盛岡市本町通り一丁目には一方通行の小さな小路があります。大昔は大工町と呼ばれ、その名の通りつい半世紀位前までは、土建関連従事者がよく住まっていたといわれます。現在も年配者は旧名で呼ぶ事の多いこの道路、大元を辿ると江戸時代の比較的早い時期に整備されたものなそうです。
今回は、過去にこの近辺に住んでいたという、ある年老いた女性客から聞いた、この大工町にまつわる昔話を書こうと思います。これを聞いたのはもう10年以上も前だったでしょうか。彼女は戦前生まれで幼い頃、この大工町と呼ばれた小さな小路から直線距離にして数百メートル程離れた愛宕町の一角で生まれ育ったのだそうです。
彼女の父親は昭和初期の当時としては、どちらかと言えば少数派と言えるサラリーマンだったのだといいます。当時は現在で言うところの労働基準法に当たる法律は一応存在していたものの、その内実は現在以上にいい加減であり、貧困で苦しい生活をしている人も多かったと思われます。そんな世の中で安定的で恵まれた月給取りの仕事にありつけるのは、どちらかと言えば少数派だったようです。
食い物、着る物、住む所に関する人の恨みは実に怖ろしく、そしてシツコイ。私は接客商売を長らくしてきた人間ですが、比較的恵まれていたと思われる家庭に生まれ育ったであろう老人のお客様が、ささやかな昔の思い出話に花を咲かせているところに貧困家庭出身と見られる別の老人が「不愉快だから止めろ!」と叱り飛ばしてきたり、或いは「私はそんな華やかな経験、一度もしなかったけどけどねぇ」などと嫌味ったらしい説教をして黙らせたりするような場面に何度か出くわした事があるのです。
ですから、こういった比較的恵まれた環境にいたと思われる層のご老人には、言葉遣いに慎重な方も多い印象があります。現に彼女の思い出話を語る際の物言いは、何処か世の人から無用の反発を受けまいとするような、「石橋を叩くが如く」といった印象の言い回しが多かった。そんな中である程度、お客様に信用していただけたのでしょうか、こういった思い出話を詳しく聞かせて貰えたのはある意味、客商売冥利に尽きる事であったと考えています。
さて、彼女は所謂一人っ子だったようで、両親から随分と可愛がられたようです。そしていよいよ小学生になろうかという年頃になった際、突然父親が「別の学区の学校に娘を通わせる」と言い出したのだとか。本来、愛宕町周辺に住まっている彼女は仁王小学校(盛岡市本町通り2丁目)に通うのが普通なのですが、彼女の父親が「あそこには大工町界隈に住んでいるような、粗野な肉体労働者の子供たちも大勢通う、大事な一人娘が万が一イジメにでもあったら大変だ」と言い出したというのです。
「気取った高給取りの娘」……恐らくですが、そんな風にして貧困な家庭で育った子供達から酷い扱いを受けるのではないか、そんな風に危惧したのだと思います。結局隣の学区にある城南小学校(盛岡市若園町)にわざわざ通う事になったのだとか。彼女はそういった自分の父親の過剰ともとれる子煩悩と神経質ぶりに関わるエピソードを苦笑交じりに語っておりました。
そして現在、この大工町と呼ばれる小路ですが、そういった粗野な雰囲気の人が住む場所という印象は私にはありません。恐らく世間から怖がられていた粗暴な肉体労働者の方達は概ね歳を重ねて鬼籍に入り、その子供達も新しい住まいを作り出して別の場所へと移り住んでしまったのだと思われます。
現在は何の変哲も無い様な戸建てとアパート、そしてマンションがあるだけの小さな道路となっています。盛岡も戦後数十年で随分と変わりました。そして、もしかしたら、そう遠くない未来にはこの大工町の『過去の真の姿』も社会からすっかり忘れ去られてしまう事でしょう。街の歴史というのはそういうものかもしれません。
