以前の回

 



前回「レベル1」は頭脳系の仕事をしてる人なら最低限持っている能力である。
当たり前のことを書いただけなので、本番はここからである。


【レベル2】

これは大学の先生に鍛えられて身に付いたものであった。
もともと自分の性格にもあってたかもしれない。
自分は、

「好きなことは感覚で」(趣味とか娯楽)
「嫌いなことは理屈で」(仕事や勉強)

というタイプなので仕事にはとても役に立った。
大学で身に付いた「レベル2」、その考え方とは、

「あいまいさを一切無くすこと」

であった。
たとえば演習で昔の文書を生徒1人1ページ解読するとする。
んで、担当箇所を解読していくときに、

「ここは具体的にどういうことだ」
「ここはどういう意味だ」

という重箱の隅をつつくようなツッコミが入るのである。
抽象的な解釈は一切許されない。
こういうことを演習でずっとつづけることによって、昔なら全部あいま
いにしていただろう事柄も明瞭に見えてくる。
こういうのが実力なんだな、ってわかってくる。

日ごろ自分が言っている、

「抽象的なことを言う人ほどレベルが低い」

という言葉はこの経験から来ている。

仕事に関しても具体的な人間ほどできる人である。
具体的な方法、具体的な問題点、具体的な指示、具体的な行動、etc……
ここらへんは以前にも述べたことがある。

 


というわけで、こんな抽象的なことばかり言ってないで(笑)具体的な例を
あげてみよう。

ちょうど漢字勉強で白楽天の「琵琶行」をやったので、その解読…というか
解読方法を書いてみる。

(ちょうど、ではなくだいぶ前だけど、この記事を書き始めたのはその頃なので…)



〇「琵琶行」を読むその前に

これは自分もよく思ってるんだけど、解説書などで

「漢詩・漢文は訳を読んでもイマイチ要領を得ない」

と思わないだろうか。
自分はそこらへんが漢詩・漢文を好きになれない理由である。
その理由は簡単で、

「訳のレベルがものすごく低い」

からである。
訳のレベルが低い理由も簡単で、

「古い文章なので諸説ありまくる」

からである。
だから、解説を書いてる研究者は漢学界隈のあちこちから突っ込まれないように
レベルの低いあたりさわりのない訳をするのである。
しかし、その訳や解説を読んだ側からは、

「漢詩漢文はイマイチ何いってるかわからないからおもしろくない」

となる。

例えば自分は東大出身で令和の年号の候補にもたずさわり、NHK講座
なんかもしてたある教授の訳や解説を読んだことがあるが、

「クソみたいな訳」

であった(笑)

一応その方の名誉のために言っておくと、東大出身のしかも教授であるから、
もちろんわざとそういう訳をしている。
クソみたいな訳になるのは上記で書いた理由からである。

しかし漢学を広める重要な立場にあるんだから、自分の地位を守ることを
優先せず、あちこちからツッコミが入るのを覚悟でもっとわかりやすい、
普通の人が「おもしろい」と思うような解説をしろよ、と思う。

そういうわけで、ネット上にある「琵琶行」の訳をしている人にちょっと
人柱になってもらって(笑)、大学で覚えたあいまいさを許さない具体的な
訳…まではいかないけど、考え方をちょっと示してみる。

昔一流大学で中国文学の先生がそういう漢詩の詳細な訳をしてて、わかりやす
くて感動した覚えがある。
ただ、アホな自分は全ての内容をすっかり忘れた(笑)

そういうレベルには程遠くはある。
あと、実際の解説まで行くとかなり労力がかかるので考え方だけ。

そして結構ややこしいかもしれないので、あまり興味無い人は解読部分は読み飛ばし推奨。



〇琵琶行の解読の考え方

「琵琶行」の最初の方のみ読む。
読み下しと訳を検索でひっかかったサイトから適当に。
白楽天の詩は結構わかりやすいから、例としてはあまり向いてないけど…。

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(読み下し)
潯陽江頭(じんようこうとう) 夜客(かく)を送る
楓葉荻花(ふうようてきか) 秋 瑟瑟(しつしつ)
主人は馬より下り 客(かく)は船に在り
酒を挙(あ)げて飲まんと欲するに管絃(かんげん)無し
酔うて歓を成さず惨として将(まさ)に別れんとす
別るる時 茫茫(ぼうぼう)として 江(こう)月を浸(ひた)す


(ネット上の訳)
潯陽江のほとりで夜客を見送った。
楓葉に荻の花、秋は何とももの悲しい。
私は馬から下り、客は船に乗り込んだ。
杯を挙げ酒を飲んで別れの宴といきたいところだが、音曲がない。
酔って楽しく見送りたいのに、沈んだ気持ちで別れの時を迎えた。
別れる時どこまでも広がる川に月影が映る。

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・一行目「潯陽江頭 夜客を送る」

まず「潯陽」。この言葉に

※中国の唐代、現代の江西省北部・揚子江岸の九江に置かれた郡および県名。

などと辞書からとってきた語釈をつけたとする。
点数としては100点満点中「20点」といったところだろうか。

潯陽は現在の江西省九江市潯陽区である。
内陸部の長江沿いにある。したがって「江」は長江のこと。
「江頭」の「頭」は「ほとり」とも読み、「川の岸辺」という意味。

そして、地名だけではなく、その地がどういう意味やイメージを持
っていたかも考えなければならない。
例えば「港区女子」みたいな言葉があるように、地名にもイメージがある。
自分は東京は全く詳しくないが、例えば

港区、世田谷区、足立区、巣鴨、代官山、歌舞伎町、渋谷

に住んでる、と聞かされたとする。
そうすると、それぞれ全然違うイメージを持つだろう。

潯陽は白楽天が左遷された土地である。
その地は当時左遷の地としてどういうイメージがあったか。
例えば東京本社から左遷されるとして、

埼玉、北海道、大阪、沖縄の離島

では、それぞれの意味も全然違ってくるだろう。

というわけで、地理的位置を確認してみる。
すると、この時代、唐の都は長安にある。現在の西安である。
西安は長江よりかなり北の黄河沿いにある。

最初、都の長安から来た友達が帰っていくのかと思ったが、長江からは長安
へは帰れない。
ならば故郷の昔の友達か。
ウィキで白楽天の故郷を調べると現在の「安徽省宿州市」である。
これなら長江を渡って、途中から湖を渡り、近くまで帰ることができる。
ただし実際に調べて発表するとなれば、左遷までに白楽天がどこに住んで来たか、
その遍歴も詳しく調べる必要はある。


・二行目「楓葉荻花 秋 瑟瑟」

「瑟瑟」は風の擬音である。
直訳すれば「カエデの葉、オギの花に風がヒューヒュー吹いている」
となる。
ただ、この場面は物寂しさを表しているので「瑟瑟」がどのような意味を持つ
風の擬音なのかも調べる必要がある。
この訳のように「もの悲しい」といった要素を付け加える必要がある。

ほかに「楓葉」「荻花」が当時どのような意味をもつ植物だったかを調べる
必要もある。
ただ「秋の植物」という意味以外にも何か意味が含まれているだろう。


・三行目「主人は馬より下り 客は船に在り」

ここまで送って来たホストの白楽天が馬から降りて、客は帰るための船に乗っている。
文章通りの解釈ではちょっと物足りない。
これも当時のことを調べる必要がある。

まず、主人は馬より下り、とあるが、馬に乗って来たんだろうか。
それとも馬車的なものだろうか。
そうすると、客はここまでどうやって来たんだろうか。
同じく馬に乗って来たのか、それとも1頭の馬で二ケツしてきたのだろうか。
わかるなら当時の移動手段を調べたい。

こういうちょっとした文章でもイメージが湧くと詩に対する想像・理解がだいぶ違う。
例えば現代なら、

「主人は車より下り、客は構内にあり」

なら、

「ホストが家から客を車で送ってきて、駅前で車から降りて、構内にいる客を見送っている」

という情景がすぐ浮かぶ。
文章を理解するにはその時代の文化を理解する必要がある。


・四行目「酒を挙げて飲まんと欲するに管絃無し」

当時の宴会の様子はどうだったかを調べる必要がある。
送別会は音楽があるのが通常だったか。
現在の屋形船のようなものだったのだろうか。


・六行目「別るる時 茫茫として 江 月を浸す」

最後の「川が月をひたしている」という表現がわかりづらい。
また、何を意図した文なのかも考える必要がある。

訳では「川に映った月」と訳しているが、「川に浸かった月」としている訳もあった。

自分も「川に映った月」なのかなと思った。
そしてこの一文によって詩中の現在の時間、「川に映った月」がはっきり見える南中の
時刻、夜の0時あたりであることを示しているのか、ではないかと。

ただし月が沈む「月没」「ムーンセット」もあり、当時の季節や月没時間、また月没
に対する文化を調べる必要がある。


以上。
手間がかかるので一つ一つは調べてはいないが。
ただ、調べたが結局解らないこともある。
でもそれは別にかまわない。
重要なのは、

「わかることとわからないことをはっきりさせる」

ことが重要である。



〇良く考えられた文章ほど一言一句意味がある。

普通の人からみると細かいと思うかもしれないが、優秀な文章であるほど一言一句全部に意味がある。

世に伝わってきた文章、詩、句名その他、名文は全部そうである。
創作物は何でもそうだが、名文を作る側は読む側からは想像もつかない労力を費やしている。

そうでなければ名文にはならない(ただし例外もあるが)。
 

また、深く詳しく調べられた論文も同様に一言一句に意味がある。

昔自分が書いた文章に関することを思い出した。

自分が書いた文章を研究的なことをしたことがない人が「引用」という形で使った。
んで、そこそこ長い文の中一か所だけ勝手に変えていた。
でも、たった一か所なんだけど、

「そこをその表現にすると意味が変わってくる」

という経験をした。
そして複雑な気持ちになった覚えがある。
1か所でも変えるなら自分はその文章について責任は持てないし、それなら私じゃなく
「自分が書いた」ってことにしてくれないかな、と思った。
論文的な文章は、何気ない一文でも何らかの意味や考えがあってそういう表現にしているのである。
自分がそうされたことによって、引用文は

「絶対に変えてはいけない」

ってことを思い知った経験だった。



〇漫画「花もて語れ」

私が今回レベル2で言いたいことを具体的に提示してくれるのがこの「花もて語れ」という漫画である。
自分は無料で読めた1巻しか読んでないけど、その中で

宮沢賢治の「やまなし」

をどれだけ具体的にイメージして朗読できるかを追求している。

作品への理解を深めることによってより朗読に深みを持たそうと試みる。
自分にとっては今回の記事の内容は「まさしくこれ」である。

漫画としてもおもしろいので読んでみて欲しい。
自分もまた生活が安定したら続きを買って読みたい。



〇仕事に関して

こういう態度は文章の解読的な物事にかかわらない。
色々な仕事に関しても具体性があるほど優秀なのは同様である。

例えば個人の小売店が仕入れをするとする。

「なんとなく普段の感覚から適当に仕入れて物を売る」

という抽象的な人より、

「過去に販売した品、買った人の年齢性別をちゃんとデータ化し、それによって仕入れを決める」
「その町の人口や年齢性別、家族構成などを調査し、これから何が売れるのかを類推する」


など具体性のある人の方が有能なのは理解できるだろう。



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以上【レベル2】に関して書いた。

書くのが面倒だったので(笑)前回よりだいぶ間があいた。
でもなんとか書き留めて残しておきたかった。

今までをまとめると

レベル0……アホ
レベル1……論理的思考
レベル2……具体性(抽象性を排除)←今回ここ

となる。

さあ、次はレベル3だ…。
でもこっちの方が書くのは楽なはず。