Sat 220514 「さす」に関する考察/状差しの秋田犬/大館でイタリアンに感激 4215回
まあまた、いかにも読者が飛びつきそうにない地味な話題から始めるのであるが、諸君は「さす」という動詞に、興味をもったことがあるだろうか。あるいはその連用形「さし」に関心があるだろうか。
この種の「いかにも興味を引きそうにない話題」に固執するあたりが、「情報発信力のなさ」の象徴になるのかもしれないが、いいじゃないか、ぜひ「さす」を今すぐ辞書で調べてくれたまえ。「さす」に対して当てられた漢字の種類の多さに、まずは「なるほどな」と頷く人が多いはずだ。
「指す」「挿す」「差す」「射す」「刺す」から始まって、「点す」「插す」「注す」「止す」まで、これほど当てられた漢字の多い動詞は、我々が誇るニュアンス豊富な日本語の中にも、そんなに多くないはずだ。
ワタクシは、この種の当てられた漢字の多い動詞のニュアンス追求こそ、行き詰まった学部生や院生の論文の突破口となると信じている。どうだい諸君、以上の「さす」に何か共通したニュアンスがありはしないか。
今日もお風呂で1時間、体内の水分が全て流出するまで汗を流し、それでも決着がつかず、お風呂上がりのビールを2本グイッグイッと飲み干した段階で気が付いた。
(我が貧しいコレクションより、3円ホトトギス切手、2円秋田犬切手、5円オシドリ切手、5円声良どり切手。むかしの秋田犬の素朴な勇姿を眺めてみてくれたまえ)
「さす」とは諸君、「一定の方向性に突き進んだものの、目標の完全達成に至らぬまま、ある程度の達成段階でいったん放置する状況」を意味するのではないか。
まあそういう結論でいったん満足して、それこそ放置することにした。要するに、今日の今井君のそういう思考の保留こそ「さす」の本質だと思われる。
まず何と言っても、「食べさしのサンドイッチ」「飲みさしのコーラ」「読みさしの本」という表現を考えてみてくれたまえ。もしかしたら、21世紀の日本語では死語になりかけているかもしれない。それぞれ「食べかけのサンドイッチ」「飲みかけのコーラ」「読みかけの本」の意味である。
このニュアンスで「さし」を用いる場合、動詞としての漢字は「止し」と書く。「やり始めておいて、途中で止める」なんだから、「止し」と当てられた漢字も、マコトに正確にそのニュアンスを示している。
(秋田県大館「秋田犬会館」で2頭の秋田犬に挨拶する)
そこで「方向性だけ示しておいて、最終目標に達しない段階で放置する」のニュアンスが当てはまるかどうか、国語辞書に示された全ての漢字について、1コずつ考察を加える。
おお、すると諸君、余りにどんどん「ポンッ」と膝を打つように理解が通じ、もううれしくてうれしくてたまらない。「指す」とは、方向性の指示であって、実行はまさにこれからの状態だ。
「刺す」「挿す」も、何か先の尖ったものを相手方に突き立てはするけれど、その最終目標を達成してはいない。
目標の達成は「さしつらぬく」「さしとおす」、物騒すぎてさすがに記述に躊躇するが「マクベスがダンカン王をさしころす」も同様、何か別の動詞を+αで複合しないと、「さし」単独では最終目標は明示されない。「さししめす」「さしむける」も同じだろう。
(秋田県大館「秋田犬会館」。大館駅からクルマで10分ほどかかる)
「射す」「点す」というのも、「明るい日が射す」「希望の光が射す」であって、明るい日がさしても、まだ地面や空気が温められたわけではない。希望の光がさしたからといって、希望はまだ希望のまま、実際にはまだ絶望の色が濃いのである。
「きざす」「こころざす」という2つの動詞についても、それはまだ「気配」や「こころ」に「きざした」だけのことであって、夢の実現どころか、実現への行動に動き出すかどうかさえ、まだ明確ではない。
ある程度の方向性の提示、しかし目標達成への動きがきざしただけで、目標完遂とか実現については中途半端に放置されたまま、それが「さす」であり「さし」である。
(大館市の中心部に、江戸の昔をしのばせる地名が残っている)
いやはや、今井君の日々はこんなふうに過ぎていく。お風呂の中でも、お食事中でも、授業中も宴会中も睡眠中も、この種の思考がとめどなく流れていて、すぐそばに座っていても「コイツ何考えてんだ?」と誰もが不審に思うらしい。
いつだったか、夢中で「さい」について考えていた昼下がりがあった。今日は「さす」「さし」だったが、あの日は京都の西院から始まって、「さい」という日本語には深く隠された意味があるに違いないと思い、30分ほどの間、他に何も考えることができなかった(Wed 180117 西院と書いて「さい」/サイのこと/京都の大盛況(関西満腹旅1))
(秋田県大館「トラットリア・ダリーズ」のイタリアン。おいしゅーございました 2)
どうしてそんなに「さし」「さす」に踏み込んでしまったかというと、ふと「状差し」を思い出したからである。21世紀生まれの諸君は知らないだろうし、見たこともないかもしれないが、20世紀の日本にはどの家庭にも必ず「状差し」というものがあった。
郵送されてきた手紙やハガキを突き差しておくのが、状差し。状差しと書いて「じょうさし」と読む。昔の日本家屋では、一番大事な部屋の柱の最上部に柱時計がかかり、その下に状差し、その下に寒暖計、その光景を眺めて「実家に帰った」「ふるさとに帰った」と実感したのである。
「状差し」とは、「送られてきたお手紙を、とりあえずそこに保管して、近い将来その返事を書くまで、とりあえず保留しておく」というもの。その「とりあえず」2連発こそ、今日の記事冒頭でワタクシが展開した考察の具体例である。
今と違って20世紀後期までは、日々配達される封書やハガキの数は圧倒的に多かった。まあ諸君、諸君のスマホのメールやら迷惑メールやらの数を数えてみたまえ。かつての家庭のポストには、それとほぼ同数に封書やハガキが、郵便受けにズンズン山ほど投げ込まれた。
だから、どこの家庭でも「状差し」は必須。「この手紙、どうする?」「このハガキ、どうする?」「返事する? 無視する?」と、たやすく対応の決まらない郵便物が、状差しに山積みになった。今からホンの20年前まで、「状差し」は必要不可欠な家財道具だったのである。
(秋田県大館「トラットリア・ダリーズ」のイタリアン。おいしゅーございました 2)
ここまで書いてきてやっと本日の本題になるのであるが、もしもコドモが郵便切手の収集に夢中になれば、親の状差し、祖父母の状差し、この2つの状差しはまさに宝の山だ。親や祖父母の状差しを覗き込んでは、封筒に貼られた使用済みの切手を切り抜いて、自分の貧しいコレクションに加えるのである。
今日の写真の最初の1枚を眺めてみてくれたまえ。オシドリの5円切手、ホトトギスの3円切手。みんな祖母の状差しに10年も20年も残っていた封書から切り抜いたもの。さすがにオバーチャンの状差しには、十何年も放置されている封書がナンボでも突っ込まれていた。
秋田犬の2円切手もそうだが、5.00と印刷された「声よし鶏」の5円切手も、バーチャンの状差しからのもの。さすがに戦後直後の手紙だったか何だか、まだ「円」以外に「銭」も存在した時代の切手である。
我が母方のバーチャン「エス」は、秋田の田舎の実家に「ねえや」「ばあや」がいて、雨の日には「ねえや」が学校まで傘を持って迎えに来たというオジョーサマだったらしいが、さすがに晩年は状差しに新しい手紙はあまり差さって(挿さって)いなかった。
この切手のデザインになった尾長鶏、秋田での通称は「声よし鶏」であるが、コイツもまたかつての秋田県大館の名物。今や大館市は「秋田犬の町」にイメージを一本化してしまっているが、かつては「曲げわっぱの町」、ブランド比内鶏についても「尾長鶏」「声よし鶏」の町として有名だった。
(大館駅前「秋田犬の里」)
秋田犬については、ザギトワさんでもプーチンでもすっかり有名になっちゃった。しかし半世紀前の2円切手に残された秋田犬の勇姿、どうだい、今テレビで売れっ子の秋田犬くんたちと比較して、グッとシンプル、グッと素直な日本犬らしくないか。
諸君、むかしむかしの秋田犬の姿は、実はこんなにシンプルだったのである。超高級ブランド化されて、どんどんカッコよく、どんどん垢抜けた姿に育て上げられて、いやはや、みんな余りにイケメン、アンヨが長くて余りにもスマートだ。
むかしむかしのワタクシの記憶に残っている、あの素朴なタゴサク犬やサトイモ犬は、記憶のかなたに消えていった。例えば諸君、2018年の今井君はイタリア・ガルダ湖岸の町ペスキエラで、秋田犬の「AKI」と遭遇した(Sun 180930 冬物語/ペスキエラへ/秋田犬のAKI(イタリアしみじみ15)3729回)。おお、写真をみるに、やっぱりすっかり西洋犬のオモムキだ。
(大館駅前「秋田犬の里」で、むかしむかしの東急東横線の車両が余生を送っている 1)
まあ致し方ない。大館駅からタクシーに乗って、まず「秋田犬会館」に向かった。JR大館駅前の「秋田犬の里」とは違って、クルマで10分もかかる「秋田犬会館」の方には、訪れる観光客もそんなに多くないらしい。
しかし「秋田犬会館」では、事務所で職員と一緒に生活している秋田犬2頭と近距離で向き合える。秋田犬は勇猛果敢、ヨソ者にとっては危険な存在。滅多なことでオリ&リーシュなしの至近距離で親しくオハナシのできる相手ではないから、たいへんいい経験をさせていただいた。
ランチを求めて閑散とした昼の大館市内を歩き、思いがけずイタリア料理店「トラットリア・ダリーズ」を発見。諸君、是非ググってみてくれたまえ。これほど閑散とした田舎町で、こんなに旨いイタリアンの店に巡りあうとは思わなかった。
お店の人と話してみると、「もう10年以上この店を続けています」とのこと。ホンキのシチリア料理であって、3種しかないグラスワインも悪くない。お隣のテーブルの地元の会社社長とともに、「まさか大館でこんなに旨いイタメシとは」と、心の底から嬉しいランチになった。
(大館駅前「秋田犬の里」で、むかしむかしの東急東横線の車両が余生を送っている 2)
午後遅い時間帯から、弘前&新青森経由で函館に向かう。長かった4月大旅行の最終目的地は北海道。しかしその前に、もう一度秋田犬の勇姿を眺めたい。ワタクシは大館駅前の「秋田犬の里」に立ち寄った。
マコトに残念なことに、「今日は秋田犬は休養日です」ということで、もともと渋谷駅にいた東急東横線の電車「あおがえる」の見学ぐらいしかできない。
しかしそうやってションボリしていると、事務職員の方が「特別に、一番若い1頭を見せてあげましょう」と申し出てくれた。秋田犬女子の一頭と、至近距離で5分。名前は確か「コマちゃん」だった。いやはややっぱり、たまにはグッと深めにションボリしてみせるのも、人生のワザの1つかもしれない。
1E(Cd) Eduardo Egüez:THE LUTE MUSIC OF J.S.BACH vol.2
2E(Cd) Eduardo Egüez:THE LUTE MUSIC OF J.S.BACH vol.2
3E(Cd) Eduardo Egüez:THE LUTE MUSIC OF J.S.BACH vol.2
4E(Cd) Eduardo Egüez:THE LUTE MUSIC OF J.S.BACH vol.2
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