北奥のドライバー -10ページ目

北奥のドライバー

思いついた事をつらつらと書いて行こうと思います。

世の中には社会的成功者(概ね経済的な意味での)と呼ばれる人々がいます。

 
会社のカリスマ経営者(?)とか、インフルエンサーとか呼ばれる手合いですね。まあ、こういう人達に洋の東西の別はありません。日本のみならず、欧米にもウジャウジャいるようです。
 
彼らの中には成功の秘訣とされる『説法集』を書籍なりなんなりの有料コンテンツとして販売している人がいます。
 
 
そして、その商売方法や根本思想に疑問を持ち批判する者達に対しては、そのカリスマ本人が手を下さずとも、概ね『信者』と呼ばれる人達が自動的にネット上やら電話やらFAXやらで攻撃、排除してくれるわけですね。実に素晴らしい。
 
さて、しかし、そんな信者の日々の暮らし向きは果たしてどうでしょうか?
 
少なくとも「私はこの教えによって、教祖様と同等かそれ以上の成功を収めました」といった事例を私は寡聞にして知りません。知っている方がいれば是非教えて欲しいものです。
 
(定期的に世の中には不遇な状態からこういった商売で成功した若者の姿が喧伝されて広告塔のように利用されますが、そういった怪しげな広告屋さんによる二次加工が施されていない生々しい事例としての成功例、といった意味合いですね。)
 
さて、西暦184年、中国では「黄巾(こうきん)の乱」という新興宗教がらみの農民反乱が起こりましたが、その教祖は信者達に「霊験あらたかな水だ」と称して、病人にただのそこら辺の水を飲ませ、病が癒えれば「ホレ見ろ奇跡だ、私の教義を信じなさい」と語り、癒えなければ「この人の信心が足りなかったからだ」と責任転嫁するような事をしつつ信者を増やしていったのだとか。
 
……まあ、最後には軍に鎮圧され、滅ぼされましたけどね。
 
はてさて、話は本筋に戻りますが、ここでいう『成功』というのは具体的にどんなものでしょうか。
 
私のオツムで想像できるレベルでは……
 
○ 億単位の資産をどうにか貯め込み作った後、それらを上手に運用して、そこから生み出される配当金等の運用益によって生活する永久機関的な仕掛けを構築する。
 
○ カリスマ経営者orブロガーにでもなって、どうにか一定数以上の信者(具体的には少なくとも数十万人単位)を作り出し、コンテンツを出しさえすれば、どんなボッタクリ価格でも確実に売れる状況を創り出す。
 
といったレベルでしょうかね。しかし、ネット上に情報が溢れ、高度に発達したマスプロダクツが世の隅々にまで行き届いている現代にあって、『二匹目のドジョウ』はそう滅多にいるものではありません。
 
結局、そこにあるのは手や靴を泥にして働く(生きる)のはイヤだし、出来れば机に向かうだけの楽で綺麗な仕事がしたい。しかし根本の部分で自分に自信が無いから『教祖様の教義』に自分の人生を負託させた形で自己実現を目指す、という思想ではないでしょうか。
 
まあ、それに対して私から言える事といえば……
 
「止めておきなさい。確率はゼロではありませんが、それは一発勝負の宝くじで高額当選を狙うようなものです。それに『彼ら』はいざという時、あなたを守らず切り捨てるでしょう。寧ろその冷淡さと天佑によって成功したであろう人々なのですから」
 
といった所ですかな。
 
名も無き人生、平凡な人生を恐れない事です。これが一番重要ではないでしょうか。先ずは、「自分はドラクエでいうところのスライム、どんなにいってもドラキー止まりの雑魚である」という現実を受け入れる事、そしてスライムにはスライムの、ドラキーにはドラキーの存外豊かな幸せがあるという事。
 
自分の貧困な運命に抗するにしても、まずはこの認識から全てをスタートさせなければいけません。
 
……以上です。
 
 

数年前の事です。ある70代ほどのお客様を乗せて世間話に花を咲かせている時に、こんな話を聞かされました。

 

その方は寿司が大好きで、月に一度友達と連れ立って寿司屋、特にリーズナブルな回転寿司に行くのだけれど、最近は顔の見える場所にお寿司を握ってくれる職人さんがいなくなって、多くがタッチパネル式の注方法を採用しています。どうもあれが酷く苦痛なようです。

 

「最近は対面式のお店がめっきり減って寂しいんだよね。知り合いにも今流行りのお寿司屋を嫌うものが多いし」

 

そんなことを仰っておりました。私自身はああいった新しいサービスに関して不安を感じるものの、それと同じくらいに新しいものに触れているワクワク感も感じるわけですが、世の中にはこういった過度に合理化されコンピューター管理されたサービスに不安や不満の念を覚える方もいらっしゃるという事です。

 

タッチパネルでの注文というものは若い頃から慣れ親しんでいれば、「こういう場所をタッチすれば、概ねこういった注文画面に行き着いて……」と直感的に理解出来るものですが、口で注文を伝えてきた昔人にはかなり辛いでしょう。操作はぎこちなくなり、次から次へとスムーズにお寿司を食べれなくなるだろうし、もしかすれば操作を間違って赤っ恥をかく羽目になるかもしれない。

 

勿論、操作パネルの内容が理解できない時は、店の奥から従業員が飛んできてフォローしてくれるのでしょうが、一々それをやる事で妙な疎外感や苦痛を感じる人も多いでしょう。

 

そして、私はタクシー以外にも何種類か客商売を経験したワケですが、世の中には存外『日本語が微妙に不自由な人』というのがいるものです。例えば具体的な商品名や要望を語らず「アレお願い」といった感じの喋り方をする人なんかです。こういった「つうと言えばかあ」ではありませんが、「主語を省いたり、或いは理路が今一つ整然としてない漠然とした喋り方でオーダーを出し、サービス側の機転や忖度に任せる」というタイプです。……で、自分の想像と違うサービスを出されると「違う!」と言い出したりする人ですね。これ、本当に多いです。

 

これは要するに、誰にでも的確に伝わる標準的な表現ではなく、『ごく狭い仲間内でのみ通じるローカルな共通言語』に頼って生きてきた方が多いからだと思われます。しかし、極限までIT化され効率化・自動化されたサービスというものは、良くも悪くもこの『標準語的な思考力・表現力とそれに伴う作法』を要求するものです。

 

そして前述のような他者の機転に頼ってサービスを享受する慣習の中で生きてきた人達にしてみれば、『自らのリテラシー能力と自己責任の下に、自己判断でサービスを選択する』という行動自体が非常に不安を感じさせるものであろう事は容易に想像できます。彼ら、彼女らにしてみれば、これはまさに驚天動地の世界の変化といえましょう。

 

さて、私事で非常に恐縮なのですがスッパリ白状しますと、実は私自身が多少ばかり発達障害の傾向がありまして(実際に病院で正式にそのような診断を受けております)、「皆まで言わずとも、その位常識だから解かるでしょ」というタイプの注文や意思疎通が大の苦手な人間で、お客様の意向が本当に理解できず、若い頃は色々な仕事で七転八倒、苦労いたしました。お客様にも周囲の同僚の方々にも本当に沢山迷惑をかけました。

 

まあ、私のような人間にも腹を立てながらも居場所を提供してくれた人々には心の底から感謝しております。

 

……さて、話は大きく戻りますが、世の人々で嫌がる人は大勢いるでしょうが、それでもIT化の波は押し留める事が出来ないでしょう。なんとなれば、これは多くの経営者にとって一つの夢だからです。

 

特に仕事一回あたりで得られる利益の少ない労働集約型産業の場合、生身の人間を雇う事で生じる様々な経営リスクを低減したければ、そもそも自動化の領域を広げて働く人間の数を極限まで減らし、尚且つ何処に行っても金太郎飴状態の機械的なサービスにする事が最もリスクヘッジに叶ったものの考え方です。

 

で、「極限まで効率化したサービスを提供しますが、ある程度以上の領域からはお客様自身の自己責任になります」

 

「今までは正規のサービスから外れた変則的な要求も、仕事のついでで従業員が骨を折って解決してきましたが、これからはそういったご要望は聞き入れられなくなりました」

 

「もし対応が気に入らなければ、サービス提供前に読んでいただいた利用規約に従い、後日改めて異議申し立ての手続きなり訴えなりをお願いいたします。従業員はこの場で一々クレームは聞かない決まりになっております」

 

……上記の表現は少々底意地が悪く大袈裟かもしれませんが、こういう世の中は「お金を払ったら後はプロにお任せで、はい御仕舞」とはならずに、顧客側にもそれ相応のリテラシーを要求するものです。これが「もっと安く、もっと便利に」という競争の行き着く果てですし、これは私が身を置く旅客運輸業だって同様だと思うのです。回転寿司ほどではありませんが、確実にそういう方向に進んでいます。

 

しかし、ここでIT化に乗り切れず、とり残された顧客は何処に行くのでしょうか。サービスの提供側、つまり従業員に関しては、少なくとも私は「IT化で元接客業の失業者が大量発生」といった騒ぎは余り起こらないと私は予想しています。厚労省の人口調査を見れば、近年における日本の就労人口の減少は凄まじいのが明らかですので。問題は『何くれと生身の人間の柔軟な対応力に頼るしかないタイプのお客』です。

 

一見便利で垢抜けているけど「板子一枚下は地獄」となりうる社会。そうなれば果たしてこれは福音でしょうか、それとも……。

 

 

 

 

 

「貧乏人を怠け者だと言って非難するのは、まず最初に一般の民衆である。下層階級のひとびとが、一度も救貧院に行ったことがないのを貴族のしるしみたいに自慢したり、生活が一番苦しかったときにも公的な施しをいっさい受けなかったことを自慢したりするのは、きわめてよくある光景だ。」  (ピエール=ジョゼフ=プルードン著 貧困の哲学 第8章)

 

よく巷ではブラック労働の文化や生活保護のような公的扶助にあずかる人間に対する偏見は、特に大和民族に顕著な精神文化の一つであるかのように喧伝する向きがありますが私はそうは思いません。

 

実はプルードンが活躍した19世紀中ごろのフランスやその他ヨーロッパ諸国でも、非人道的な労働や、そこから生まれる『貧乏人の苦労自慢』や『苦役を是とする価値観の押し売り』は当たり前に横行していたようです。欧米諸国は百数十年かけてその文化を少しずつ克服して今日に至っている訳です。

 

しかし、日本に比べてそこら辺の意識が進んでいると言われる事の多い欧米ですら、いまだにそれらの問題が完璧に解決できず、いまだに苦しんでいるし、それに伴う労働者階層ごとの精神的な分断もまだまだ存在するのだそうです。

 

別に物知りを気取りたいわけでもありませんが、私が以前書いたように、案外と社会的弱者に厳しいのは貧困層や、さらにその下にいる極貧層の人間だったりします。

 

そして、真の意味でのマイノリティというものは富裕層から中間層あたりの「我々の納めた税金で気楽な生活をして……」という上からの冷ややかな視線を浴びせられ、比較的下流といえる労働層からは「俺達の方がもっと苦労しているのに」という横からの批判を受ける格好で強烈な十字砲火に晒されがちなものです。

 

しかし、そういった『だらしなく見える人々を』寄ってたかって叩いた処で世の中は良くなるでしょうか。そもそも、真の意味でこういった社会構造を創造したであろう階層の人々は世間の批判を受けにくい別の所にいる筈です。しかし、往々にしてその批判の矢は中々にそこまでは届きませんでした。

 

ただその反面、私はこの平成という時代の終わりに、社会全体に膾炙していたこの価値観が終わろうとしているようにも感じるのです。

 

この時代に吹き荒れた自己責任論。「働かざる者食うべからず」「取り敢えず理不尽に晒しておけば人は自然に成長する」といった苛烈で無責任な価値観。これらが完璧に消え去るという事は無いでしょうが、大きな節目にあるようにも感じられます。そもそも特定の価値観は何時までも同じ形を保ったままは続きません。

 

人は時代に沿って変化し、その集合知たる常識も変化します。この四半世紀で日清・日露戦争に匹敵する数の過労死や自殺等の犠牲者が生み出されてきました。そして同時に恐らく一生貧困なままで生涯を閉じるであろう大量の就職氷河期世代がこの副産物として社会の中に生み出されました。

 

これはもう簡単に「自己責任」では済まされない巨大な災禍です。もう無視する事も出来ませんし、論旨のすり替えを弄して誤魔化す事も出来ません。社会全体が否応なしにこの総括に引きずり込まれてゆくでしょう。

 

きっと平成の次の時代は社会全体がその後始末に追われる時代になるのでは。私は明治維新以降、近代化と引き換えに日本人にかけられた心の呪いが解かれる時代になる事を期待してやみません。