Wed 210414 大学1年4月の記憶/ウィーンとの相性(ウィーン滞在記3)4028回 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Wed 210414 大学1年4月の記憶/ウィーンとの相性(ウィーン滞在記3)4028回

 4月も半ば、14日と言えば、大学の新入生諸君は「いよいよ授業が始まった」とホッと溜め息をつく季節。第1志望に合格できた人も、第2志望や第3志望に甘んじた人も、入試関連の歓喜やら失意やらにもそろそろ決着をつけ、新しい生活に少しずつ馴染んでいく頃である。

 

 残念ながら「第4波」らしきものが襲ってきて、またまた「オンラインで」というツラい方向性を検討せざるを得ないらしい。しかしまあ諸君、ションボリしていても何にもならないので、入試関連の歓喜やら失意やらはこのぐらいにして、堂々と前進を始めるしかない。

 

 18歳のワタクシの4月14日は、何しろ周囲の新しい友人たちが滅多やたらに「失意」をこねくり回していたから、ついでに今井君まで失意の冷たい泥をこね回すしかなかった。

 

 第2外国語としてドイツ語を選択したクラスである。最初の英語の授業が終わった後、おもだったメンバー20人ほどが、近くのコーヒー店「エトランゼ」に集まった。やがてその集団のほぼ全員が、お経か呪文のような低い声で「東大に行くはずだった」「こんな所に来るはずじゃなかった」と、同じような愚痴をこぼし始めた。

 

 結局そのまま姿を消した人々もいた。大学に在籍しながら、いわゆる「仮面浪人」になって、翌年にはどこか別の大学に消えたのである。そうかと思えば、あれから数十年、いまだに愚痴をこぼし続け、せっかくマスコミに就職してもなお、卒業した大学の愚痴を言い、母校を罵しり続けている人々もいる。

 

 なるほど、今思えば当時の語学の授業は、お世辞にも優れていると言えるものではなかった。英語の専任教授の英語が、どう考えても英語には聞こえない。そうかと言って日本語にも聞こえない。遥か宇宙の果ての異星人が、地球人の全ての言語をマゼコゼにして習得し、全身を痙攣させながら発音しているみたいな、マコトにフシギな音声だった。

(2019年12月、ウィーンにて。21日の昼まで大阪で仕事に励んでいたワタクシは、22日朝9時、ウィーン王宮内の教会でミサに出席していた)

 

 コーヒー店の20人は、だからまず今受けてきた授業への痛烈な批判から始めた。「あんな授業なら、駿台の伊藤師や奥井師や鈴木長十師の方が圧倒的に優れている」。そういう意見が優勢だった。あの当時は諸君、予備校の世界にも素晴らしいセンセがナンボでもいらっしゃった。

 

 しかしやっぱり、いまさら予備校に戻るわけにはいかないのだから、新入生たちの会話は「すぐにも海外に行きたい」という方向性にかわった。司法試験受験組の3人か4人を除けば、これからどうして生きていくか、海外に活路を求めるぐらいしか思いつかなかった。

 

 何しろ受験の段階で「ドイツ語を選択」した友人たちだから、興味のあるのはフランクフルト・ミュンヘン・デュッセルドルフなど。当時は東西冷戦の真っただ中なので、「ベルリン」と発言した同級生は1人もいなかったと記憶する。西ベルリンは共産圏の東ドイツに包囲され、新入生が目指すには何となく敷居が高かった。

 

 今井君は、何しろ余りオカネのない家庭の出身だから、「海外に活路」と言われても、まだちょっとついていけなかった。そもそもどうして「ドイツ語選択」なんてことにしちゃったのか、どうしてフランス語やスペイン語を選ばなかったのか、その辺も「失敗だったな」と後悔の気持ちでいっぱいだった。

(出発前の羽田国際線ダイアモンドラウンジにて。すっかりおなじみのカレーにシューマイを載っけて貪った。またまた「またいつかはと心細し」である)

 

 どうも若い頃の今井君は、選択科目に失敗する傾向があるのだった。高校の芸術系科目だって、書道か音楽にすれば余裕&楽勝だったのに、ギリギリになって美術を選んでしまって、課題の提出に悪戦苦闘することになってしまった。

 

 高3の理社科選択も、物理・化学・日本史・世界史に○をつけちゃった。後悔先に立たず。地理に生物に倫理社会に、ラクをできる選択肢がたくさん並んでいたのに、事もあろうにこの4科目。友人たちにはずいぶん馬鹿正直を指摘された。

 

 ドイツ語を選んでしまったのも、理由はよく分からない。昭和初期の医学生ならいざ知らず、今や英語でカンペキに事足りるドイツ。ドイツ語を第2外国語として選択するのは、よほどのドイツびいきとか、愛してやまないドイツ語作家がいるとか、そういう人たちばかりだったんじゃないか。

(ウィーン・ヴォティーフ教会。10年前と同じ厳しい姿が印象的だった)

 

 というわけで、「海外に活路」「とりあえずどこかドイツの町に旅に出る」という話題になっても、若き今井君はとりたてて「ここ!!」という町が思いつかなかった。返答に窮して「ウィーンかな♡」と言ってみたのも、あえてドイツではなくオーストリアを持ち出すことで、微妙に目立とうと思っただけのことである。

 

 案の定、同級生の反応は鈍かった。「へえ」「ウィーンに何があるの?」ぐらいで簡単にスルー。すぐにミュンヘンやら、当時は西ドイツの首都だったボンやらの話に戻ってしまった。

 

 というわけで、実際にウィーンを訪ねたのは、ずっと後のことになる。最初が2005年2月。次が200912月。相性がよくないのか余り愛着が湧かず、1回目は4日足らずでヴェネツィアに移動、4日目の早朝、まだ真っ暗な真冬のウィーンから、一気にアルプスを超えた。

 

 例えば、どうしても観たいオペラがあるとか、クリムトの大ファンで「ベルベデーレでクリムト『接吻』に逢ってきたいのです♡」とか、デューラーが大好きで「アルベルティーナで『野うさぎ』を見てきます」とか、そんな熱いモチベーションは1つもないのである。2005年の最初の訪問は、あっという間に終わった。詳細は下の2本を読んでくれたまえ。

 

Mon 140324 ウィーンへ ホテルアストリア シュテファン寺院(ヨーロッパ40日の旅11)

Wed 140326 美術館めぐり カフェ文化 なんだこりゃラーメン(ヨーロッパ40日の旅13)

 

(ウィーン、ヴォティーフ教会にて。2019年12月22日、朝10時)

 

 2回目も、たった4日でブダペストに移動。普段の外国旅行なら1つの町に2週間逗留するのがスタンダードなのだから、ウィーンとはずいぶん疎遠にしてきたのだ。

 

 相性の悪さというのはどうしようもないので、2回目の訪問の時には出発直前に大ケガをした。全速力でダッシュしながら土カベに激突し、ヒタイからリンパ液をダラダラ流しつつヒコーキに乗り込むことになったのである。

 

 だから2回目のウィーンは、どちらかと言えばブダペストとプラハに行くための経由地、「単なる乗り継ぎに過ぎない」という感じで終わってしまった。お風呂の石鹸までチョコレートの香りのド派手な「ホテル・ザッハー」に圧倒されているうちに、4日はまたまたあっという間。旧市街をゴトゴト走るトラムに繰り返し繰り返し乗っているだけで終わってしまった。

 

Fri 091218 12月13日の惨劇(1) その発端と経過

Sat 091219 12月13日の惨劇(2) その結果と影響 いつも前のめりだ

 

 こういうふうで、201912月の3回目の訪問も、特に熱いモチベーションがあったわけではない。22日に到着して、29日には帰国する。たった1週間の旅である。1週間しかないから、どこか直行便のある町がいい。クリスマスのヨーロッパで、東京から直行便があって、しかも最近ご無沙汰の町。するとほぼ、ウィーン1択になっちゃうのであった。

 

1E(Cd) KnallBRUNNERMARKUS PASSION 2/2

2E(Cd) Kubelik & BerlinerDVOŘÁKTHE 9 SYMPHONIES 1/6

3E(Cd) Kubelik & BerlinerDVOŘÁKTHE 9 SYMPHONIES 2/6

4E(Cd) Akiko SuwanaiDVOŘÁK, JANÁĈEK, and BRAHMS

7D(DMv) BLACK MASS

10D(DMv) MILE 22

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