不道徳の中の開放感 其ノ壱 | 北奥のドライバー

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思いついた事をつらつらと書いて行こうと思います。

これは1980年代前半、実に30年以上も昔の小さな小さな体験談になります。他の人からすれば実に些細なもののようにも感じられるかもしれませんし、普段の記事よりも長めな文章になる予感がいたしますが、読んで頂く方々にはどうか御容赦願いたく思います。

 
さて、とても小さな、しかし私にとってとても重要なこの思い出を、ここに書き留めておこうと思います。
 
私は小さな子供の頃から20代後半あたりにかけて、酷い不安感や焦燥感に駆られる事が多く、何時も重苦しい気分のままに過ごす事の多い子供(青年)でありました。
 
眼前の風景は重苦しく霞み、まるで汚れたガラス越しから世界を眺めているかのように鬱々とした精神世界の中を生きる、そんな状態が一年の内で大半を占めている、そんな子供(若者)だったのです。
 
現在になって思い返してみれば、子供の頃から既に若干の鬱傾向であった可能性が高かったのだと思います。
 
もしかすれば、それは子供の頃に家族ぐるみで味わった、ある体験も一因にあったかもしれません。
 
さて、まずは何故そのような状況が生まれたのか、長々しくなりますが背景を説明しようと思います。
 
私が生まれた頃、私の両親は小さな鉄工所を経営していました。父はどう考えても不器用な技術職タイプで経営者向きな人間ではありませんでしたが、そんな父が経営者となったのには理由がありました。
 
それは父方の祖父母に起因したものだったのです。私の祖父は盛岡市内の本町通りで鉄工所を経営していましたが、色々あってそれを倒産させてしまいます。
 
父は高校卒業後に神奈川県にある、そこそこ名の知れた企業に就職したそうですが、20代半ばにハードワークが祟って遂に体を壊し、昭和40年代初頭に退職の後、盛岡に一旦帰郷して入院、体を治すべく養生していました。神奈川に戻るか、それとも盛岡で新たな仕事に就くか逡巡したりもしたようですが、盛岡の求人に幻滅し、再び神奈川への思いが強くなっていたようです。
 
というのも、岩手県内のどの求人を見ても、提示されている給料はベラボウに安く、その他の就労環境の記述も不明瞭なものばかり……。それを見た父は「ああ、岩手というのは、なんと貧しい土地なのだろうか」と嘆息したそうです。
 
そんな我が父の元に祖父がやって来て「お前が盛岡市内に会社を立ち上げて、私ら夫婦を養っておくれ」と懇願してきたらしいのです。
 
会社を失い失意の内に暮らす祖父母の所には、度々民生委員の方がやって来ては「悪い事は言わないから生活保護を受けなさい」と声をかけたそうですが、その度に「息子達が養ってくれるので結構です」と言っては追い返していたのだとか。
 
スッテンテン状態になっても祖父母夫婦には「元経営者」というプライドだけは残っていていたのです。本来、経営者になるつもりは毛頭無く、普通のサラリーマンになりたかった若かりし頃の父は、この祖父母の『しょうもない見栄』につき合わされ、エラい苦労をする羽目になります。
 
実は私の父は三人兄弟の次男坊でしたが、長男にあたる叔父は祖父との折り合いがすこぶる悪く、高校卒業と同時に盛岡を飛び出して千葉で就職し、そのまま亡くなるまで盛岡には戻ってきませんでした。三男にあたる叔父は当時高校を卒業して間もない若者で、とても祖父母を養う力があるようには見えません。
 
そこで祖父は一番頼み事をしやすい次男坊の我が父に、とんでもない懇願をしてきたわけです。これを聞いた長男に当たる方の叔父は父に対して「親父を甘やかすな。都会に戻って再就職しろ。でないと酷く後悔する羽目になるぞ」と強く警告したといいます。
 
祖父は腕の良い溶接屋でありましたが、その反面、何処か社会性に難がある人でした。大酒飲みで非常に暴君じみていて、しかも子供っぽくて妙に依頼心の強い部分も持ち合わせた人でもあったのです。
 
そんな祖父の下で長男坊の叔父は、少年時代に辛酸をなめるような経験をした事もあったようで、血の繋がった父親でありながら、祖父を酷く嫌悪していました。
 
しかし結局、父は悩んだ末に叔父の警告ではなく、祖父母の懇願を受け入れて盛岡近郊に小さな鉄工所をつくり、故郷に根を下ろす事を決めたのです。
 
程なく周囲の人達は当時独身であった父に懸念を抱いたのか「独り身ではなんだから、見合いでもさせて、サッサと身を固めさせよう」という話が持ち上がります。
 
周囲から「仕事の話がある」と騙された父が言われるがままに飲食店に行くと仕事相手はおらず、その代わりに指定されたテーブルの場所には一人の女性が座っていました。それが私の母です。不意打ちを食らった父はかなり狼狽えたようですが、これは恐らく相当な奥手であったであろう父に、何とか女性をあてがおうとした周囲の人々の作戦であったのでは、と私は想像しています。
 
その後話はトントン拍子に進み程なく結婚、すぐに母は私の姉を身ごもり、出産の翌年にはすぐにまた私を身ごもります。しかし、ここからが当に苦難の連続でありました。
 
……なぜならば、祖父母が父と母に残した『呪い』は思いの外強烈だったのだと思います。
 
よくお年寄りが「昔の人の方が道徳的に立派だった」などと思い出話に花を咲かせる事がありますが、実はそれと同じくらいに「ゴロツキのロクデナシ」といえる人も世の中には大勢いて、そういった真面な人もロクデナシな人も含めた雑多な人々の波が複雑なグラデーションを描きながら「暴力的かつ恐竜的な進化」と表してもよい程の勢いで社会が激しい変化を果たした、つまり昭和というのはそういう時代であったのです。
 
父や叔父はあまり子供時代から青年時代を積極的に語りたがりませんでしたが、過去に父から聞いた断片的な話から私なりに想像するに、トラウマ級の極貧状態を経験した上に、どちらかといえば『あまり立派とは言えない人達』をそこそこ間近に見ながら育った印象があります。一般的に語られる『古き良き時代』とは違う、しかしながら確実に数十年前に存在していた野蛮で寒々しいこの国の、この社会のもう一方の姿です。
 
この子供時代から青年期にかけての体験は、父の心に大きな影を落とし、そしてその息子たる私の心にも結果論かもしれませんが、それなりに影を落とす事となります。しかしこれに関しては次回に持ち越す事といたしましょう。
 
 
其ノ弐に続きます。