはいとも容易く相手にかわされ、逆にカウンターパンチを食らっていました。彼も自分が殴り倒されるのは必然だとは理解していたでしょうが、しかし、理不尽に自らを侮辱した相手に黙っていられなかったのでしょう。
確か私の記憶では、ですが、この騒ぎに対する学校側の裁定は「理由はどうあれ挑発に乗って相手に殴り返し、事態を複雑にした方が悪いし、持ち込み禁止のアイテムを校内に持ち込んだ”色白の少年”の方が遥かに問題あり」といったもので、このもう一方の当事者たる「いじめっ子グループ」への素行に対する言及は殆ど無し、といった非常に不公平な内容だったと承知しています。あの”色白な少年”も無念だったでしょうし、私も見ていて納得がいかないものでした。まあ、学校のイジメに対する対応なんてのはこんなものです。だから現在に至るも、私は教育界における『イジメ対策』なんてものは原則、信用に値しないものだと考えています。
さて、これまで同じクラスになって数か月間、殆ど口を利いた事の無かった人物であったものの、話しかけられてきた事に関しては、率直に言って嬉しく感じていました。何故なら喧嘩も弱いし頭もそう良いわけでもなく、決して器用に人付き合いが出来そうなタイプにも見えない。しかしながら他人に対して安易に屈服して腹を見せる様な事をせず、仮に負け戦と理解しても尚、決して萎縮せずに相手に殴りかかってみせる彼の気性に、私はある種の好ましさを感じていたのです。「単に思慮が浅はかで感情のコントロールが出来ない馬鹿者だ」と斬って捨てるのは容易い。しかし、私は世の中を知ったような顔をして小賢しい処世術を滔々と語るような向きよりも、むしろ彼の方が遥かに信用できる人間の様に感じていたのです。
『彼』は学校帰りの放課後、現在は解体されて無くなった盛岡市内の某地方百貨店へと私を誘います。その前に彼は少しばかり自らの家に寄ってお金やらなにやらを持ち出し、くすんだ色のジャンパーとジーンズ姿に着替えると、早速とばかりにその「某百貨店」へと私を連れてゆきました。彼自信と自宅の様子をチラリと見ていて思ったのですが、家庭の生活水準は中の中から中の下といったところか。両親はどちらも仕事に忙しい方たちだったようで、ある程度の最低限のお小遣いを息子に渡して、ずっと働いて留守の事が多いようで、「決して非常に恵まれた家庭とは言えなそうだな」というのが率直な私の印象でした。
……何故に私は彼の「一緒に出かけて面白い事やらないか?」という誘いにアッサリ乗ったのでしょうか。そこには少々ワケがありました。端的に申し上げれば、あの当時、私はあまり家に帰りたくなかったのです。ちょっと長々しくなりますが、そこら辺の経緯を書いてみようと思います。
当時父は仙台に本社があるボイラー設備の会社に再就職を果たしていましたが、色々な事情で盛岡事務所の設立に時間がかかっており、最初の数年間は家にデスクを置いて自宅営業をしていました。母は家計を助ける為にパートに出ていて、何時も帰ってくるのは夕方の7時頃。一般的な家庭とは逆で母が家におらず、たまに営業に出かける事もあるものの、概ね父が一日中といっていい程家にいる状態だったわけです。
この頃は私も他の同級生同様に思春期を迎えていたわけで、当然小さな子供だった頃とは行動も色々と変わってきます。親の言いつけはいちいち聞かなくなり、行動は好き勝手なものになってゆきます。それから仲間の中にはマンガ、実写も分け隔てなくポルノコンテンツが矢鱈と好きな者がいて、彼からポルノ雑誌をよく貰っていましたし、飽くまで使う予定もない「オフザケ」ではありましたが、コンドームを貰ったりしていました。
しかし、そういうアイテムはどんなに上手に隠しても、私が学校に行っている間に自宅営業で在宅中の父がそれを探し出しては家で待ち構えていて、「これは何だ!」といった感じで酷く叱り飛ばしてくるのが常でした。父はこれまで見てきた息子が思春期を迎えて『これまでの息子と違う何か』に変化してゆく事に酷く動揺していたのだと思います。そして、しまいには机の裏や引き出しの中だけではなく、畳を引き剥がしてみたり天井裏を覗いて徹底的に粗探ししつつ監視するという、常軌を逸したような行動に出るようになったのです。
「煙草を吸っていないか、酒を飲んでいないか、勉強もせずにポルノにうつつを抜かしていないか。」そうやって大の男が息子の部屋をチョクチョク漁っては監視しているのです。当時の私にしてみれば非常に不気味で嫌悪感を感じさせられる行動でした。
見かねた母が私を擁護しても父は「子が道を踏み外さぬ様に親としての役割を果たしているだけだ」と言うばかりでしたが、半分以上は嘘だったように思います。息子が自分の思い通りにならない存在に変化してゆく事が受け入れられず、取り乱した挙句に強権的で常識外れな方法に走った、というのが本当のところでしょう。
父は、こういう部分で若干ですが性根の座っていない所がある人でした。そして仮に文句を言ったところで雷が落ちたような大声で「誰のお陰で学校に通えて飯も食えていると思っているんだ!スネ齧りが自分の権利を主張するなんておこがましい!」と古式ゆかしい『父親マウンティング』を食らってケチョンケチョンに懲らしめられるのがオチでしたので、怒りをこらえつつ黙って耐えるのが私の日常でした。
(……家に帰ってもあの親父がいる。なんだか憂鬱だな。あの緊張感を伴った空気の中に帰るのは正直億劫だな……)
こういった意識が私の中に有ったのです。だから、これといった交遊も殆ど無い筈の『彼』の誘いにアッサリ乗ってしまったのでした。当時の私にとって、学校も家も、息の詰まる場所でしかありませんでした。ただ一つ気に掛かったのは、「何故自分を誘ったのか?」という疑問でしたが、ついぞ聞く事が出来ませんでした。彼自身はその時上機嫌だったし、わざわざそれに水を差す様な問い掛けをしてみせるのも何となく野暮なように感じていたのです。
当時私が通っていた中学校は、生徒が親の同伴や学校からの特別な許可もなく単独で遠くに出かける事を原則的に校則で禁じていたし、ましてやデパートやゲームセンターのような遊戯施設に入っていた事がバレれば職員室に呼び出されて大目玉を食らうのは必至でした。そこら辺の校則は結構厳しめな学校だったのです。最悪、親も呼ばれて三者面談になる可能性も高かった。実は我々は結構リスキーな行動をしていたわけです。
しかし、『彼』はそんな事は意に介さぬ、といった風情でどんどん歩いてゆきます。そして、そのビルについたのは午後の4時ころでした。春が近づいてきてはいたものの、まだ若干肌寒い季節、傾きかかった太陽がそのビルと周囲の街並みを綺麗に照らしていたのを覚えています。
不道徳の中の解放感 其ノ四に続きます。
父が起こした会社の経営は大変でした。二次下請け、要するに孫請けの工場でしたので、大幅に上の会社にはピンハネされ買い叩かれる。一時は10人ほどの従業員を雇った事もありましたが、彼らの給与を払い、資材を仕入れ、諸々の経費を払えばトントンならまだマシで下手をすれば赤字。
小学生の頃にあるクラスメイトから「社長の息子だから楽な生活をしているだろう、毎日ご馳走を食べているんだろう」などと言われて酷く絡まれる事も何度か経験しましたが、実際のところ、私の眼には父親がサラリーマンをしている普通の家庭の子らの方が遥かに裕福だし、色々なものを買い与えられている様に見えました。
『経営者』と一言で言っても「濡れ手で粟」といった儲け方をして、真の意味で裕福な暮らしをする者もあれば、私の父が経営していた会社のように元請けから安く買い叩かれ、赤字スレスレの経営で貧乏暮らしを余儀なくされている経営者というものも存在します。雇っていた職人さん達を帰らせた後、夫婦二人だけで延々と溶接作業を行い、ノルマを果たした頃には夜が明けていた、なんて事もそれなりにあったようです。そういう意味では現在の不遇な状況に置かれているコンビニのオーナーにも似た所があるかもしれません。
経営の苦しさとプレッシャー、そして祖父母の生活を支える為の様々な出費。家庭の中には何時も何とも言えない苛立ちと緊張感が充満する事が多かった。父は夜中になると怒気を含んだ声で「子供らをサッサと寝かしつけろ!」と母に言う事があり、怯えた姉と私は飛び込むようにして布団に入ったものです。そして襖の向こうからは刺々しく苛ついた声で呟く父の愚痴を語る声が延々と聞こえてきたりしていました。時によっては更に声を荒げて夫婦喧嘩になる事も。
この時、特に母が不平不満を父にぶつけては喧嘩の元となっていたのは、会社の厳しい経営や重労働の問題よりも、祖父や祖母の問題でした。
祖父は祖父で前に書いた通り、我が儘で子供っぽいところのある人だったし、浪費の癖もある人でした。そういえばある日の事、お金が無くカツカツ状態で苦心している母にいきなり祖父が「ナメタガレイが食べたい」などと言いだした事があったそうです。
まあ、安くない魚です。母はこの祖父の無神経ぶりに驚きつつも、仕事の合間をみてカレイを買ってきて調理し、祖父の前に出しました。すると祖父は「これではダメだ、食べられない。小骨もキッチリ取って食べ易くほぐしておくれ」などと悪びれる事もなくケロリと喋ってみせる、あの人はこういったエピソードに事欠かない人でした。
そして祖母は家事も仕事も殆ど手伝わないのに、祖父と一緒にほぼ毎日のように私たち家族の住居を訪れては飯を食べ、風呂に入る生活を続けていましたが、母が言うには一言の感謝の言葉も謝罪の言葉も出た事がなく、しかし脇から何かにつけ『やんわりとした口調』ながら「ここが足りない、あそこの気が利いていない」などといった説法をチラチラと説く人だったもので、これが母の神経にエラく引っ掛かっていたようです。
父は父で、どういった心情だったのか、「嫁が苦労しているから親父もお袋も遠慮してくれ」といったセリフがついぞ吐けない人でした。若い頃の父は日々の苦しさからくるイラつきもあったでしょうが、少々怒りっぽい部分のある人でした。しかしながら祖父母には全く頭の上がらない人でもあったのです。そのせいか、母は祖父母が亡くなって数十年経った現在も、この頃の恨み言をよく語ります。
まあ、しかし祖母は家事、特に料理が苦手な人で、親の仕事が忙しくて祖母の元に預けられた時などは、概ねご馳走になるのは外食が加工食品が多かった。何度か祖母の作った『おじやっぽい何か』を食べさせられた事がありましたが、お世辞にも美味しいものではありませんでした。そういった苦手意識から母の家事を手伝わなかったのかもしれませんが、せめて多少の遠慮と感謝の言葉くらいは必要だったのだと思います。そういった部分で祖母は多少機転に欠ける人であったのかもしれません。
さて、現在でこそ布団に入ればものの10分ほどで眠りにつける私ですが、この当時はあの重苦しい空気の中、寝付くまでに2~3時間くらいかかるのはザラで、寝不足状態で学校に通う事もチョクチョクありました。常に何処かか緊張していたのです。そして恥ずかしい話ですが、私ら兄弟は同年代よりオネショが治るのが若干遅かったようにも思います。
しかし、そんな会社の経営も終焉を迎える事になります。私が七歳の時、ついに創業10年にして父が会社を畳む決断をします。原因は祖父が喉頭癌に罹り、余命いくばくもないと分かったからでした。元々、生活保護を嫌い息子に頼りたがっていたのは祖母も同様ですが、一番の原因は祖父でした。しかし赤字垂れ流しの経営だったし、父もこれが良い区切りになると思ったようです。普段親に逆らえなかった父も、この時ばかりは流石に決断したのです。
実はその数年前に私の母は、父がどう見ても経営者向きの人間ではない事を分かっていましたので、「私が働いてその給料を全てお義父さんとお義母さんの生活費に当てますので、もう会社を畳んであの人を普通のサラリーマンに戻してくれませんか」と頼み込んだ事もあったそうですが、祖父母は「貴方の稼ぎでは我々は生活できない」と飽くまで会社の継続を強く望んでいたのだそうです。飽くまでもご近所や昔からの経営者仲間、親戚付き合いの中の世間体や見栄を捨てられなかったのです。
しかし、父の頭を押さえつけ、そこにぶら下がって生きていたかつての『暴君』はもうこの世を去ろうとしていました。祖母は涙ながらに祖父の元弟子といえる人々に「息子を思い留まらせるよう説得して欲しい」などと懇願したりもしたようですが、父の決意は変わりありませんでした。
そして、私が8歳の頃、全てが終わりました。現在でも昨日の事のように思い出せます。設計の心得がある父が、自ら図面を引いて建てた平屋の戸建て。この一年程だけ住み、そして敢えなく引き払われる事となった新築の家を後に、確か夜の七時頃であったか、最後の荷物を積んだトラックに私は乗せられました。この日はその冬一番の膝まで積もるような大雪の夜で、ゴム長靴の中に雪の塊が入り込んで妙に冷たく感じられたのをハッキリと覚えています。
新築の家から古く「やれた」借家へ、ここから新たな生活が始まったのです。生活の立て直しは数年がかりで本当に大変でした。多くの同級生やその家族が1970年代が終わり、とっくに80年代的なライフスタイルに変化しているところにあって、我が家の生活は70年代の水準で暫く止まっているような状態でした。
その後80年代の初頭には盛岡に新幹線が本格的に通るようになり、盛岡の街も急速に発展しだしました。多くの人々がその活気の中で生きている頃、我が家は『かつてあった会社の後始末』に追われ、会社が存在していた頃とは別の意味での「影」が差したような雰囲気の中にありました。
この頃、借家住まいになったばかりの頃、私は小学二年生でしたが、この時点で既に鬱々とした傾向にあったと思います。物心ついた頃のように目の前が明るい極彩色に見える事は滅多に無くなり、何時も薄暗く磨り硝子を通して風景を見るような感覚。頭にも身体にも軽いダルさが常にあり、原因不明の頭痛や眼底痛に苦しむ事も。何があっても心の底から笑えない子供になっていたのです。
もしかすれば会社を畳む以前の段階から既に私は鬱傾向であったのかもしれませんが、ハッキリと確証を持っていえるのは、父の経営する会社が消えて借家住まいになったあたりからです。
そして生活の立て直しの為に働き詰めで疲れ果て、たまに積もり積もった苛立ちを爆発させる父の存在。
私は鬱由来と思われる痛みの他に、8歳の時に左首に出来た「しこり」を除去する手術を受けた事で、その後遺症のような痛みや疼きにも数年間苦しんでいました。過去に一度、頭から肩にかけての筋を違えた様な酷い痛みに耐えかねて、母に半泣き状態で「さすって欲しい」と頼むと脇にいた父から「衣食住を親から養ってもらいながら、一端の大人みたいに首までさすれとはどうりいう了見だ!」と怒鳴られた事がありました。
それ以降、「不満があっても、余程の事がない限りそれを口にしてはならない。めちゃくちゃな雷が落ちて来るかも知れない」、そんな考えが自然と私の中に醸成されてゆきました。
気がつけば何時も気だるくボーッと目の前の風景を見つめ、疑り深く、嫉妬や苛立ちに駆られやすく、人嫌いな少年になっていました。
人々が『苦労人』と言う時、それは概ね肯定的な文脈で語る事が一般的だと思います。「苦労した分だけあの人は、その人格に磨きがかかっている筈だ」と。しかし、それは程度問題だし、半分以上は人々の「そうであって欲しい」という願望が生み出した迷信のようなものかもしれません。
私は数十年生きてきた中で、『過去の苦労体験』なるものに胡座をかいたようなロクでもない人間を幾度となく見てきました。過度な苦労や苦痛は時にその人の心を歪め、魂に大きな影を落とすものです。
以前この話をした時にある人から「それは真の意味での苦労をしていない人だ。本当の苦労をした人は概ね人格的に立派だ」と言い張る頑固者がおりました。まあ、これが迷信の迷信たる所以というものです。私はそんな希望的観測から生まれた幻は信じない。
そして祖父母がとうに死んだ後も、我々家族の中には、この心の歪みと深い影が残り続けたのです。
不道徳の中の開放感 其ノ参につづきます。
これは1980年代前半、実に30年以上も昔の小さな小さな体験談になります。他の人からすれば実に些細なもののようにも感じられるかもしれませんし、普段の記事よりも長めな文章になる予感がいたしますが、読んで頂く方々にはどうか御容赦願いたく思います。