名利を離れて修学すべきこと | 海からのたより

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海龍王寺住職のブログです。

今日は、真言律宗の宗祖であります「興正菩薩叡尊」さまが残された言葉について書いてみたいと思います。

鎌倉時代当時の修学者の実態は、名聞(世間の評判)や利養にために仏法を学んで、律儀(身を律すること)の無い者となって地獄に堕ちる業因(報いを受ける原因となる行為)を根付かせている。
靜論の教理のために仏法を学んで世知弁聡(せちべんそう)の者となり、折角、仏法に遇いながら八難の隋一(いずれかのひとつ)となって、地獄に堕ちる業因をつくっている。
実に悲しむべきことである。よくよく考えることである。

とのお言葉があります。



世知弁聡とは「世知にたけて、こざかしいこと」
八難とは「仏が見えず、法の聞けない八種の境界


地獄  
餓鬼  
畜生(以上の三悪道は苦痛が激しいため仏の声が届かない)
長寿天(長寿を楽しんで求道心が起こらない)
辺地(ここは楽しみが多すぎる。人間の欲望がうずまいている世界。)
無感覚(見る、聞く、話す、嗅ぐ、触れる、味わう、思うに欠陥があるため、仏の価値に気づかない)
世智弁聡(世俗智にたけて正理に従わない)
仏前仏後(仏が世におられない時期(末法))


が八難になります。

私は、この中の「世知弁聡」について、考えるところがあります。

お気づきかもしれませんが、世知とは仏教語でありまして、「世智辛い」とは計算高い・こざかしい・抜け目がないなどの意味があり「世智辛い世の中」とは、人々が打算的になって、世渡りがしにくくなることをいいます。
ところが、世渡りばかりにうつつをぬかしていると、大にして、大切なことを忘れてしまうということがあります。

今、話題なっておりますお米の問題にしても、たくさんの会社を通すことで事故米が普通米に変えられており、また流通ルートを複雑にすることで、偽装をわかりにくくしようとしたとも言われていました。
利益を求めたため、大切なことを忘れてしまわれたのでしょうか。

私は、世の中のしくみそのものが「世知弁聡」となる人間を、次々と生み出しているような気がしてなりません。
人に負けないために「世知弁聡」となり、人を騙すために「世知弁聡」となる。
騙されないようにするには、騙そうとする者より「世知弁聡にならなくてはならない」という悪循環に陥っています。

この彼岸花のように、真っ白な心のみで生きていける世の中はやってくるのでしょうか?
真っ白な心を、自身で引き寄せることが出来ますよう、どうぞご精進ください。