我慢のしどころなのかな、『ある決闘 セントヘレナの掟』 | 平平凡凡映画評

平平凡凡映画評

映画を観ての感想です。

【タイトル】『ある決闘 セントヘレナの掟

【評価】☆☆(☆5つが最高)

【監督】キーラン・ダーシー・スミス

【主演】リアム・ヘムズワース

【製作年】2016年

 

 

【あらすじ】

 19世紀末、テキサスの川にメキシコ人の遺体が次々と流れ着く事件が起きた。テキサス・レンジャーの隊員であるデヴィッドは、川上にある町を調べるよう知事から直接依頼され、妻と共に町へと向かう。だがその町は、デヴィッドと因縁のある一人の説教師によって支配されていた。

 

 

【感想】

 西部劇も日本の時代劇と同様に、勢いに乗れていないようだ。毎年、何本かは日本でも公開されるが、大ヒットにはなかなか結び付かない。おそらくアメリカでも、盛況といえる状況にはないのだろう。今しばらく我慢の時代が続きそう。是非とも、シリーズ展開されるような大ヒット西部劇に巡り合いたいとは思うが、観客の顔ぶれを見ると、なかなか難しいのかも。つい衰退や、先細りといった言葉が浮かんでくる。若者の姿がほとんど見られなかった。

 

 

 この映画のストーリーは、謎めいた町を民兵組織であるテキサス・レンジャーの隊員が訪れ、実態を探るというもの。どこか「地獄の黙示録」の後半部分を観ているようでもあった。カーツ大佐を演じたマーロン・ブランドと、この映画のウディ・ハレルソンのスキンヘッドは共通していた。ただ「地獄の黙示録」の後半もよく分からなかったが、この映画のストーリーもちょっと苦し紛れになっていた。

 

 

 西部劇でオリジナルのストーリーを作ることが、段々と難しくなっているのかもしれない。かなり苦心しながら、行話しを付け加えていた。男らしさと卑劣さの同居はチグハグしていて、どう考えたらいいのか訳が分からなくなる。見せ場となるガン・ファイトもあっけなく、凄さや新鮮さとは無縁で少しガッカリの出来。映画では、一足早く男の世界が消えつつあるのかも。