Thu 210610 ナマの逆襲/論理の傲慢/ナマか映像か15(ウィーン滞在記28)4071回
まあ諸君、前回まで15回に及ぶ長い長いハナシをカンタンに読み返してみると、2000年代までは「同時ナマ中継タイプ」全盛期、2010年ぐらいから「完全スタジオ収録タイプ」の勃興と隆盛、やがて2020年が近づくにつれてスタジオ収録の蹉跌とナマ授業の逆襲が始まった、そういう流れが明らかになる。
「90分の尺に入りきらない」「90分では自分の魅力と能力が完全に伝えられない」と嘆く先生たちの不平不満が、せっかくの90分をズタズタに切り刻む動きにつながってしまった。
90分授業をバラバラの10分動画9本、短時間の小コーナーごとに切り刻んでしまうのは、古代メソポタミア以来7000年だか8000年だか、人類が営々と積み上げてきた授業という芸術を、無慈悲に破壊してしまう行為である。
教師は、疲労する。生徒も、同じように疲労する。授業の後半から終盤にかけての充実感は、その疲労や汗と不可分のものである。1つのテーマを講師と生徒が共有し、ともにテーマを追及し、大河の上流から中流へ、中流からついには河口域に至る。そういう感動こそが授業という作品の本質である。
(ウィーン・ベルベデーレ宮殿、2019年12月27日。あのころは、2020年が栄光の1年であるように思えた 1)
「ナマか映像か」の選択に逆転の余地があるとすれば、映像が単なる10分動画の足し算に堕した時なのだ。磨きあげた各パーツの完璧さに酔い、「こんなにキレイなモザイクを積みあげたんだから美しいに違いない」と誤解し、ピース全体で描くマクロの美をないがしろにする頃に、「こんなのより、ナマがいい」という声が湧きあがる。
コマ切れ動画を寄せ集めて1つにまとめる方向性は、おそらく確実に失敗する。パーツの1つ1つをどれほど完璧に磨き上げても、アソート系、詰め合わせ型、臨場感のない作品群に未来はない。かつての同時ナマ中継まで逆戻りしなくてもいいが、あの頃に負けない臨場感を振り捨ててはならない。
90分の授業は、必ず90分で収録を終えるように心がけるべきだ。細かくコーナーに分割するんじゃなくて、スタジオに入ったら一気に1本、最初から最後まで突っ走ったほうがいい。10分のパーツを完璧にすることよりも、90分を貫く大きなドラマ性を優先すべきなのだ。
(12月27日、ハイリゲンシュタットからベルベデーレまで、1時間以上トラムに乗って移動した)
もともと90分に入りきらなくて120分もかかっていたものを、それでも90分の小さな袋に押し込もうとすれば、授業冒頭で「あらかじめ完成した板書」がいきなり出現する。
完成された板書が、10分ごとに切り替わる。板書を消しながら講師がちょっと軽く冗談を飛ばす姿もない。ホントに野党の予算委員会質問と同様、見る側は板書やパネルを仔細に眺める気も失ってしまうのだ。
ワタクシは、教師も講師もカッコつけすぎなんだと考える。教師は、もっとみっともなくていい。思考の鈍さを生徒に見透かされるのがコワくて虚勢を張り、自らのノロノロした思考経路を隠し通そうとする。「こんなに鮮やかな解法だ」「あまりに鮮やかな論理的思考だ」と、自らも誇り、他者の絶賛も浴びたいのである。
しかし、それは間違いだ。講師はむしろ、論理的思考に慣れていない生徒諸君とともに、ゆっくりと90分をかけ、びっしょり汗をかきながら頂上を目指すべきだ。講師とは、ヒーローでもヒロインでもなく、神でも天才でもなくて、生徒諸君の優しい伴走者ないし伴奏者に徹すべき存在なのだ。
(ウィーン、トラム車内風景。またいつかはと心細し)
そもそもワタクシは、「論理的思考力を鍛えます」というセリフを嫌悪する。新聞の論調も、テレビのコメンテーターも、文部科学省に選ばれた教育再生委員会の「専門家」も、みんな口を揃えて「論理的思考力」「論理的思考力」と連呼するが、論理的思考力なんかで、人を幸福にすることはできない。
前にも何度か書いたことがあるが、論理とは常に直線的なもので、曲線的な論理とか、円形や楕円形や球形の論理などありえない。出発点と目的地を直線的に結ぶことしかできないのが論理であり、だから論理はマコトに酷薄、酷薄を超えて暴力的、油断すればすぐに暴走する。
人の幸福は、直線的暴走からは決して得られないのであって、むしろ我々が求めるべきものは、爽やかな風景を満喫しながら走る穏やかな春の朝のジョギングである。走る者が経験の少ない青少年なら、優しい大人の伴走者が必要だ。
(ハイリゲンシュタットからベルベデーレまでは、数え切れないほどの停車場が並ぶ)
論理的思考が直線的に暴走して取り返しのつかない結果を生んだ歴史は、十字軍時代にもルネサンス期にも相次いだし、19世紀20世紀の近代史は、暴走のあげく民間人を大量に殺戮した記録に満たされている。
論理の暴走に歯止めをかけるのが「倫理」であって、相手が青少年である場合には特に、論理への歯止めが意識されなければならない。
しかし21世紀の教育論はあくまで論理先行。「倫理」なんてものは「役に立たない」の一言で競技場の外にポイ。先生方がポイ捨てするから、生徒諸君も当然ポイ捨てを何とも思わない。
(ウィーン・ベルベデーレ宮殿、2019年12月27日。あのころは、2020年が栄光の1年であるように思えた 2)
ワタクシは18歳のころ、駿台の数学の長岡亮介師があんまりカッケーので、「おや、こりゃ予備校講師になるのも悪くありませんな」と考えた。
何しろ大昔の駿台文系トップのクラスだ。クラスの200人、ほぼ全員が「早稲田政経と慶應経済は合格したが、第1志望はゆずれない」という優秀な諸君だった。
200名教室はカンペキに満員。「長岡師って、東大数学科卒、いまは東大のドクターなんだってよ」というウワサが広まれば、東京中の浪人生がモグリに来て、教室にはナンボでも立ち見がいた。
ゴルフに茶道にバイクにスキーにテニス、趣味も多彩なスーパー秀才が教壇に立ち、上下を黒で揃えたスマートな服装で、東大数学の難問を涼しい顔で解いて見せれば、そりゃ超人気は当たり前だ。
秋田の田舎の高校を出て、早稲田政経と法には合格したが、やっぱり今井君も第1志望をゆずれない。友人たちと同様、国語や英語は全て欠席しても、数学だけは必ず出席した。中でも長岡亮介師、これは絶対に外せなかった。
(ウィーン・ベルベデーレ宮殿、2019年12月27日。あのころは、2020年が栄光の1年であるように思えた 3)
その長岡師が、ちょうど今と同じ季節、6月中旬の授業で、数学の証明問題について以下のような発言をなさった。クラスの諸君はみんな嬉しそうに小さく拍手したものである。
「数学にしろ何にしろ、証明問題というのは、出発点と目的地がハッキリ示されていて、その2点を直線的に繋げばいいだけのこと」
「しかし君たちはそれが出来ない。まるでブラウン運動みたいに、他の分子にぶつかってユラユラ空間を揺れてばかりいる」
いやはや、まさに図星をつかれた思いで、若き今井君は呆然としたのであるが、何を言われても長岡師一辺倒だった今井君が、「あれれ?」と、ふと思いもかけない反発を感じたのも、あの時のことである。
ま、要するに数学の才能が決定的に欠けている証左に過ぎないのであるが、あの時から今井君は「その愚かなブラウン運動に、一緒に付き合ってあげるのが教師の役目なんじゃないか」と、しみじみ思うようになったのである(ブラウン運動を中心に、もちろん次回に続きます)。
1E(Cd) Philip Cave:PHILIPPE ROGIER/MAGNIFICAT
2E(Cd) Savall:ALFONS V EL MAGNÀNIM/EL CANCIONERO DE MONTECASSINO 1/2
3E(Cd) Savall:ALFONS V EL MAGNÀNIM/EL CANCIONERO DE MONTECASSINO 2/2
4E(Cd) John Coltrane:BLUE TRAIN
7D(DMv) KINGDOM OF HEAVEN
total m50 y656 dd26496