イルジメ〔一枝梅〕 公式応援ブログ -20ページ目

「イルジメ」は「復讐」ドラマではなく、真っ直ぐな魂のドラマである

皆さん、アンニ・ヨン。


毎回長すぎて読みにくいなぁと反省し、短くシンプルにいくことを決意。日々「イルジメ」で思ったこと、感じたことをアップしていこうかなと。ま、時々長文もありで(笑)


さて。最近、仕事の関係で「復讐」をテーマにした韓国ドラマを立て続けに見ていて、時代劇も現代劇も「復讐」ものが多いなぁとあらためて痛感。「奪われた本来あるべき自分」を取り戻そうと、男達は仇に向かって(下手すると、“国家”“富裕層”とか漠然とした目に見えない仇に)闘いを挑むわけだが、なんだか『イルジメ』だけが違う感じがするのだ。

何が違うんだろう? どこが違うんだろう? つらつら考えてみたのだが、どうも「野望」の問題のようだ。大抵の「復讐」ドラマでは、復讐する側には大きな「野望」がある。『エデンの東』では、主人公ドンチョルは父を殺した男を復讐するべく、カジノのトップにのしあがり社会的地位の逆転を狙う。「復讐」そのものがテーマではないが、『朱蒙』をはじめ時代劇の物語の核になるのは「野望」であり、その中には「復讐」のドラマが必ず入ってくる。家族を崩壊された者の復讐(ex『魔王』)、自分のプライドを傷つけた者への復讐(ex『バリでの出来事』)、そういうものを心に抱くキャラクター達のほとんどは、社会的にのし上がることで復讐を果たしていく。つまり、ある意味「野心家」なのだ。「復讐」は「野望」に支えられて、実行されていく。それも、冷酷に、容赦なく、つぶそうとする。


が、イルジメ=ヨンに、社会的地位を獲得しようというギラギラした野心はない。あくまでも、「父を殺した男を捜し出し、その男に詫びさせる」というのが、ヨンの望むところの「復讐」である。変なギラギラ感がないから、「時代劇」っぽく感じず、従来の「復讐」ドラマのようにも感じないのだろう。

あくまでも、今いる場所で、今の自分のままで、大きな地位、金や権力を望むこともなく(だって、科挙や両班という地位に興味がないですもん)、ものすごくピュアな気持ちで「復讐」に挑んでいくヨン。そういうところがドラマとして新しく、そういうところに深く打たれるのだな、きっと。


ある本にこうあった。


「韓国で、道徳のイメージは“青春/革新”である。

それは旧体制への反抗と、新体制樹立への原動力でもあるのだ。

青くさいが、青春の爆発力をもつものだ」


これを読んで、思わずヨンを思い出した。ヨンの「復讐」は「道徳」なのかもしれない。

なんか、深いぞ!


だから好きだヨン!「記憶喪失」の秘密

アンニ・ヨン・ハセヨン。


毎回、長い文章ですみません。読みにくいと思われるので、少し絞ることにしますね。

それと、アジドラ放送時にやっていたブログの方が終了しています。未読の方にも以前の記事を読んで頂きたく、時々加筆修正して紹介したいなと思っております。すでに読んでいる方には重複になりますが、ご了承&お付き合いくださいませ。

で、今回のテーマは「記憶喪失」。これについては、以前のブログ記事にあるのですが、ちょっと手直ししてみました。


で、前回、「残酷で悲しい運命を生きながらも、ねじ曲がることなく、明るく伸びやかに育ったヨン」が魅力なのだと書いた。そうなのだ、このドラマの魅力は多々あるのだが、やはり一番は「ヨン」なのである!(すみません、すでに熱くなってきました)


わたくし、初めて「イルジメ」を見たとき、そして字幕つきで初めて見たときも、頭の中がヨンでいっぱいになってしまった覚えがある。もう病気のように、一日中、ヨンのことばかり考えてしまう。

ヨンはどんなにつらいだろう、どんな気持ちで笑顔を振りまいているんだろう、

どうしたらヨンを幸せにさせてあげられるだろう、誰かヨンを助けてくれないだろうか、

みんなヨンの苦しみに気づいてやってくれ~、ヨンがイルジメだって分かってあげて!

…ドラマの中の架空の人物であるにも関わらず、私の頭の中ではヨンがリアルに生きており、彼を思って泣き、彼を思って胸を痛めて日々を過ごしていた。もう廃人状態。

友人にも「今日、ヨンの記憶が戻りました!よかった!」といったメールを始終送りつけ、彼の身の上に起こった悲劇を思い出しては泣いていたのである。

しかも、その後も何度も見ているのに、そのたびに「ヨン」への想いを募らせている…。

だって気にかかるのだもの、だって愛おしいんだもの。

どうしたら、ヨンから感じてしまうこの魅力をうまく伝えられるだろう? 


で、聞けば、制作担当の男性スタッフもハマって見ており、「韓国ドラマで初めて泣いた」と熱く語っている。曰く「切ないんですよ!」

…うんうん、分かるよ、よく分かる! 胸の痛むキャラクターなのである、ヨンという青年は。胸が痛むということは、それほどリアルに伝わってくるということで…。

で、かと思うと、可愛いところもあったりして、あ、でもそれが逆に切なかったりして、と、見ていると、いろんな感情に揺さぶられるのである。あぁ、ヨン! 

すみません、今、ドラマを思い出して少し泣いています(苦笑)


で、その鍵となるのが「記憶喪失」である。韓国ドラマの定番である。『冬ソナ』を筆頭に、主人公が2度も記憶を失う『ラストダンスは私と一緒に』や、記憶喪失でキャラが思いっきり変わってしまう爆笑ものの『ファンタスティック・カップル』、新しいところでは『カインとアベル』、『花より男子』も日本原作だが記憶喪失エピソードが盛り込まれていた。これだけあると、ネタとしては新鮮味はない。

このあたりのことが気になり、チェ・ラン脚本家に聞いたことがある。チェ作家自身は


「当初はギョムを完全に記憶喪失にするつもりはなく、記憶喪失を装いながら、正体を隠して生きている設定を考えていた。記憶喪失というあまりに陳腐化した素材を使うことに抵抗があり、視聴者もまたかと感じると思ったから。でも、監督に説得されて記憶喪失という設定に変えることにした」と言う。


では、監督がなぜそう説得したのか?

あえて陳腐化した記憶喪失を扱うことにした謎を解くべく、イ監督に問うたところ、こんな答えが返ってきた。


「もしも、幼い子供があんな残虐な出来事を目の前で見て、その体験したものや自分の正体を隠しながら生きていくことは可能だろうか? もしそのように生き続け、成長したとしたら、その子供はサイコ以外の何者でもない」


「その記憶、体験は幼い子供が抱えるにはあまりに大きな苦痛で、人間性を歪める可能性がある」と。


つまり、幼いギョムが持つ心の真っ直ぐさを維持するためには、記憶喪失が必要だったのである。それを聞いて、私も納得。だから、9歳の少年ギョムが元来持っていた優しさや強さが、記憶喪失のためヨンと名づけられたのちも残ったわけである。これは深い。


記憶喪失とは、その人間がどうしても忘れたい辛い思いを胸に抱えている時に起こりがちだという。そのつらさを消してしまいたいという気持ちが働き、記憶に操作される。ギョム(ヨン)も、父親を目の前で殺され、家族が離散させられるというつらさから逃れたかったのだろう。そして、ギョムが体験した出来事とは父親が暗殺されたこと以外、その死体を引き裂かれる現場を目撃したこと、生き残るために自分の母親に石を投げつけたことなどがある。自分の母親に石を投げつける! 儒教国家・韓国の人たちが親をどれだけ敬い大事にしているか、ということは周知の通りである。してはいけないことをしてしまった…その罪悪感も大きかっただろう。自分がしたことで、自分自身も深く傷ついたに違いない。しかも、当時ギョムは9歳、幼い心には重すぎる体験だ。


ちなみに、上記にあげた作品で記憶を失った主人公たちは皆、成人である。が、ギョム(ヨン)の場合は、わずか9歳の時に起こった出来事。幼少期のショックで記憶を失った物語といえば、他に『復活』があげられるが、幼少期に失った記憶を大人になって取り戻してしまった人間の切なさ、孤独というのは、成人の記憶喪失以上に深く、痛々しい。

だって、幼少期の記憶って人間にとって、ものすご~く大事なものだもの。


話を戻そう。韓国ドラマの定番のように言われるこの素材だが、それが物語上、必要な要素、理由ある展開であれば、逆に効果的な要素となると思う。「あり得ないっ?!」という出来事が盛りだくさんでも、それがドラマ。あり得ない物語の中でも、迷い、悩み、喜び、悲しむ、キャラクターたちの揺れ動く心情がリアルに胸に迫ることがある。大事なのは、そこに描かれている登場人物の心情に共感できるか、その心の動きがリアルかどうか、なのだ。『冬ソナ』『1829』、そして『犬とオオカミの時間』。これらは、いずれも記憶喪失を素材に、胸を打つ物語を作り上げた好例だ。そして、『イルジメ』もそのひとつと言えよう。


例えば、記憶を取り戻したヨンは、亡き父や、どこかで生きているだろう母と姉のことをそれまで10年以上も忘れていたことに対する申し訳なさや、自分自身の不甲斐なさに落ちこみ、涙することになる。また、これまで実子として育ててくれたセドルやタンに対する感情も、ただの甘えとは変わっていく。ネタばれになるので詳しいことは伏せるが、彼が記憶を取り戻したことにより周囲に様々な被害を与え(でも、正体は明かしていない)、ヨンは「記憶なんて戻らなければよかった…」と自分自身を責め、苦悩するようにもなる。が、これらの葛藤、苦しみは、ヨンがイルジメというスーパーヒーローになるのに必要な要素。なぜなら、人は痛みを知ってこそ、人に優しくなれる。人の痛みを敏感に察し、それを救うべく行動することができるのだ。

そういう意味で『イルジメ』における記憶喪失はうるさくなく、不自然でなく、むしろ共鳴の要素を生み出していく。


大体、記憶喪失についてツッコミを入れたくなる気持ちさえ沸かなかった。(『冬ソナ』では泣いたけど、好きだけど、ツッコミながら見ていた)記憶喪失がリアルに受け止められた希有な例である。だからこそ、イ・ジュンギも『犬とオオカミの時間』に続く記憶喪失キャラにもかかわらず、出演を決めたのだろう。


というわけで、イルジメ=ヨンの魅力のひとつに、「ギョムからヨンになり、イルジメとなる展開の無理のなさ=リアルさ」があると思う。ギョム、ヨン、イルジメという3つの名前、3つの顔という、一見「あり得ね?」という設定に、しっくり、どっぷりハマらせられるほど、キャラクター像がしっかりしているのだ。その軸のブレない人物像にぐいぐい惹かれていくわけである。


ごちゃごちゃと書いたが、ほんと、ヨンというキャラクターは、人の心の中に入ってきて、そこで生きちゃうのですよ。頭の中で、リアルな人間になってしまう。それって、すごい力だと思います。「キャラクター力」!


というわけで、今日のところは店じまいに。

次回のネタは…何にしようかな。長すぎないのにしようと思います。

では、これにて、アンニ・ヨン!

教えてヨン!両班社会ってどんなこと?締めの巻

皆さん、アンニ・ヨン・ハセヨン


両班とは何ぞや? 4回目を迎えておりますが、少し整理しましょう。

朝鮮時代においては、科挙に合格して官僚となった人々など支配階級を指し、身分階級で最も高い地位にあったのが「両班」です。で、両班の生き方とは、日々学問にいそしみ、肉体労働など卑しいことをすることなく、また俗世に汚れることなく「高貴」に生きることであり、韓国人にとっての理想、憧れでした。

ここまではOKですよね?


セドルは2人の息子ヨンとチャドル(シフ)のことを、「可哀想な子だ」と口癖のように繰り返しているが、その心は? この思いこそがセドルの息子達への深い情愛に繋がるのだが、その裏には、両班イ・ウォノの高貴な血が流れているにも関わらず、自分のような卑しい身分の息子として生きることになった2人への申し訳なさ、不憫さが胸一杯にあるのである。だから、どうにか学堂に通わせ、科挙に合格させて、元の身分である両班に戻してやりたいと強く望んでいるのである。それくらい、両班とは「人間として素晴らしい」ものという認識があったのだろう。


が、現実はそう簡単なものではない。高級官僚はほとんど世襲のようなものだったらしく、大臣の息子が大臣になる、といった23世官僚がごろごろしていたわけである。ピョン家のバカ息子(苦笑)シワンが能もないのに容易に出世できてしまうのは、そういう理由である。逆に言えば、卑しい家に生まれた人間は例え優秀で科挙に受かったとしても、高級官僚につくようなことは滅多になかった。「科挙、科挙」とうるさいセドルに、ヨンは「科挙に受かったとしても、下級役人がせいぜいで、低い身分の人間には出世なんて知れている」といったようなセリフをはくが、それが現実だったのだ。


セドルやタンら、庶民が渇望する「両班」という素晴らしい身分…だが残念ながら「両班」に属する人々の皆が皆、ウォノのように「高貴」な生き方をしていたわけでなく、例えば、ピョン・シクのように権力と富にまみれ、身分の低い人々から搾取するような両班も多かった。また、そういう権力者たちが政治を腐敗させていたのである。

さらに、ウォノのように高潔な人間でも、庶民の真実を知り、その心を理解し、守ってやることは難しかった。愛するタンを守れなかったわけだし、身分の違いを乗り越えるのは、物理的にも精神的にも簡単なことではなかったのである。だからこそ、庶民の心を知るイルジメが、多くの人々から支持されたのだ。


ちなみに、この時代、漢陽(今のソウル)では住む地域によって「両班」のタイプが大きく分かれていたようだ。王宮(景福宮)周辺で北岳山のふもとに位置する「北村(プクチョン)」に住む両班には、権力の中枢を握る官僚たちが多くいた。で、清渓川を挟んで王宮の南側、南山のふもと「南村(ナムチョン)」には、権力と富を排除し、体制両班を批判する「高貴」な両班たちや貧しき知識人達が集まり住んでいた。おそらく、ピョン・シクが住んでいたのは「北村」周辺で、イルジメが狙ったのはこの地域の両班達の屋敷だろう。ウォノの家、つまりギョム(ヨン)の生家は「南村」周辺であった可能性が高い。セドルやヨンが暮らす「南門市場」も調べたのだが、正確な場所は分からず…。が、名称からいって、漢陽の南の地域であったと推理され、セドル一家が住む場所とヨンの生家はそう遠くない距離だったのではないかと思われる。

タンとウォノが別れて10年もの間、非常に近い場所で住んでいながら会うことがなかったのが不思議だが、それは「両班」と「庶民」の生活はそれくらい接点がないものだったということなのだろう。


で、悪者のように思われがちなピョン・シク、シワン父子だが、話がすすむにつれ、彼らもただの悪者ではなく、むしろ哀れな存在であることが分かってくる。「両班」ではあるが、科挙に正当な手段で受かったわけではない無能なこの父子は、高貴な両班たちの中で「無能」コンプレックスを持って生きている。自分の無能を知り、両班社会の中でバカにされて生きる彼らは、そのはけ口を自分より身分の低い民に向けるのである。悲しいねぇ。



また、能力がありながらも、庶子であるため(しかも母親は賤民)正当な「両班」と認められず、両班社会の中で見下げられるシフも、「庶子」コンプレックスでゆがんで育ってしまうのだ。庶子とは、私生児、正妻以外の子供のことである。

と、ここまででなんとなく、両班社会について分かって頂けただろうか? お堅い話ばかりしてしまったが、今後も「両班」という言葉は、セリフの端々に出てくると思うので、今まで解説したようなことをイメージしつつ、見進めて頂きたい。


それにしても、高貴な両班の血を引きながら、庶民の中で育ったヨン。彼の魅力は、この二面を持っていることだろう。ウォノの血を引いた高潔な正義感、セドルから受け継いだ庶民のたくましさと深い情…残酷で悲しい運命を生きながらも、ねじ曲がることなく、明るく伸びやかに育ったヨン。それはなぜか? ということについては、また次回。


では、今日はこの辺で、アンニ・ヨン~!