不道徳の中の解放感 其ノ弐 | 北奥のドライバー

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思いついた事をつらつらと書いて行こうと思います。

父が起こした会社の経営は大変でした。二次下請け、要するに孫請けの工場でしたので、大幅に上の会社にはピンハネされ買い叩かれる。一時は10人ほどの従業員を雇った事もありましたが、彼らの給与を払い、資材を仕入れ、諸々の経費を払えばトントンならまだマシで下手をすれば赤字。

 

小学生の頃にあるクラスメイトから「社長の息子だから楽な生活をしているだろう、毎日ご馳走を食べているんだろう」などと言われて酷く絡まれる事も何度か経験しましたが、実際のところ、私の眼には父親がサラリーマンをしている普通の家庭の子らの方が遥かに裕福だし、色々なものを買い与えられている様に見えました。

 

『経営者』と一言で言っても「濡れ手で粟」といった儲け方をして、真の意味で裕福な暮らしをする者もあれば、私の父が経営していた会社のように元請けから安く買い叩かれ、赤字スレスレの経営で貧乏暮らしを余儀なくされている経営者というものも存在します。雇っていた職人さん達を帰らせた後、夫婦二人だけで延々と溶接作業を行い、ノルマを果たした頃には夜が明けていた、なんて事もそれなりにあったようです。そういう意味では現在の不遇な状況に置かれているコンビニのオーナーにも似た所があるかもしれません。

 

経営の苦しさとプレッシャー、そして祖父母の生活を支える為の様々な出費。家庭の中には何時も何とも言えない苛立ちと緊張感が充満する事が多かった。父は夜中になると怒気を含んだ声で「子供らをサッサと寝かしつけろ!」と母に言う事があり、怯えた姉と私は飛び込むようにして布団に入ったものです。そして襖の向こうからは刺々しく苛ついた声で呟く父の愚痴を語る声が延々と聞こえてきたりしていました。時によっては更に声を荒げて夫婦喧嘩になる事も。

 

この時、特に母が不平不満を父にぶつけては喧嘩の元となっていたのは、会社の厳しい経営や重労働の問題よりも、祖父や祖母の問題でした。

 

祖父は祖父で前に書いた通り、我が儘で子供っぽいところのある人だったし、浪費の癖もある人でした。そういえばある日の事、お金が無くカツカツ状態で苦心している母にいきなり祖父が「ナメタガレイが食べたい」などと言いだした事があったそうです。

 

まあ、安くない魚です。母はこの祖父の無神経ぶりに驚きつつも、仕事の合間をみてカレイを買ってきて調理し、祖父の前に出しました。すると祖父は「これではダメだ、食べられない。小骨もキッチリ取って食べ易くほぐしておくれ」などと悪びれる事もなくケロリと喋ってみせる、あの人はこういったエピソードに事欠かない人でした。

 

そして祖母は家事も仕事も殆ど手伝わないのに、祖父と一緒にほぼ毎日のように私たち家族の住居を訪れては飯を食べ、風呂に入る生活を続けていましたが、母が言うには一言の感謝の言葉も謝罪の言葉も出た事がなく、しかし脇から何かにつけ『やんわりとした口調』ながら「ここが足りない、あそこの気が利いていない」などといった説法をチラチラと説く人だったもので、これが母の神経にエラく引っ掛かっていたようです。

 

父は父で、どういった心情だったのか、「嫁が苦労しているから親父もお袋も遠慮してくれ」といったセリフがついぞ吐けない人でした。若い頃の父は日々の苦しさからくるイラつきもあったでしょうが、少々怒りっぽい部分のある人でした。しかしながら祖父母には全く頭の上がらない人でもあったのです。そのせいか、母は祖父母が亡くなって数十年経った現在も、この頃の恨み言をよく語ります。

 

まあ、しかし祖母は家事、特に料理が苦手な人で、親の仕事が忙しくて祖母の元に預けられた時などは、概ねご馳走になるのは外食が加工食品が多かった。何度か祖母の作った『おじやっぽい何か』を食べさせられた事がありましたが、お世辞にも美味しいものではありませんでした。そういった苦手意識から母の家事を手伝わなかったのかもしれませんが、せめて多少の遠慮と感謝の言葉くらいは必要だったのだと思います。そういった部分で祖母は多少機転に欠ける人であったのかもしれません。

 

さて、現在でこそ布団に入ればものの10分ほどで眠りにつける私ですが、この当時はあの重苦しい空気の中、寝付くまでに2~3時間くらいかかるのはザラで、寝不足状態で学校に通う事もチョクチョクありました。常に何処かか緊張していたのです。そして恥ずかしい話ですが、私ら兄弟は同年代よりオネショが治るのが若干遅かったようにも思います。

 

しかし、そんな会社の経営も終焉を迎える事になります。私が七歳の時、ついに創業10年にして父が会社を畳む決断をします。原因は祖父が喉頭癌に罹り、余命いくばくもないと分かったからでした。元々、生活保護を嫌い息子に頼りたがっていたのは祖母も同様ですが、一番の原因は祖父でした。しかし赤字垂れ流しの経営だったし、父もこれが良い区切りになると思ったようです。普段親に逆らえなかった父も、この時ばかりは流石に決断したのです。

 

実はその数年前に私の母は、父がどう見ても経営者向きの人間ではない事を分かっていましたので、「私が働いてその給料を全てお義父さんとお義母さんの生活費に当てますので、もう会社を畳んであの人を普通のサラリーマンに戻してくれませんか」と頼み込んだ事もあったそうですが、祖父母は「貴方の稼ぎでは我々は生活できない」と飽くまで会社の継続を強く望んでいたのだそうです。飽くまでもご近所や昔からの経営者仲間、親戚付き合いの中の世間体や見栄を捨てられなかったのです。

 

しかし、父の頭を押さえつけ、そこにぶら下がって生きていたかつての『暴君』はもうこの世を去ろうとしていました。祖母は涙ながらに祖父の元弟子といえる人々に「息子を思い留まらせるよう説得して欲しい」などと懇願したりもしたようですが、父の決意は変わりありませんでした。

 

そして、私が8歳の頃、全てが終わりました。現在でも昨日の事のように思い出せます。設計の心得がある父が、自ら図面を引いて建てた平屋の戸建て。この一年程だけ住み、そして敢えなく引き払われる事となった新築の家を後に、確か夜の七時頃であったか、最後の荷物を積んだトラックに私は乗せられました。この日はその冬一番の膝まで積もるような大雪の夜で、ゴム長靴の中に雪の塊が入り込んで妙に冷たく感じられたのをハッキリと覚えています。

 

新築の家から古く「やれた」借家へ、ここから新たな生活が始まったのです。生活の立て直しは数年がかりで本当に大変でした。多くの同級生やその家族が1970年代が終わり、とっくに80年代的なライフスタイルに変化しているところにあって、我が家の生活は70年代の水準で暫く止まっているような状態でした。

 

その後80年代の初頭には盛岡に新幹線が本格的に通るようになり、盛岡の街も急速に発展しだしました。多くの人々がその活気の中で生きている頃、我が家は『かつてあった会社の後始末』に追われ、会社が存在していた頃とは別の意味での「影」が差したような雰囲気の中にありました。

 

この頃、借家住まいになったばかりの頃、私は小学二年生でしたが、この時点で既に鬱々とした傾向にあったと思います。物心ついた頃のように目の前が明るい極彩色に見える事は滅多に無くなり、何時も薄暗く磨り硝子を通して風景を見るような感覚。頭にも身体にも軽いダルさが常にあり、原因不明の頭痛や眼底痛に苦しむ事も。何があっても心の底から笑えない子供になっていたのです。

 

もしかすれば会社を畳む以前の段階から既に私は鬱傾向であったのかもしれませんが、ハッキリと確証を持っていえるのは、父の経営する会社が消えて借家住まいになったあたりからです。

 

そして生活の立て直しの為に働き詰めで疲れ果て、たまに積もり積もった苛立ちを爆発させる父の存在。

 

私は鬱由来と思われる痛みの他に、8歳の時に左首に出来た「しこり」を除去する手術を受けた事で、その後遺症のような痛みや疼きにも数年間苦しんでいました。過去に一度、頭から肩にかけての筋を違えた様な酷い痛みに耐えかねて、母に半泣き状態で「さすって欲しい」と頼むと脇にいた父から「衣食住を親から養ってもらいながら、一端の大人みたいに首までさすれとはどうりいう了見だ!」と怒鳴られた事がありました。

 

それ以降、「不満があっても、余程の事がない限りそれを口にしてはならない。めちゃくちゃな雷が落ちて来るかも知れない」、そんな考えが自然と私の中に醸成されてゆきました。

 

気がつけば何時も気だるくボーッと目の前の風景を見つめ、疑り深く、嫉妬や苛立ちに駆られやすく、人嫌いな少年になっていました。

 

人々が『苦労人』と言う時、それは概ね肯定的な文脈で語る事が一般的だと思います。「苦労した分だけあの人は、その人格に磨きがかかっている筈だ」と。しかし、それは程度問題だし、半分以上は人々の「そうであって欲しい」という願望が生み出した迷信のようなものかもしれません。

 

私は数十年生きてきた中で、『過去の苦労体験』なるものに胡座をかいたようなロクでもない人間を幾度となく見てきました。過度な苦労や苦痛は時にその人の心を歪め、魂に大きな影を落とすものです。

 

以前この話をした時にある人から「それは真の意味での苦労をしていない人だ。本当の苦労をした人は概ね人格的に立派だ」と言い張る頑固者がおりました。まあ、これが迷信の迷信たる所以というものです。私はそんな希望的観測から生まれた幻は信じない。  

 

そして祖父母がとうに死んだ後も、我々家族の中には、この心の歪みと深い影が残り続けたのです。

 

 

不道徳の中の開放感 其ノ参につづきます。