Tue 191008 日記40年/なでしこ/ヴィルフランシュ(南仏カーニバル紀行11)3878回 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Tue 191008 日記40年/なでしこ/ヴィルフランシュ(南仏カーニバル紀行11)3878回

 昭和の日本の人々は、クリスマスごろになるとみんな「来年は日記をつけてみよう」と決意し、文房具屋に立ち寄って「日記帳」を選んだ。何しろ365日分だから、ハードカバーのついた豪華な日記帳は、文学全集の1冊分ぐらいの分厚いものだった。

 

 日記帳の表紙には「常用日記」とか「当用日記」とか、古臭いコトバが飾り文字で印刷されていて、蔦や葡萄のつるや葉の絡まった古色蒼然としたデザイン。1日1ページから2ページのスペースがあり、縦書きページの右端には、◯月◯日◯曜日の「月」「日」「曜日」が薄い緑の文字ですでに印刷されているのだった。

 

 手帳サイズで済ませる人も多かったが、「日記をつけよう」という決意が固ければ固いほど、日記帳のサイズは大きくなった。給料をもらっている大人の人なら、やっぱりしっかりしたハードカバーの日記帳を買い込んだものである。

 

 少年期の今井君はもちろん給料なんかもらっていないから、とりあえず1冊100円の「大学ノート」を買ってきた。優しいクリーム色の紙が100ページ、きちんと白い糸で綴じられていて、表紙には必ず「NOTEBOOK」の文字があった。

(ヴィルフランシュ・シュル・メールでのワタクシ。おかしなボーシについては、下から3枚目の写真を参照してくれたまえ)

 

 コドモの頃から今井君はマコトに気まぐれであるから、「記録をつけよう」「日記みたいなものを書くかな」と決めたのは、晴れやかなお正月とは似ても似つかない、冷たい雨の降る10月の午後のことである。

 

 それが諸君、1978年の今日10月8日、上野の美術館で3時間もかけて「新制作展」を眺めた日のことだった。曜日を記録する必要を感じなかったので、とりあえず「781008」と日付を記入することから始めた。

 

 大判の大学ノートに2ページ、そりゃかなりの分量であるが、コドモはコドモなりにいろいろ書くことがあって、パイロットの万年筆に黒いスペアインクを差し込んで、生真面目な文字でぎっしり書き込んだものである。

 

 ということは、あれからすでに40年以上、ほぼ同じ形式で日々の記録を続けてきたことになる。ほとんど怠けたことはない。大学ノートは1年で3冊もたまり、そのまま1988年まで「ノートに手書き」を続けた。

 (ニース近郊、ヴィルフランシュ・シュル・メールの絶景)

 

 1988年から1997年までは、ワープロを使用。うぉ、ついにワープロの登場であるが、だからそこから先はノートじゃなくて「フロッピーディスク」という恐るべき媒体に記録することになった。

 

 だからそれまでの膨大なノート約30冊は、引越しの時にダンボール箱につっこんだままになっている。段ボール箱のガムテープも、20年前の引越し以来はがしてもいない。

 

「そろそろ捨てた方がいいかな?」とも考えるが、百万分の1ぐらいの確率で今から数百年後、誰かが何かの間違いでどこかにの穴倉から発掘して、貴重な歴史の史料になるんじゃないかと思うと、そう軽々に「ポイ!!」というわけにもいかないじゃないか。

 

 フロッピー時代は意外に長く続いたのだ。アナログな世界に未練タラタラのワタクシは、実は今だって万年筆で書きたいぐらいなのだ。2年前に大阪の老舗文房具屋で「オーロラ」の万年筆を手に入れた時なんかは、危うくMac君に別れを告げそうになった。

 

 だから、ワープロからPCへの移行は1998年4月のことである。もちろんそれ以前に仕事関連の原稿はPCで書いていたけれども、197810月8日から丹念に続けて来た日々の記録だけは、デジタルな世界に簡単に移行させたくなかった。

 

 PCは、シャープからソニーへ、ソニーから富士通へ。200812月、ロンドンのホテルでちょっとした事情があって、その時に「帰国したらMacに変えよう」と決意。Mac君も3代目になり、「ブログ」という形式にしてすでに12年目に入った。

(ニースの東隣、ヴィルフランシュ・シュル・メールの駅に到着 1)

 

 だから諸君、197810月8日以来、ほとんど中断も怠けたこともなく、201910月8日まで来たのである。もしも怠けたことがあるとすれば、それは2018年を過ぎてからのことであって、「4日に1回」だの「5日に1回」だの、こんなテイタラクは若い頃の几帳面な今井君にはありえなかったことである。

 

 だから今日、長く中断している南フランス旅行記を再開しようと考えて191008という日付を書いた時、懐かしさに熱い涙がこみ上げて、しばらく茫然としていた。

 

 茫然としていたのは、朝8時すぎにデスクに座ってから、CDの音楽が止まっているのに気づいた9時45分まで。実に100分以上、茫然とこの40年間の10月の思い出に浸っているうちに、4年前の1020日のことを思い出してまたまた涙が止まらなくなった。

(ニースの東隣、ヴィルフランシュ・シュル・メールの駅に到着 2)

 

 1020日は、「なでしこ忌」である。これはますます南フランスのことなんか書いてはいられない。なでしこが天国に旅立ってからすでに4年、純白のニャゴロワも17歳になろうとしている。人間に換算すれば80歳ぐらいの後期高齢オバーチャンだ。

 

 なでしこ忌が2週間後に迫った10月8日、ニャゴは何だかションボリして元気がない。食欲もあんまりなくて、固いカリカリのゴハンはちっとも食べないし、大好きなはずの缶詰のゴハンを開けても見向きもしない。4年前にお別れした妹のことを思い出して、寂しくなっちゃったのかもしれない。

 

 なでしこのことを書き始めると、このワタクシもまた熱い涙にくれてどろどろダラシなく融解を始めるから、最近このブログの読者に加わった人々のために、毎年恒例ではあるが、4年前の「なでしこラストデイズ」数回分をクリックできるようにしておく。積極的にポチポチやってくれたまえ。

 

Sun 150927 なでしこは10月20日、永眠いたしました(なでしこ ラストデイズ 1)

Mon 150928 なでしこの通夜 派手な姉と地味な妹 新刊書(なでしこ ラストデイズ 2)

Tue 150929 お葬式 なでしこ忌 リュックと麦わら帽子(なでしこ ラストデイズ 3)

Wed 150930 号泣 障子に映ったなでしこの影 ノラや(なでしこ ラストデイズ 4)

Thu 151001 もう号泣は終わり 徳島の大盛況 さあ、音読だ(なでしこ ラストデイズ 5)

Fri 151002 花はおそかった 神田神保町・にゃんこ堂のこと(なでしこ ラストデイズ6)

 

(ヴィルフランシュにて。右側がコクトーの定宿・WELCOME HOTEL)

 

 さて諸君、それではそろそろ「南仏カーニバル紀行」に戻ろうと思う。2019年2月25日、すでにモナコ滞在も終盤にさしかかっていたが、ワタクシはニースの東隣の町ヴィルフランシュ・シュル・メールを訪ねていた。

 

 もとは、漁村である。と言っても、その「もとは」とは8世紀や9世紀や10世紀のことであって、まさに中世の真っただ中。北アフリカから地中海を縦断して襲ってくるイスラムの海賊船を恐れて、人々は急峻な崖の上に村を作り、これを「鷲ノ巣村」と呼んだ。ヴィルフランシュの東隣・エズの村がその典型である。

 

 その後のヴィルフランシュは、フランス勢力とドイツ勢力とイタリア勢力の争いの渦に巻き込まれ、フランソワ1世だのカール5世だのサヴォイア公国だの、まさにヨーロッパ史の主人公たちがシノギを削る場になっていく。

 

 19世紀になってもなお、フランスに属することになるか、イタリアに属することになるか、政情はマコトに不安定であって、いまヴィルフランシュの海岸に立っても、向かって左のすぐ手の届くあたりに、イタリア最西端の町が見晴るかせるほどである。

(ヴィルフランシュにて。海辺のレストランには、テーブルにボーシがセットされている。「春の太陽が眩しすぎたら、ご自由に着用してください」という趣向である)

 

「ジャン・コクトーが愛した町」としても有名。もっとも「ジャン・コクトー」という存在自体が21世紀の若者諸君に通用するか否か微妙なところだ。我が友Macだって、思わず「醬・黒糖」みたいな恐るべき変換をやってのけかねない。

 

 知らない人は致し方ない、とりあえずあとでググってみてくれたまえ。Jean Cocteau, 1889年生まれ、19631011日に死去。おお、命日は3日後じゃないか。詩人で、小説家で、劇作家で、画家で、映画監督。「芸術のデパート」と呼ばれる人だった。

 

 今井君の本棚にも、数冊のジャン・コクトーがある。角川文庫「山師トマ」、岩波文庫「恐るべき子供たち」、河出文庫「大股びらき」などである。「おおまたびらき」とは諸君、あまり感心できるタイトルではないが、これは澁澤龍彦どんの翻訳。いやはや醬・黒糖、なかなかスゲー人物である。

 

 彼がヴィルフランシュに来ると必ず滞在したホテルが今も海岸で営業していて、「ジャン・コクトーお気に入りの部屋に宿泊できます」ということになっている。その名も「WELCOME HOTEL」。うーん、彼の本のタイトルに比べてあまりにも平凡な屋号のホテルである。

 (店のボーシをかぶって、分厚いステーキを平らげる)

 

 かくいう今井君がヴィルフランシュに憧れていたのは、別に「ジャン・コクトーのファンだから」というわけではない。2005年の3月に列車の車窓からこの町を眺めて以来、「どうしても一度この町を訪ねてみたい」「出来るなら長期滞在してみたい」と念じ続けていたのである。

 

 2005年の「ヨーロッパ40日の旅」については、2月8日の出発前日から3月20日の帰国まで、このブログでもすでに詳しく紹介した通りである。真冬のドイツから入り、アルプスを越えて早春のイタリアをめぐり、3月にフランスに入ってマルセイユとパリを満喫した。

(店のボーシをかぶって、ロゼワインを1本飲み干した。2月なのに、たっぷり汗をかいた)

 

 すでに15年も昔のことである。なでしことニャゴロワは20021224日に生まれて、2003年の春には今井君と共同生活を始めていたから、あの旅の時にはすでに5歳になっていた。大人しく2匹、オウチでお留守番をしていたのである。

 

 ジェノヴァからニース行きの急行に乗った。当時のヨーロッパではまだ花形だった「InterCity」である。左側の車窓に、リヴィエラからコートダジュールにかけての早春の海が眺められる絶景の列車旅であった。

 

 2008年3月5日は快晴。ジュノヴァを出て、イタリア&フランス国境の町ヴェンティミリアを過ぎ、マントンとモナコとエズの駅を過ぎてニースの駅に近づいた頃、列車は地中海の湾を左に見ながら大きく左にカーブした。そこがヴィルフランシュの町だった。

 

 あれから幾星霜、留守番中だったなでしこはすでに天国に旅立ち、ニャゴロワもオバーチャンになって夕陽のあたる窓際でションボリ過去を懐かしんでいる。しかし今井君は、気持ちも心も肉体もちっとも老いることなく、こうして懐かしい早春のヴィルフランシュをついに訪ねたのである。2019年2月25日のことであった。

 

 詳細は、次回の記事で。とりあえず今は写真でも眺めて、諸君もいつの日かヴィルフランシュの町を訪ねてみてくれたまえ。今から15年後でも、もちろん構わない。

 

1E(Cd) Solti & ChicagoBEETHOVENSYMPHONIES 2/6

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3E(Cd) Solti & ChicagoBEETHOVENSYMPHONIES4/6

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