今回は昔々、この盛岡の土地で不幸な死を遂げた力士の話を書こうと思います。
残念ながら相撲に関して現在、岩手県出身者はいまいちパッとしませんが、実は藩政時代、盛岡藩領内は結構な相撲処でありました。また歴代藩主の多くも大の相撲好きであり、特に南部重信公や南部利敬公の相撲好きは有名でありました。また現在は見る影もありませんが江戸時代の当時はそこそこに実績ある力士が南部領から輩出されていたようです。そんな中でも地元ではひときわ有名であり、また不幸な死を遂げた力士がおります。その名を山ノ上三太夫(作太夫、柵太夫)といいます。
さて、私が子供の頃に何度となく聞かされた伝説を書き綴ってみましょう。
山ノ上三太夫は盛岡藩第4代重信公の時代、藩のお抱え力士となり、後に名古屋尾張公のお抱え力士であり、当時最強と言われた「富士ノ山」を破り大出世、大関にまで上りつめます(この時代は横綱ではなく大関が最高位でした)。重信公は非常に喜び「富士ノ山の強さを超えた力士」という意味で、それまで名乗っていた「山の目」を改め、「山の上」と名付けたのだそうです。
しかし延宝四(1676)年、悲劇が起こります。盛岡藩の若君が籠で帰宅の際、本来であれば担ぐのに6人を必要とする籠を、山ノ上三太夫はヒョイと一人で担いでみせました。そして盛岡城の傍にある下ノ橋の上からまだ幼少であった若君を涼ませてあげようと籠を橋の欄干の外へ差し出してみせたのだといいます。我が子が下手をすれば転落死しかねない危険に晒された事を聞き及んだ重信公は大いに怒り、山ノ上三太夫は小鷹の刑場(盛岡市仙北町)で処刑される羽目になってしまいます。
この処刑の際、三太夫はこの刑がどうしても承服できず悔しかったのか、処刑人が槍を体に突き立ててもグッと全身の筋肉に力を入れて抵抗してみせたのだといいます。彼の身体は鋼鉄のように硬くなり、槍の穂先を全く通しませんでしたが、3度目でやっと全身の力を抜いてみせ、槍の刺突を受け入れてみせます。そして死の直前に「今後、南部領からは大関を出さない」と呪いの言葉を残したのだとか。それ以降、南部領からは祟りのせいか、強い力士が出なくなったのだそうです。
……とまあこんな内容です。
盛岡市のお隣、滝沢市は滝沢市役所裏の丘陵地には山ノ上三太夫の墓と言われる石碑があります。しかし数年前のブログに書いた通り、本当にこの石碑の下に彼の遺骸が埋まっているのかと問われれば、正直「わからない」というのが本音です。そして、先に書いたお話が本当に有った事なのかと問われれば、「正直非常に怪しいかもね」と答えざるをえません。
さて、この山ノ上三太夫ですが、矢鱈と伝説めいた話が多い人で、何かしらのエピソードがあったとしても、何処までが本当の話なのやらワケの分からない人でもあります。出身地に関しては盛岡周辺ではなく大迫(おおはざま)という人もいるし、宮守(みやもり)という話もあります。
また盛岡市の門(かど)という住所の中にある真立(まったつ)という場所には三太夫が「ここの松が枯れずにいる内は、この地から強い力士を出さぬ」と死の間際に恨みの言葉を残して処刑された場所があり、またこれに関連する「松の下」という屋号が存在したという言い伝えも。
当時の処刑場は上記の通り、現・仙北町小鷹(こたか)にありました。ここは特に重罪の者が処刑された後に首を晒された場所です。それ以外にも、数キロも離れた「門」付近の蝶ケ森という場所には弓を用いた処刑場があったという話も過去に聞いた事はあります。とはいえ、これも正直なところ真偽はどうなのやら。
「遺骸が盛岡八幡宮に『力神』として祀られていたが、明治17(1884)年の大火で焼失した」なんて話もあるようです。これもチョットどこまで信じてよいものでしょうか。
それから、三太夫の一族は皆、背が高く立派な体躯をもっていたという話もありました。三太夫には「お先」(おせん)または「先子」(せんこ)という名の姉がいたそうですが、彼女も弟に負けず劣らず大柄で筋力も半端ではないゴリゴリでマッスルな女性であったという言い伝えがあります。彼女は現・滝沢市の鵜飼(うかい)に嫁いでいたのだとか。
ある秋の収穫期、連日の雨で道路はドロドロになり、村人達はその悪路を郊外より稲・蕎麦・大豆等を馬に背負わせて運んでいたそうですが、ある人物が過って荷馬を泥濘中に転倒させてしまったのだといいます。こういったトラブルの時には、当時「お先」の助力を乞うのが常だったのだとか。「お先」は嬉々としてその時も応諾し、倒れた馬を荷物共々たった一人で泥の中より引き上げてみせました。
……なんて言い伝えも残っているようです。
さて、散々雲をつかむようなお話を書き散らしてきてなんですが、実は山ノ上三太夫が処刑された原因を書き記している古い南部相撲の資料があるのだそうです。私なりに現代語に意訳すると、その中には
「(大関になってから)三太夫はすっかり『テング』になってしまい、周りの者達を見下す態度を取るようになった。挙句の果てには法も畏れず禁制とされている猟場に無断で入ってしまった。そして鉄砲を使い、違法にそこに生息する獣を狩った。従ってその罪科により彼は死刑に処せられたのだ」といった内容が書き記されているようです。
一応、その事が書かれているブログを発見いたしましたので、ここにリンクを貼っておきます。
http://sumou-shiseki.cocolog-nifty.com/blog/2006/12/post_39a9.html
『なぜ刑を受けたかは南部相撲資料に、「作太夫在辺に居て己カ力量ニ自負シテ世人ヲ眼下シ剰ヘ公法ヲ畏レス或日制禁ノ御狩場ニ於テ銃炮ヲ以テ□□□ヲ盗撃シ其ノ罪科ニ因テ死刑ニ処セラル」とある。その日に赦書が出されたが、運悪く間に合わなかったようだ。(□の個所は空白)』と書いていらっしゃいますね
また上記のブログの方は、『後に御角力の者たちが八幡社に一宇を創建、霊を祀り……』とも書いていらっしゃいますね。「遺骸を盛岡八幡宮に持ち込んで力神として祀った」という話は、もしかすれば『盛られまくった嘘話』なのかもしれませんが、山ノ上三太夫の力にあやかろうとして、これに関係する御社を建てた人が過去に存在したのは、もしかすると真実なのかもしれません。
個人的には大昔からある「下ノ橋の一件で殿様の勘気を被り処刑された」といった話に比べれば、遥かに本当っぽい印象を受けちゃいますが、はてさて如何なものでしょうか。
……という事で、何かちょっとでも彼の伝説に関わるヒントが掴めればと、2018年9月20日、梁川の永洞神社に行ってきました。確かに上記リンクのブログに書かれている様に、交通の便が悪く、自家用車でも持っていない限りは行き来に苦労するような場所です。結局周囲には誰もおらず、何の収穫も無しで帰る羽目になってしまいましたけど。
リンク先のブログに書いている事が正しかったのだとすれば、滝沢に遺骸は無く、あの石碑は弟の死を悼んだ姉の「お先」が建てた位牌の様なものだ、という事になりますが、それではこの梁川という辺鄙な場所に、本当に山ノ上三太夫の遺骸が埋葬されたのでしょうか。正直私にはわかりません。
因みに滝沢の石碑には「山上」の文字の他に「命日延宝四年六月十五日」(延宝四年=1676年)と刻まれています。これは三太夫が処刑された時期と一致します。それに対して梁川にある永洞神社の「山上作太夫」とある石碑には「嘉永四年(1851年)七月二十四日」とあります。思い切り江戸時代末期の頃です。コイツは何故なんでしょう。
そしてもう一つ疑問が。先の『南部相撲資料』を紹介した方が真実に近い事をブログに書き記しているとして、何故三太夫の門弟達はわざわざこの場所に刑余の遺骸を葬ったのでしょうか。山ノ上三太夫やその一族に何か縁の深い土地だったという事なのか。三太夫にとって、生まれや育ちに関連が深い土地は、鵜飼でも宮守でも大迫でもなく、実はこの梁川だったという事なのか。それとも、もっと何か別の意図があり、敢えてここに葬ったのか。
ちなみにこの石碑自体は過去に、簗川小学校旧校舎横の長江寺跡にあったものを移設したものらしいです。という事は、取り敢えず今現在、永洞神社に置かれている石碑の直下には山ノ上三太夫の遺骸は存在しないという事になりましょうか。
さて、こうなると基礎知識も歴史的な出来事の検証に関わる見識も持ち合わせていない私のような人間は、ますます訳が分からなくなってきます。
さて、また新たな情報があったなら再びこの件に関するブログを書くかもしれませんが、今回はここいら辺でご勘弁ください。


