Fri 221104 錦秋の山形に出張/板蕎麦で痛飲/東京駅丸の内南口の泣きジョーゴ 4290回 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Fri 221104 錦秋の山形に出張/板蕎麦で痛飲/東京駅丸の内南口の泣きジョーゴ 4290回

 順番は前後してしまうが、昨日11月3日、錦秋の山形を訪ねてきたので、京都の思ひ出は少し後に回し、先に山形の1日を書いてしまおうと思う。

 

「山形の1日」と言っても、正確にはホンの半日の記憶である。新幹線が東京駅を出たのは13時、山形からの帰りの新幹線が東京駅に到着したのは23時半。往復の新幹線で6時間も費やしたから、山形滞在はたった6時間。あまりに短い半日の日帰り旅だった。

 

 実は昨年2021年も、11月4日に山形で公開授業を実施している(Thu 211104 代打で山形に向かう/どれほど代講が好きか/御茶ノ水の思ひ出  4118回)。昨年の記事にある通り、昨年はあくまで「代打」だったが、今年は正式にお招きいただいた。 

(錦秋の山形、車窓右側に蔵王の勇姿を望む。懐かしいスキー場のスロープがいっぱいだ)

 

 ただし、今の情勢はあまりにも不穏。10月中旬には親しらずを抜いて、しばらく口を開けられなかった。

 

 だから公開授業も10月21日の金沢以来2週間ぶり。いくら大ベテランでも、2週間ぶりに人前に立てば、90分間マトモに話し続けられるかどうか不安なものである。

 

  前日から、天気予報もまた面白くない情報でいっぱいだった。「明日の日本海側は大荒れ」とおっしゃるのである。11月3日の朝、日本海に低気圧が発生して急激に発達、「新潟・山形・秋田では、豪雨と落雷に注意」「山間部では雪の可能性も」と、各局の天気予報士が口を揃えた。

 

 諸君、やっぱりまたハメハメハ大王の登場だが、20世紀終盤から21世紀初頭の受験生は、「風が吹いたら遅刻して、雨が降ったらお休みで」が常識だった。

 

 あの頃は、雨の日の「Pretty塾」も「どうすんだい?」も(ともに仮名でございます)普通のセンセなら出席率80%程度、佐々木ゼミあたりの人気のないセンセなんか(すべて仮名でございます)、下手をすると50%を下回る勢いだった。

 

 だから「日本海側で雷雨の確率50%」みたいな予報が出ると、今でも恐ろしく憂鬱になる。前回書いた通り、何しろ生徒の授業アンケートやら出席率やらで、講師の評価が決まる世界。雨や風や雪や嵐、その種の不可抗力なんか、ちっとも評価の考慮に入れてもらえない。

  (錦秋の山形、福島 → 米沢間「板谷峠」付近の紅葉)

 

 もちろん、今やワタクシは押しも押されもせぬ♡大御所&大ベテランであって♡、馴染みの床屋さんも馴染みの居酒屋も、馴染みの定食屋もお蕎麦屋も、何故かみんな今井の正体を知っている。ここまでくれば、ちょっとやそっとの雨も風も怖くはない。

 

 びっくりしたのは「歯医者さん」「眼科医の先生」であって、彼ら彼女らもまた今井の正体をご存知だ。下手をすれば「ムスコがお世話になりました」「ムスメが今ちょうど先生の授業に夢中です」と、診察台の上で告白されかねない。 

 (錦秋の山形、米沢 → 赤湯付近の豊かな田園地帯を進む) 

 

 しかしそれでも、予備校講師のサガというか、女のサガ、男のナガサキ、雨や風や雪や雷のせいで公開授業会場に空席が1つでも出来るのがイヤなのである。

 

 ただでさえコロナ以来の「1席あけ」、「3密を避けましょう」、きっと30年後には伝説になっているだろう常識のせいで、ガラガラ感に苦しむ日々が続いている。

 

 そこへ諸君、「Jアラート」という事態になった。「日本を超えて飛んでいく」というミサイル君のせいで、Jアラートが新潟・宮城・山形に発令。いやはや迷惑なことこの上ないが、例の丸顔ダンナが発射したミサイル君のせいで、山形新幹線も一時運転を見合わせる事態になった。

 

 雷雨にミサイル、それじゃイマイ1年ぶりの山形公開授業は、出席率5割、いや4割、いや3割、悪夢に悪夢が重なって、オウチの玄関で黒の革靴を履きながら、わがままなワタクシは「行きたくないよ」と5回ぐらい、深い深い溜め息をついた。 

(錦秋の山形、上ノ山から蔵王を右に見ながら山形市に接近する)

 

 新幹線は、驚くべき大混雑。リベンジ旅行というのか何というのか、新幹線もヒコーキもみんな超満員で、ANAの株価だってコロナ前の水準をとうとう超えてしまった。山形新幹線もほぼ満員の状況で東京駅を出発した。

 

 山形まで、約3時間。11月初旬の東北新幹線は、何が何でも車窓にはりついて過ごすべきだ。宇都宮を過ぎる頃から紅葉が目立ち始め、栃木県から福島県に入るあたりからはまさに「錦秋」、こんなに美しい車窓を無視してスマホでゲームに夢中のヒトって、いったい何のために旅に出たのか、ワタクシには不思議でならない。 

(米沢駅にて。米沢城、米沢牛に米沢ラーメン、来年はぜひ米沢を再訪したい)

 

 福島から、板谷峠を越えて米沢へ。このあたりからは、ワタクシなんかは1駅ごとに列車を降りて駅の付近を散策したくなるのである。

 

 板谷峠の中間点に、その名もズバリ「峠」という駅があって、「峠の力餅」の立ち売りで有名。数年前、わざわざ「峠の力餅」のためだけにここを訪ねたこともあった(Mon 200629  新講座収録開始/福島県郡山で公開授業/「峠の力餅」を買いに 3951回)。

 

 米沢を過ぎると、米沢盆地から山形盆地にかけての豊かさに感激する。まさにフルーツ王国の真骨頂であって、スイカにモモにメロン、サクランボにブドウにカキにリンゴ、コメも旨いしラーメンも旨い、蕎麦も旨いし米沢牛も旨い。

 

 こんなに旨いものばかりワンサと収穫して、まさか受験生の学力がつかないはずはない。まもなく赤湯駅を過ぎ、上ノ山温泉を過ぎ、右の車窓に蔵王の勇姿が見えて、16時ちょっと前に山形駅に到着した。 

  (山形駅にて。ペロリン君の勇姿が嬉しいじゃないか)

 

 山形での公開授業は、出席者130名、保護者同伴である。その「保護者」が、びっくりするぐらい若々しい。思えば我が予備校講師歴もすでに30年、初めて教えた高3生や浪人生は、すでに年齢45歳を超えている。

 

 30歳代のママ、40歳代のパパ、そんなの全く珍しくない。そういう保護者の皆様には、今井の元生徒だってたくさん混じっている、心の底から嬉しそうに、昔を思い出して腹を抱えて笑っていらっしゃる。

 

 ホントなら授業終了後に、そういうパパやママを引き連れて、山形の居酒屋でも訪ねて昔語りでも楽しみたいのだが、まあ諸君、まだコロナの世界は終わっていない。今はあくまで大人しく、20年前や25年前の楽しい思い出をムスコやムスメと共有していただくぐらいしかない。

         (山形の大盛況 1) 

 

  公開授業は17時スタート、「20秒に一度の大爆笑」の今井スタンダードで、時間ぴったり18時半に終了。もちろんまだ「懇親会」「お食事会」要するに「大宴会」は実施されないから、終了後の今井君は一人寂しく山形での「単独パーティー」に向かう。

 

 単独パーティーの会場は、山形名物「板蕎麦」のお店。もちろん躊躇なく板蕎麦を注文すると、店員さんが少なからず驚いた表情で、「板蕎麦は、2.5人前ぐらいになりますが、大丈夫ですか?」と問い返す。問い返すというより、要するに「無理ですから、ヤメときなさい」という説得の表情である。

         (山形の大盛況 2)

 

 しかし諸君、単独パーティー時の今井君の食欲を侮ってもらっては困る。公開授業でこんなに盛り上がった今井君が、宴会も懇親会もお食事会もナシに、たった1人で祝勝会に臨んでいるのだ。

 

 食欲はもちろん全開、お酒の方も「来るものは一切拒まない」、相手が武蔵坊弁慶なみのスーパー豪傑だって、一撃でなぎ倒すぐらいの勢いだ。

 

 実際にその「2.5人前です」という大盛り蕎麦を15分で平らげてみせた後、驚くなかれワタクシは「もう1軒」を求め、蕎麦屋のそばを右往左往した。

 

 帰りの新幹線は、山形を20時43分発の最終電車。ちょっと思い出してみてくれたまえ。コロナの日本は、3年前も一昨年も昨年も、東京や京都&大阪や札幌&博多でさえも、夜7時がラストオーダー、夜8時を過ぎて明かりのついている店なんか皆無だった。

(名店「三津屋」にて、板蕎麦をいただく。これで「半板」、2.5人分なんだそうな)

 

 昨年の山形もそうだった。駅ビルでさえ夜7時には「蛍の光」が延々と鳴り響き、一般客も酔っ払いも容赦なくお店の外に押し出された。「では山形駅前の繁華街は?」と店を探し求めても、受け入れてくれる店は一軒もなし。コンビニで買ったお酒を握りしめて東京への新幹線に乗り込んだ。

 

 しかし今年は、嬉しいじゃないか、お店はナンボでも開いている。ワタクシは、たった今お蕎麦を2.5人前見事にすすり終えた「三津屋」のお隣の居酒屋に陣取って、20時43分の東京行き最終電車まで、日本酒の熱燗を皮切りに、地元・高畠ワインの白ハーフボトルなど、思うぞんぶん山形の秋を楽しんだのである。 

 (ま、やっぱり今井君だ、2.5人前、カンタンに完食した)

 

 そういうことになれば、新幹線の中はもちろんほぼ意識不明だ。山形を出て、米沢まではまだ日本酒を飲み続けたが、福島と郡山の中間ぐらいで意識を失い、大宮を過ぎて上野に接近するあたりまで、おそらく高イビキで熟睡していた。

 

 東京駅に到着、23時30分。もう人もマバラな東京駅丸の内南口の地下道を、地下鉄千代田線の二重橋前駅まで延々と歩くのであるが、いやはや寂しいことこの上ない。

 

 東京駅の丸の内南口と八重洲北口、この2ケ所には、誰にも分からないほど思い入れが深いのである。

 

 もう20年も昔のことになる。毎週1回の名古屋出張から帰ってきた夜9時過ぎの東京駅で、その夜の飲み会の待ち合わせをするのは、丸の内南口か八重洲北口か、その2者択一だった。

 

 丸の内南口なら、飲み会は丸ビルか新丸ビル。八重洲北口なら、飲み会は丸善や高島屋の近くの路地の居酒屋。どちらにしても似たようなつまらない居酒屋で、あんまり高くない酒を日付が変わる頃まで痛飲した。 

(近くの居酒屋で、日本酒の熱燗1合と、高畠ワイン白を追加する。オイシューございました)

 

 名古屋から東京までの新幹線の中でだって、名古屋の駅弁をサカナにたっぷり酒を飲んでくるのである。21時過ぎの丸の内や八重洲で待ち合わせて、それから大急ぎで安酒を流し込み、さらに1軒も2軒もハシゴすれば、帰宅するのはたいてい午前2時か3時を過ぎた。

 

 それでも翌朝6時か6時半に起床、ザブンとお風呂に飛び込んで、代々木やら横浜やらの朝1番の授業に、意気揚々と出かけていった。

 

「いったい予習はどこでやってたの?」であり、「どうやって代ゼミで参考書8冊も出したの?」であるが、要するに「まだあの頃は若かった」ということであって、ほとんど寝ないで連日連夜飲み歩いても、20年前はちっとも疲労を感じなかった。

 

 もしも「疲労」というだけの話なら、昨夜のワタクシだって疲労はちっとも感じなかった。日付が変わった時点で「もう90分、授業をしてくれませんか?」と頼まれれば、90分どころか、90分×2、いや×3、夜が明けるまでだって、強烈な迫力で語り続けることはできた。

 

 問題は、意欲である。当時はあんな疲労と多忙の中で、往復の新幹線の中だけで参考書を8冊、あっという間に書き上げた。その意欲がナンボでもあった。 

    (今年の山形も、いやはやマコトに楽しかった)

 

 今はどうか。いや、書きたい参考書は、実は5冊ほど存在するのである。書きたいな、書きたいな、そう思ってはいるが、山形からの新幹線でも要するにワタクシはお酒を飲んでほぼ2時間熟睡するばかり。意欲はなかなか実現しない。

 

 というわけで諸君、懐かしの東京駅丸の内南口を今井君が通過したのは23時40分。地下道を通って地下鉄二重橋前駅のホームに立ったのが、23時50分。自宅近くの駅に着いた時には、もうとっくに日付も変わっていた。

 

 その間ずっと口をついて出る言葉は、「なつかしいな」「なつかしいな」「あのころは」「あのころは」「あのころは」の連続。何だかあんまりなつかしくて、思わず泣きジョーゴの本領を発揮するワタクシなのであった。

 

1E(Cd) Holliger & Brendel:SCHUMANN/WORKS FOR OBOE AND PIANO

2E(Cd) Sonny Clark:COOL STRUTTIN’

3E(Cd) Miles Davis:KIND OF BLUE

4E(Cd) Sonny Clark:COOL STRUTTIN’

5E(Cd) Miles Davis:KIND OF BLUE

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