不道徳の中の解放感 其ノ参 | 北奥のドライバー

北奥のドライバー

思いついた事をつらつらと書いて行こうと思います。

1980年代の中頃、私は中学生になっていました。当時は自分自身が強い鬱傾向と生まれつきのADD/ADHD持ちの少年である自覚がまるで無い状態で、ただ何となく「苦しいなあ、怠いなあ」と思いながらもそれを口に出さず生活していました。そもそも鬱というものが私の家族や周囲の人間も含めて、どのような病気かも知らず殆ど関心も無かったですし、ましてや先天的な脳疾患の一種である注意欠陥多動症(ADHD)や注意欠陥症(ADD)などという、発達障害に分類される病気はまだ世間に全く知られていない時代です。私自身が注意欠陥症とそれに付随した鬱持ちである事が分かったのはほんの10年程前です。その時点で既に30代後半でした。

 

当時、発達障害は兎も角、仮に鬱である事に気づく事が出来て、キチンとした治療が出来ていれば果たしてどんな人生が待っていたのでしょうか……。まあ、覆水盆に返らず、終わった事を嘆いても仕方がありません。当時の社会全般の在り様がそうであったし、学校の教師もこういった問題への関心が無いか、或いは薄い人が大半の時代だったでしょう。両親は両親で『過去の負債』を返すべく働きづめで、そもそも子供の異常に関わる問題をジックリと建設的かつ文化的に考えるような「セレブな環境」にもありませんでした。そして、そんな大人たちに囲まれて生きてきた私自身もそこら辺の感覚は同様でありました。

 

この少年時代の私ときたら、集中力や全般的な学習能力の不全から勉学も振るわず、しかも運動も苦手、その上人付き合いも苦手、不安や恐怖に駆られて冷静さを失いやすく、何をやっても他人からはまるで奇行に走っているかの様にも見えたであろう、信じ難いような失敗の数々。しかし鬱や注意欠陥症由来の失敗や挫折を繰り返したところで、そもそもそういったものへの理解の無い時代でしたので、世間の人や家族からの「自分たちの方がもっと辛い思いをしてきた」あるいは「世の中にはもっと大変な境遇に置かれた人々がいる」という話で厳しく論難された上に相対化されるのがオチだったし、理解してもらえるのか怪しい弁明に明け暮れるのも馬鹿馬鹿しく億劫に感じていた私は必然的に人とのコミュニケーションを拒み、酷く世間を恨み、そして何よりも自己嫌悪の中を鬱々として暮らす少年になっていました。

 

そんな折、ある少年が私に声をかけてきました。彼はクラスメイトでしたが、同じクラスになってからも殆ど口もきいた事が無い人間で、何時もふて腐れたような態度で斜に構えたように過ごす少年でした。その瞬間「何で彼が自分に声をかけるのだ?」と多少戸惑ったものの、決して悪い気もしなかったのを覚えています。

 

パッと見た感じ、非常に色白な肌、若干だけれども栗色がかった髪の毛と瞳を持っていて、その仏頂面で時に挑発的にも見られがちな振る舞いは、学校内のいじめっ子グループに絡まれる原因ともなりがちで、現に気の強い他の男子生徒のグループから難癖をつけられ、殴られた上にポケットに納めていた物を取り上げられ、ふざけ半分に晒し者にされていた事がありました。(取り上げられたものが何だったのかはっきり覚えていませんが、学校への持ち込みが禁止されていたアイテムであったようです。)

 

しかし、その直後、彼は猛然とモノを奪った男子生徒に殴りかかったのです。明らかに喧嘩慣れしていない風な「へっぴり腰」で野放図に繰り出される彼のパンチはいとも容易く相手にかわされ、逆にカウンターパンチを食らっていました。彼も自分が殴り倒されるのは必然だとは理解していたでしょうが、しかし、理不尽に自らを侮辱した相手に黙っていられなかったのでしょう。

 

確か私の記憶では、ですが、この騒ぎに対する学校側の裁定は「理由はどうあれ挑発に乗って相手に殴り返し、事態を複雑にした方が悪いし、持ち込み禁止のアイテムを校内に持ち込んだ”色白の少年”の方が遥かに問題あり」といったもので、このもう一方の当事者たる「いじめっ子グループ」への素行に対する言及は殆ど無し、といった非常に不公平な内容だったと承知しています。あの”色白な少年”も無念だったでしょうし、私も見ていて納得がいかないものでした。まあ、学校のイジメに対する対応なんてのはこんなものです。だから現在に至るも、私は教育界における『イジメ対策』なんてものは原則、信用に値しないものだと考えています。

 

さて、これまで同じクラスになって数か月間、殆ど口を利いた事の無かった人物であったものの、話しかけられてきた事に関しては、率直に言って嬉しく感じていました。何故なら喧嘩も弱いし頭もそう良いわけでもなく、決して器用に人付き合いが出来そうなタイプにも見えない。しかしながら他人に対して安易に屈服して腹を見せる様な事をせず、仮に負け戦と理解しても尚、決して萎縮せずに相手に殴りかかってみせる彼の気性に、私はある種の好ましさを感じていたのです。「単に思慮が浅はかで感情のコントロールが出来ない馬鹿者だ」と斬って捨てるのは容易い。しかし、私は世の中を知ったような顔をして小賢しい処世術を滔々と語るような向きよりも、むしろ彼の方が遥かに信用できる人間の様に感じていたのです。

 

『彼』は学校帰りの放課後、現在は解体されて無くなった盛岡市内の某地方百貨店へと私を誘います。その前に彼は少しばかり自らの家に寄ってお金やらなにやらを持ち出し、くすんだ色のジャンパーとジーンズ姿に着替えると、早速とばかりにその「某百貨店」へと私を連れてゆきました。彼自信と自宅の様子をチラリと見ていて思ったのですが、家庭の生活水準は中の中から中の下といったところか。両親はどちらも仕事に忙しい方たちだったようで、ある程度の最低限のお小遣いを息子に渡して、ずっと働いて留守の事が多いようで、「決して非常に恵まれた家庭とは言えなそうだな」というのが率直な私の印象でした。

 

……何故に私は彼の「一緒に出かけて面白い事やらないか?」という誘いにアッサリ乗ったのでしょうか。そこには少々ワケがありました。端的に申し上げれば、あの当時、私はあまり家に帰りたくなかったのです。ちょっと長々しくなりますが、そこら辺の経緯を書いてみようと思います。

 

当時父は仙台に本社があるボイラー設備の会社に再就職を果たしていましたが、色々な事情で盛岡事務所の設立に時間がかかっており、最初の数年間は家にデスクを置いて自宅営業をしていました。母は家計を助ける為にパートに出ていて、何時も帰ってくるのは夕方の7時頃。一般的な家庭とは逆で母が家におらず、たまに営業に出かける事もあるものの、概ね父が一日中といっていい程家にいる状態だったわけです。

 

この頃は私も他の同級生同様に思春期を迎えていたわけで、当然小さな子供だった頃とは行動も色々と変わってきます。親の言いつけはいちいち聞かなくなり、行動は好き勝手なものになってゆきます。それから仲間の中にはマンガ、実写も分け隔てなくポルノコンテンツが矢鱈と好きな者がいて、彼からポルノ雑誌をよく貰っていましたし、飽くまで使う予定もない「オフザケ」ではありましたが、コンドームを貰ったりしていました。

 

しかし、そういうアイテムはどんなに上手に隠しても、私が学校に行っている間に自宅営業で在宅中の父がそれを探し出しては家で待ち構えていて、「これは何だ!」といった感じで酷く叱り飛ばしてくるのが常でした。父はこれまで見てきた息子が思春期を迎えて『これまでの息子と違う何か』に変化してゆく事に酷く動揺していたのだと思います。そして、しまいには机の裏や引き出しの中だけではなく、畳を引き剥がしてみたり天井裏を覗いて徹底的に粗探ししつつ監視するという、常軌を逸したような行動に出るようになったのです。

 

「煙草を吸っていないか、酒を飲んでいないか、勉強もせずにポルノにうつつを抜かしていないか。」そうやって大の男が息子の部屋をチョクチョク漁っては監視しているのです。当時の私にしてみれば非常に不気味で嫌悪感を感じさせられる行動でした。

 

見かねた母が私を擁護しても父は「子が道を踏み外さぬ様に親としての役割を果たしているだけだ」と言うばかりでしたが、半分以上は嘘だったように思います。息子が自分の思い通りにならない存在に変化してゆく事が受け入れられず、取り乱した挙句に強権的で常識外れな方法に走った、というのが本当のところでしょう。

 

父は、こういう部分で若干ですが性根の座っていない所がある人でした。そして仮に文句を言ったところで雷が落ちたような大声で「誰のお陰で学校に通えて飯も食えていると思っているんだ!スネ齧りが自分の権利を主張するなんておこがましい!」と古式ゆかしい『父親マウンティング』を食らってケチョンケチョンに懲らしめられるのがオチでしたので、怒りをこらえつつ黙って耐えるのが私の日常でした。

 

(……家に帰ってもあの親父がいる。なんだか憂鬱だな。あの緊張感を伴った空気の中に帰るのは正直億劫だな……)

 

こういった意識が私の中に有ったのです。だから、これといった交遊も殆ど無い筈の『彼』の誘いにアッサリ乗ってしまったのでした。当時の私にとって、学校も家も、息の詰まる場所でしかありませんでした。ただ一つ気に掛かったのは、「何故自分を誘ったのか?」という疑問でしたが、ついぞ聞く事が出来ませんでした。彼自身はその時上機嫌だったし、わざわざそれに水を差す様な問い掛けをしてみせるのも何となく野暮なように感じていたのです。

 

当時私が通っていた中学校は、生徒が親の同伴や学校からの特別な許可もなく単独で遠くに出かける事を原則的に校則で禁じていたし、ましてやデパートやゲームセンターのような遊戯施設に入っていた事がバレれば職員室に呼び出されて大目玉を食らうのは必至でした。そこら辺の校則は結構厳しめな学校だったのです。最悪、親も呼ばれて三者面談になる可能性も高かった。実は我々は結構リスキーな行動をしていたわけです。

 

しかし、『彼』はそんな事は意に介さぬ、といった風情でどんどん歩いてゆきます。そして、そのビルについたのは午後の4時ころでした。春が近づいてきてはいたものの、まだ若干肌寒い季節、傾きかかった太陽がそのビルと周囲の街並みを綺麗に照らしていたのを覚えています。

 

 

不道徳の中の解放感  其ノ四に続きます。