Wed 210609 パーツは完璧/疲労の共有/ナマか映像か14(ウィーン滞在記27)4070回 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Wed 210609 パーツは完璧/疲労の共有/ナマか映像か14(ウィーン滞在記27)4070回

 パーフェクトに満足のいく作品を作り上げるために(スミマセン、前回の続きです)、「ピース&ピース、またはパーツ&パーツを徹底的に磨き上げたい」という欲求&欲望は、古代&中世の大昔から職人肌のヒトビトの特徴であって、そのこと自体は非難や批判の対象ではない。

 

「目に見えない微小な細部までカンペキに製作したい」。その欲求なくして、マイスターも職人カタギも生まれることはありえない。自ら製作した作品にキズが見つかった場合、マイスターも職人も自ら恥じ入って、作品を粉微塵に打ち砕く。

 

 昔の映画やテレビドラマに登場した頑固な焼物職人は、せっかく焼きあがった陶器を、全て容赦なく叩き割ったものである。「カンペキな作品しか他者の目に晒したくない」「自分は常にパーフェクトである」、マイスターなら賞賛されるその態度は、しかし果たして教師や講師としても誇るべきキョージなんだろうか。

 

 我々がいま論じているのは、マイスターや陶器職人の作品ではなく、「授業」ないし「教師」というマコトに中途半端な存在なのである。果たして授業や教師が、生徒諸君にとって非の打ち所のないカンペキな存在であるべきなのかどうか。議論の中心はそこに移っていかなければならない。

(2019年12月27日、ウィーン・ハイリゲンシュタット。ベートーヴェンの散歩道を散策した 1) 

 

  パーフェクトな作品を作り上げたければ、全てのパーツをカンペキに磨き上げたいのは当たり前だ。しかしその欲望のせいで捨象される臨場感と緊張感こそ、実はマクロの作品全体にとってかけがいのないものなのではないか。

 

 まあ諸君、例えばベートーヴェンの交響曲を1つ、1枚のディスクに収録するプロセスを考えてくれたまえ。今井君がもしディレクターなら、第1楽章から第4楽章まで約1時間、指揮者とオーケストラの疲労やら不調やら何やら、一切考慮することなく一気に収録してしまう。

 

 ワタクシが一番好きなのは交響曲7番であるが、3番でも8番でも9番でも、とにかく最も好ましいのはコンサートのライブ録音であって、せっかくのライブ感覚をスタジオに持ち込んで、臨場感が消滅するのを何よりも恐れるのである。

 

 ところが今や時代の動向は、指揮者とオケの疲労を考慮し、1つ1つの楽章をバラバラにして、ある日の午後に第1楽章、翌々日の午前中に第2楽章、1週間後の夜に第3楽章を録音し、その翌日に第4楽章を収録、そういう「アソート化」「詰め合わせ録音」でレンガを積み上げ、疲労を全て排除して最初から最後までみんなノリノリの1曲を作り上げる。

 

 そのタイプの収録をすれば、そりゃ1楽章ずつの演奏はパーフェクトでキズの一切ない最高のシンフォニーが出来あがるだろうが、パーツ&パーツがそれぞれ無関係にピカピカ磨き上げられた演奏を聴いて、聴く者の心にどんな感激や感動が湧きあがるかは、全く別の議論になる。

(2019年12月27日、ウィーン・ハイリゲンシュタット。ベートーヴェンの散歩道を散策した 2)  

 

 ほぼ同じことは、例えば日本史の勉強なんかにも如実に現れる。ワタクシの手許に、山川出版社「日本史小辞典」がある。マコトにコンパクトで簡潔、あいうえお順で要領よくまとめられていて、日本史学習にこんなに便利なアイテムは考えられない。

 

 しかし今、このほぼパーフェクトなアイテムを用い、1日に10項目ずつ熟読して300日、ついに日本史小辞典1冊を読破したとする。そのことによって得られた日本史に関する認識が、現代において求められる日本史学習の本質に合致するのか、あるいは日本史学習の感激に直結するかどうか、それは甚だ疑わしい。

 

 むしろ我々は、同じ山川出版社の日本史教科書をツルッと一回、まるまる一昼夜で通読すべきだったんじゃないか。小辞典のバラバラな精読と、通史のツルッと通読。パーツをバラバラに磨き上げるか、疲労困憊しながら全体をマクロに味読するか。そのどちらが感動につながるかは、議論の余地がないように思われる。

 (2019年12月27日、ウィーン・ハイリゲンシュタット。ベートーヴェンの散歩道を散策した 3) 

 

 同じことが英語の授業1つ1つにも言える。パーツなりピースなりの完璧さにこだわって10分動画を9つ収録し、レンガを積み上げるように90分授業を製作するよりも、90分を1つの大きな全体として、言わば「粗雑に」制作するほうが、少なくとも生徒諸君にとって大きな魅力のあるものにできるんじゃないか。

 

 もちろんそこには、たくさんの無駄がある。「黒板を消すシーン」なんてのがその代表格。たった90分の授業の中に、センセが大汗をかきながら黒板を消しているシーンが入っているのは、いかにも無駄に見える。そんなの映している時間があったら、もっと役に立つ情報をたっぷり画面に提示してほしいと思うのは当然だ。

 

 授業開始の段階で黒板が完全にまっさらなのも、やっぱり時間の無駄に思うかもしれない。まっさらのボードに、講師がゆっくりゆっくり文字を書き込んでいき、それを生徒がマジメにノートに書き写す。むかしながらのこのプロセス、いやはや、せっかちな人には耐えられない時間の無駄に思えるはずだ。

(2019年12月27日、ウィーン・ハイリゲンシュタット。ベートーヴェンの散歩道を散策した 4)

 

 YouTubersの皆さまの10分動画の世界では、このプロセスが省略されていることが多い。授業開始前からとっくに黒板が文字で覆い尽くされているか、講師の背後の画面にたっぷりの資料なり「パネル」「ボード」なりが映し出されて、受講生諸君はそれを書き写す時間も与えられない。国会の野党代表質問と、状況はほぼ同じである。

 

 そもそもこの種の動画は、「90分ではどうしても自分の魅力を伝えきれない」と焦ったナルシス系のセンセが始めたものである。国会の野党のセンセもそう、予備校の関脇&小結センセも同じ。「時間が足りません」「時間が足りません」という口グセまでそっくりだ。

 

 限られた時間内で、自分の魅力と能力をスミズミまで披露したいとなれば、黒板に文字を少しずつ書いていくとか、黒板の文字を黒板拭きで消していくとか、そういう10000年に及ぶ文明の歴史の中で繰り返されてきた全てを否定し、いきなりデータ満載の画面が視聴者の前に登場する方がいいに決まっている。

 (2019年12月27日、ウィーン・ハイリゲンシュタット。ベートーヴェンの散歩道を散策した 5) 

 

 ところが諸君、まさにそこにこそ最も深い陥穽が待っていたのであって、ヒトと言う存在は、あまりに完璧なパーツやピースを嫌い、パーツを組み立てるだけの単純作業を軽侮し、あらかじめ用意されたデータの世界に引きずり込まれることを嫌悪する生物なのである。

 

 人はむしろ、導く者と疲労や困憊を共有することを満喫する。教師とともに長い90分授業を経験するとすれば、元気ハツラツとした最初の15分ももちろん素晴らしいが、やがて睡魔に襲われる40分経過時もエンジョイできるし、教師の励ましに助けられて過ごす1時間経過の時点でも、むしろその疲労感を満喫するのである。

 

 90分授業の80分が経過した頃は、生徒ばかりか教師ももうヘトヘト、深く濃厚&濃密な疲労は、お互いに隠すことだって容易ではない。しかしそれでも教師と生徒が一体になって、一気にオシマイのチャイムに向かって突き進む。大河が上流から中流へ、下流から河口へ、やがて海に流れ込むのと似ていないこともない。

(2019年12月27日、ウィーン・ハイリゲンシュタット。ベートーヴェンの散歩道を散策した 6)  

 

 同じことは、小説でも演劇でも交響曲でも言えるので、中盤から最終盤にかけて、読者と筆者、演者と聴衆&観衆、その相互の疲労と倦怠を抜きにしては、芸術も文学も授業も理解することはできない。

 

 文学なら、筆者と読者はほぼ相似形の倦怠と疲労を共有する。何もドストエフスキーやプルーストみたいな、長大すぎる作品でなくていい。シェイクスピアにヘミングウェイ、井原西鶴や近松門左衛門ぐらいの、ごく気軽に満喫できる作品群でも同じことだ。

 

 マクベスもハムレットも、老人も老人に釣り上げられた巨大なサカナも、お初&徳兵衛も、梅川&忠兵衛も、作品の終盤では明らかに疲れ切っている。

 

 俳優も筆者も演ずる者もすっかり疲れ果て、「早くお酒を飲みに行きたい」「早く彼女(彼氏)と眠りたい」「オウチに帰りたい」、そういうお互いの疲労困憊は隠しようもない。

 

 音楽だって同じことなので、ベートーヴェンの7番でも9番でも、その感動は作曲家と指揮者、演奏者と聴衆の汗と疲労困憊とともにある。

 

 だからこそロミオとジュリエットは死に急ぐのだし、だからこそブラームス1番の最終盤、聴衆は指揮者の熱い汗にホレボレと見とれるのである。

 

 もしも演奏する側が最後まで疲労困憊にも倦怠にも縁のない絶倫人間ばかりだったとすれば、我々はサントリーホールにもNHKホールにも足を運ばない。人は、時間と空間をともにする他者の疲労に感激する存在なのだ。

 

 今井君の大好きな「スネアのおっさん」も同じである。彼の出番は、演奏会の最後の最後。スクリャービンやラフマニノフの大曲が終わってアンコール、白鳥の湖「スペインの踊り」やラベルのボレロまで待つのであるが、彼の真骨頂は、演者と聴衆の極度の疲労のうちにこそ成り立つのである(次回に熱く続きます)。

 

1E(Cd) Zagrosek & BerinSCHREKERDIE GEZEICHNETEN 3/3

2E(Cd) SequentiaAQUITANIA

3E(Cd) LET’S GROOVE 

4E(Cd) J.D.SoutherYOU’RE ONLY LONELY

7D(DMv) AGORA

total m43 y649  dd26489